死体と注射

 ポーン、と午後5時を知らせる電子音が響いた。時計は見当たらなければ窓もなく、常に一定の明るさが保たれているここでは、その音が時間を知る頼りになる。

「よし、やめだやめだ。あァー腰が痛ぇ……」

 思っていたよりもずっと時間が経つのは早く、身体に強いていた負担も重かった。

 何せ随分と巨大な水槽である。とても1日では掃除しきれるはずもなく、終わりはまだまだ見えない。それでも大分進んだ方だろう。根気(或いは意地)も体力もあり、清掃員としては非常に優秀な鮫神である。

 端まで泳ぎ着き、梯子を登る。纏わりつく水と藻を振り払い、ぬめって気持ち悪いことこの上ない身体をホースの水で洗い流した。その冷たさと水圧が心地よい。が、違和感は一向に消えず、身体を丹念に擦っても残り続けた。

「最悪だな。まァ、死体処理か改造手術よりはマシか……」

 濁りきった水もなかなかに嫌なものだが、死体処理の際は、藻の代わりに血と内臓だ。被験体の息の根を止めるところから、解体、焼却、はたまた摂食。どこまでを請け負うかは時によりけりだが、間違いなく気持ちのいい仕事ではない。

 頭がくらくらするほどの血の臭いを嗅げば、悲しいかな、腹が減るようにつくられているのだ。本能のままに同胞を貪り食い、後になって気が滅入る。しばしば嘔吐する。

 改造手術もなかなかに不快なものであった――手術台に縛り付けられ、正体の分からない薬剤を大量に打たれ、好き勝手に身体を切り開かれて弄り回されるのは、たとえ麻酔が効いていたとしても苦痛でしかない。しかも暫くは副作用で寝込むことになる。のたうち回る羽目になることもある。尤も、それらの手術のおかげで今の身体と体力があるのだが。

「ロクなもんじゃねぇな……おい、スイ」

 ぴょこ、と小さな金髪頭がトロ舟の縁から飛び出す。そしてそのまま勢い余って――

「おいッ!」

 掃除途中の水槽の中へ落ちていった。


 ぼしゃん、と間の抜けた水飛沫が上がる。

「アホかテメェは! 自力で登れねぇんだから落ちるんじゃねぇよ」

 十分な量の水が残っている水槽だ、落ちたところで心配はないが、彼女には腕も足もない。引き上げてやらねばなるまい。

 溜息をつきながら鮫神は再び濁った水に身を投げ、ぷかぷかと浮かぶ金髪を掬った。そして一瞬、動きを止めた。

 髪だけだ。頭がない。

「はァ? お前、もしかして……」

 果たして、水面に出てきたのは卵のようにつるりとした頭だった。と、いうことは。

「カツラかよ。道理で綺麗な訳だ」

 スイは頬を膨らませて鮫神の腹に頭突きした。但し弾き飛ばされたのは彼女の方だった。

「怒るんじゃねぇ、ちゃんと洗って洗って付け直してやるからよ。行くぞ、オラ」

 うー、と唸るスイを肩に担ぎ、カツラを手に、鮫神はまた梯子を登った。

「あーあ、折角一回洗ったのに台無しじゃねぇか、まァたぬるぬるだ……もう落ちるんじゃねぇぞ、拾いに行くのは俺なんだからよォ」

 そんな風に愚痴をこぼしながらも、スイの身体と髪を丁寧に洗ってやる鮫神。きっと、根は優しいのだ。

 人間につくられた哀れな生物、という同族意識も手伝ったのかもしれない。虐げられればられるほど、仲間を大切にしたくなる。そんな反動がそこにはあった。

 研究所の人間共にいいように扱われてたまるか、という、逆戟から受け継いだ反骨心も、まだ死んではいなかった。


 機嫌の治ったスイを構っているうちに、電子音に呼び出され、鮫神は搬入口まで降りた。扉の横にある小さな出し入れ口から、S159-04とラベリングされた注射器と錠剤の載ったトレーが出てくる。一緒に運ばれてきた、

 見慣れぬ薬の小袋と液体の入ったボトルは恐らくスイのものなのだろう。

 トレーを受け取ると、更に奥から何かが出てくる――未成熟の幼体だった。スイと似たような姿形の。

「コイツも《失敗作》》、か。全く趣味の悪い野郎だぜ」

 水谷の顔を思い浮かべ、顔を歪めた鮫神であった。これが彼の今日の夕飯、というわけである。悪ィな、だがお前を食って得た血肉でいつか仇を討ってやるからよ、と死体に言い聞かせ、彼は罪悪感を説き伏せた。


「スイ、これはいつも飲んでたやつか」

 小袋とボトルをひらひらと振ると、スイはこくりと頷いた。

「よし、口開けろ」

 ぱか、と開いた小さな口の中に、鮫神は薄いオレンジ色の液体を注ぎ込んだが――

「馬鹿野郎ッ、こぼすな」

 スイが急に動いた、と言うよりは、鮫神が彼女の口の大きさに対してボトルを傾ける角度を少々誤ったようで、幾らか溢れた薬が水溜りを作った。

「……やっちまったな」

「べつにいい。このくすりきらいだから」

「喜ぶな。そういう問題じゃねぇんだ……ま、この程度ならいいか。誤差だ誤差」

 掃除以外のことに関しては決して几帳面ではない。気にする鮫神ではなかった。


 研究所で管理されている生物は、ほとんど食事らしい食事を摂る必要がない。生命維持のための栄養素は注射か点滴で注入するからだ。もしもスイが自然界に生きるとするならば、一体何を食べて過ごすのだろうか。そんな、考えるだけ無駄なことを考えた。

 先程のボトルに水を汲み、袋を開けて粉末状の薬を飲ませると(今度はこぼさなかった)、鮫神は自分用の注射器を手に取った。

 最早何の感慨もなく、次々と針を刺し、プランジャーを押し込む。シリンジの中には得体の知れないものばかり、それらが今日も身体に入ってゆく。果たして本当に全てが必要なものなのかどうかさっぱり分からないが、疑問を呈することを止めてから久しかった。

 既に相当な濃度と量の薬を投与されていたが、彼は幸い薬物中毒には至っておらず、特段、身体に異変もない。外界と隔絶された無法地帯、科学の暴力に晒された者たちが蠢くスラムの中にいるにしては、相当幸運な方である。

 薬に殺されるならそのときはそのときだ、と疾うに観念していた。死なない方がおかしい。そして薬剤に関する知識などまるで持ち合わせていない鮫神には、自衛の手段もないのだから。


 錠剤も纏めて口に放り込むと、トレーの上には空になった十数本の注射器とボトル、袋のゴミが散らばった。手が血で汚れる前に、返しておいてやることにした。


 配給口からトレーに載った薬が差し出される。飲み終わったら配給口へトレーを返す。

 毎日のルーティーンだが、生産管理されているようで不快だった。いや、現に生産管理なのか――

 いっそのことはらわたでも盛って返してやればいいのかもしれない、と常々思っていた。しかし、哀れな同胞が自分の残飯として廃棄されると思うといたたまれず、結局彼が同胞の死体を完食しない日はなかった。

 再び水槽の裏へ上り、いよいよ固形物にありつく。栄養は足りているはずである、本来ならばこんなものを食べる必要はないのだ。だが、毎日のように多かれ少なかれ肉を食わされてきた結果、何か食べなければ耐え難い空腹を感じるようになってしまった。全く恨めしいことだった。

 供されたのは歪な形の幼体だった。体長は50センチほど、スイと違って腕らしきものは生えていたが、妙に膨らんだ身体は風船を繋ぎ合わせたかのようで、そんな身体に不釣り合いな頭の大きさが目立った。

 数時間前まで培養液に浸かっていたのであろう生白い皮膚に牙を立てようとし、鮫神は――元から丸い目を更に丸くして、抱え上げたものを見ているスイへ目を向ける。

「お前の死んだお仲間サンだ、悪ィけど食うぞ。見たくなかったらあっち向いてろ」

 スイが目を背ける風はない。

「見たきゃ見とけ。俺に掃除屋なんつー呼び名が付いた理由だ、これが」

 そう言うと鮫神は、一思いに死体の頭を食い千切った。


 びしゃりと飛んだ血がスイをも斑に染めた。

 めきめきと音を立てる頭蓋骨ごと噛み潰す。サメの咬合力を以てすれば、幼体の脆弱な骨など簡単に砕ける。粉々にして、骨も肉も脳味噌も目玉も、全部一緒くたにして飲み込んだ。正直、頭はあまり好きではない。味が喧嘩するからだ。

 首から噴き出す血を啜り、肩から腕を噛み千切る。それから胴体、内臓を引きずり出して口に詰め込み、その後で肋に付いた肉を食う。じわりと広がる苦味と、溢れる血の塩辛さが舌を焼いた。上半身がなくなれば残るは下半分、ほぼ魚だ。こちらの方が美味である。


 ――結局、鮫神はものの数分で与えられた死体を腹に収めた。その間、スイはずっと同胞が食われてゆく様をまじまじと見ていた。


 口元を真っ赤に染めた鮫神は言う。

「やっぱり見せるもんじゃなかったかもしれねぇな……どうだった、俺のことが怖くなったか」

 血が涙のように頬を伝う。その赤い雫を吹き飛ばして、彼女は首を横に振った。

「こわくない。だってさめがみ、すいのことはたべない」

「どうだか」

 にやりと笑って肩を竦めれば、スイはびくっと飛び跳ねる。

「……たべちゃう?」

「ハッ、冗談だ。取って食いはしねぇよ、安心しな」

 ちょん、とスイの額をつつき、鮫神は立ち上がってホースを手に取り、スイに彼女に水を浴びせた。そして床の血溜まりと自分とを洗い流した。

 赤茶色の水は水槽へ流れ込んでいった。

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