削られた爪牙
ただでさえ濁り気味だった水は、鮫神が掃除を始めると、瞬く間に目の前も見えないような茶緑色になってしまった。
「駄目だこりゃ、埒が明かねぇ。クソッタレ、こんなもん水抜かなきゃ掃除できねぇぞ」
ぶつぶつと文句を言いながら彼は尚も壁を擦っていたが、彼の悪態も強ち間違いではなかった。水を抜きながら、水の上に出た部分を洗い流しつつ底まで綺麗にしていった方がよほど効率がいい。結局鮫神はそのように方針を転換することを決めた。
「おい、お前は一旦外出てろ」
「……そと?」
「水槽から上がれ」
「……みずのなかがいい」
「あァ? じゃあその辺の水槽に移すぞ」
そう言って鮫神が見やるのは大水槽の外、立ち並ぶ無数の培養槽と水槽。
「やだ。そこがいーい」
しかしスイは泳いでいき、大水槽の縁にちょんと顎を載せた。腕がない彼女は、それで場所を指し示しているつもりらしい。
「そこは通路だろうが……しかもおい、そこに水も用意しろってか?」
スイはこくこくと頷く。
「面倒っくせぇガキだな……」
そう言いながらも、鮫神はスイの要望に応えてやろうと辺りを見回した。彼女が入れる程度の何かがないかと――そして発見した。
「そんな具合のいいもんはねぇからバケツだぞ、バケツ」
バケツ、ではないが、彼は漁業用の水槽のようなもの――厳密には水槽ではなくいわゆるトロ舟、プラスチックの浅型容器が片隅に積み重ねられているのを見つけた。メダカを飼うときなどに、水槽代わりに使うあれである。それを担いで来、ホースから迸る水を当てて軽く洗い流し、水を張ってやった。
「狭ぇだろうが、文句言うんじゃねぇぞ」
ひょいとスイを抱え上げ、中に下ろした。と言うより、詰め込んだ。やはり多少は窮屈そうだが仕方ないだろう。
黒と白、ぼんやり光る青と冷たい銀。シックで近未来的な、統一感ある研究室に、目が痛いほど青一色のトロ舟は、かなり場違いで不気味に感ぜられた。培養槽の中にいるよりも余程生々しく、彼女が『養殖』されたということを思い知らされるようで――。
「よし、そこで大人しくしてろ。今日はずっと掃除だぞ」
ぴょこりと顔を出したスイにまじまじと見られつつ、鮫神は再びブラシを手に大水槽へ飛び込んだ。
粗暴な言動とは裏腹に、彼はその実、掃除に関しては真面目な仕事人だった。微塵の曇りも残さぬようちまちまとガラスを拭き上げる様は、その図体を鑑みれば些か可笑しいものである。だが、そうして何かに没頭していなければ、到底正気を保っていられなかったのかもしれない。何しろ暇なのである。気が狂いそうなほど。
寝るか、身体を鍛えるか、掃除をするか。鮫神の自由時間というのは、ほとんどその三択で成り立っているのだ。というのも、鮫神に許されている行為がそれくらいしかないのである。
部屋はさながら無駄に清潔な監獄だった。白壁、白床、白天井、せめてもの救いは通路に面したガラス張りの壁。それがなければ閉塞感で窒息死していただろうが、かといってそれがあるから開放感があるかと言えば、決してそんなことはない。所員の往来と不躾な視線が鬱陶しいだけである。
バイオメトリックスの扉と自動狙撃銃は脱獄を許さない。外の空気を吸いたくなったときは、運動か労働を願い出るしかなかった。走り、泳いで気怠さを振り払い、サンドバッグに苛立ちをぶつけ、同じ鬱屈を抱えた被験体たちと殴り合う。あるいは思考を放棄して掃除に専念し、全てを忘れる。
以前はもっと自由だった。限られた区画の中であればある程度好きに動き回ることができたし、他の被験体とも頻繁に顔を合わせていた。
それが今や、何をするにも許可が要る。監視と規制が更に強まったのは、その逆戟が、鉄壁であったはずのセキュリティを突破して研究所を脱走してからのことである。
残された鮫神は腐った。親友か、兄か、そんな風に思っていた逆戟を突然失ったことは彼にとって少なからぬショックであったし、また、逆戟が自分を置いていったという事実が余計にその心境を複雑なものにした。ある意味、逆戟の存在は鮫神の心の拠り所となっていたのである。
逆戟は、表面に出しこそしないが、誰よりも人間を嫌っていた。獣人たちよ屈するな、と、常に呼びかけて回っていた。それまで被験者たちにおける反人間同盟じみた集団のトップに立っていた逆戟が消え、鮫神がその座に繰り上がり、そして彼はグレたというわけである。小学五年生が六年生に進級した途端にやたらと態度が大きくなるのと似たようなものだ。逆戟を失ったことへの行き場のない苛立ちと、所員たちに一番の危険分子として認識されるようになった重圧もそれを助長した。
「……ったくよ……アンタは今どこで何をしてんだよ、逆戟サン。アンタのおかげで俺は今掃除のプロフェッショナルだぜ、監視が厳しすぎて何もできやしねぇ」
今でも逆戟のことはよく思い出した。歳は幾らも違わぬはずなのに、常に泰然としていて揺らがぬ佇まいに、ひたすら調子を狂わせられていたものだ。四六時中聞いていたはずの、深みのあるバスバリトンの声が記憶から薄れ始めているのには、何となく不安な気持ちになる。
「『海で待ってるぜ、兄弟』なんて吐かしやがって……あのなぁ、アンタの脱走のせいでどんだけ状況が悪くなったか知ってるか? 俺はアンタほど頭もよくねぇし腕っぷしも強くねぇんだ、そんな俺がこの状況下でアンタの後を追えると思うか? 無理に決まってんだろ、アホか」
外の世界は、どんなものだろうか。逆戟が飛び出していった世界は。
彼を追って、研究所を脱出してみたい気もした。しかし、心の底ではとっくに諦めきっていたのだ。どうせこの緩慢な日常に囚われて、抜け出すことなど不可能であると。ここで人間たちにせめてもの反逆心を見せつけながら、ゆっくりと心身を病んで死んでゆく。見えざる縄で首を絞められながら人間共に殺されてゆく、それが俺の人生だ、と悟っていた。
このまま終わるのが悔しくないとは言わない。だが、この牢獄を突き破るだけの爪牙と力があるかといえば――
「さめがみぃー、おててとまってるよ」
「あァ!? うっせぇな、だったらテメェも手伝いやがれ」
呑気な声に突如思索を破られた彼は思わず怒鳴り返した。スイはひゅっと頭を引っ込めて隠れ、そろそろと顔を出して鮫神の視線にぶつかってはまた隠れ、にまにまと笑っていた。
「何笑ってんだ、こらァ」
「さめがみこわーい」
「静かにしてろ。食っちまうぞ」
「わー」
狭いトロ舟の中、尾ひれでぱしゃぱしゃと飛沫を立てるスイは、水槽に沈んでいる普段の彼女からは考えられないほど明るい表情をしていた。思いの外、鮫神が気に入ったのかもしれなかった。
「何なんだよあのガキは……」
幾ら半グレ鮫の彼でも、少女相手に本気で凄みはしない。『捨て猫には優しい不良』である彼は、呆れた顔で睨みながら、ブラシを握り直すのであった。
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