第11話

「そうだ。今日みたいに校内で会った時、それとなくできるような挨拶を考えよう」

「なーるほーど」


 春音の唇は弧を描き、とてもご機嫌だ。

 そして彼女は前のめりになって聞いてくる。


「で、どんなのにする?」

「そうだなぁ……。今日の俺みたいに手をあげるのはマズイしなぁ。でも逆に、手を使わなかったら何を使うんだって感じだし……」

「そだねー、どうしよっか?」


 具体的にどうするか考え出すと、意外と思い浮かばない。周囲からの視線が気にならない程度でお互いだけがわかること……


「指先だけ動かすとか?」


 それなら、俺たち以外誰もわからない。

 自分の手を見つめながら、春音は言ってきた。


「いんじゃない? 親指でも動かせば」

「よし、そうしよう。でも、親指はなんか嫌だ」

「なんで?」

「簡単すぎて、挨拶した気にならん」

「何それ……」


 呆れたように春音は笑った。確かにそんな反応をされても仕方ない。


「だから、薬指にしよう」

「なんで!?」


 意味わからんといった様子で大袈裟に驚き、食いついてくる。でも、これにはちゃんと意味があるのだ。


 俺は自分の薬指をふりふり動かしてみせる。


「だってほら、この指が一番動かし辛いし……」

「……なんだ。そんな理由か」

「逆にどんな理由があるんだよ?」


 なぜかちょっと落ち込んだ春音に尋ねる。

 彼女は斜め上を見ながら、口を尖らせた。


「ばーか」

「……俺、なんかまずかったか?」


 え、なぜ春音は拗ねたんだ……

 疑問に思い、春音をじっと見ていると、彼女は勢いよく立ち上がった。


「……まぁいっかっ」

「あ、そう……」

「じゃあ、勉強するよ」


 教科書などを持って、春音がこちらへ歩いてくる。やっぱ今日も、こっち来るんだな。


 そして柑橘系の香りと共に、とんでもない事実がやってきた。


「今日は健斗の要望通り、保健体育をやります」

「嘘だろぉ……!?」

「はい、これ」


 俺の前に、保健体育の教科書が差し出される。え、これどういう展開!? なんか怖いんだけど。


 春音は昨日と同じ、水色のシャーペンを渡してきた。


「ん。ノートは自分で出して」

「ちょっと待って、流れが自然すぎるよ? ガチでやんの……?」


 シャーペンを受け取る前に聞いておく。あまりにも彼女の態度が淡々としているので、もしかしたらこれ、ガチかもしれない……


「では、二十一ページ開いて」

「はい…………あ、そういうこと」


 開くと中身は昨日と同じ、数学の教科書だった。なんだ良かった、イタズラだった……。


 でもこれ、どうやってやったのだろうか。保健体育の教科書は、カバーがついてるタイプの本じゃないから、カバーだけを付け替えるなんてことはできない。


 不思議に思って数学の教科書(改)の表紙を触ってみる。完全に、表紙は保健体育になっていた。


 どう見てもこれ……


「……貼り付けたのか?」

「うん。すごいでしょ?」


 ドヤっと勝気に春音な笑みを浮かべる春音。


「いや、すごいとかじゃなくて、いいのか……?」

「あー、それは大丈夫」


 そう言って春音は、表紙の端を爪でめくった。すると保健体育の表紙が剥がれ、綺麗な状態の数学の教科書が顔を出す。


「貼って剥がせる保健体育シール、自分で作ったんだ〜」

「まじか。それは確かにすげぇな……」

「でしょ? 本のサイズも微妙に違ったから単に印刷するだけじゃだめだったし、結構大変だった」

「……それはお疲れ。それで、なんでわざわざこんなことしたんだ?」

「健斗を騙してみたかったから」


 彼女はただ一言で答えた。明るい笑顔で。


「本当にそれだけのために!?」

「うん、それだけ」

「何やってんだよ……」


 呆れが籠ったため息を吐くと、春音はそんな俺を優しげにじっと見つめてきた。

 そして、水色のシャーペンを自身の唇にぷにっと当てる。


「また、私に騙されたね」

「何のことだよ?」

「さーね〜」


 春音がそれを教えてくれる気配は、まるでなかった。どこかそっけなさすら感じる。


 そして彼女は、唇から離したシャーペンを再度俺に渡してきた。


「ほら、数学やるよ」

「……え、あ、うん」


 受け取るのに手間取ってしまう。春音はこういうの、気にしないのか……?


 ***


「お疲れー」

「どうも……」


 五時半近くになり、今日も勉強は終わった。いやー、ほんとに疲れた。勉強自体は昨日とさして変わりはなかったが、何と言っても使ってるシャーペンがこれである。


 様子からして春音は気にしていなさそうだったが、俺は無性に気になった。


 なので、彼女が唇に当てていたペン先の部分を必死で触れないようにした。そんなことをしていたせいで、指には謎の緊張感と違和感がまだ残っている。


 そして俺はようやく、これを返却できるのだ。


「……これ、ありがと」

「うん。これからも使っていいからね」

「あ、はい。どうも……」


 春音はシャーペンを受けとると、今日もギュッと握ってから筆箱へしまった。何をしてるんだろうか……。


 さて、今日も俺はここらへんで帰宅である。鍵は春音が自分で部長の仕事だと言っていたし、任せていいだろう。


 この時間に部室に差し込んでくる夕日はとても濃いオレンジ色で、これを見ると今日も終わったのだと実感する。


 それは、楽しい時間が終わったのと同じこと。


 次にここへ来るのは、午前中といういや〜な時間を過ごした後だ。


 鞄を持ち上げ、ドアノブを握る。


 昨日は春音から言ってきた言葉を、今日は俺から言うことにした。


「また、明日な」

「……うん。また明日」


 小さく手を振ってくる。


 どこか寂しげに呟いた彼女の片手には、鞄の持ち手が掛かっていた。


 ***


 翌日、金曜日。


 今日も沢田蓮哉さわだれんや佐藤美奈さとうみなの仲は相変わらず険悪である。


 沢田は必死に、佐藤に話しかけようとしていたのだが、彼女に「話しかけんなって言ったじゃん」と言われ、ずっと完全無視されていた。


 そんな彼ら彼女らの声を時折、興味のないラジオのように聞き流していたらもう放課後である。


 さっさと教室を出た俺は、階段を上って部室へ向かう。


 放課後は本当に気が楽だ。


 静かな廊下を進んで到着すると、俺はドアを開ける。


「こんちはー」

「あー、健斗」


 春音は机の上でなにやら作業をしていた。相変わらず、来るのが異常に早い。


「何してんだ?」

「見ての通り」

「え、全然わかんないんだけど」


 机の上には、大量の教科書と大量のお菓子。

 とりあえず座ると、春音が呆れた視線を向けてきた。


「健斗、来週の火曜から期末なの知ってるでしょ?」

「それはもちろん知ってるけど……、なんでお菓子? 息抜きに食べるってこと?」

「う〜ん、ちょっと違うかなー」

「じゃあなんだよ?」


 聞くと春音は、ニヤつきながら俺を指差してくる。


「健斗を餌付けするんだよ」



誰かのツイート

『好きな人に異性として見てもらいたくて、

 バカなことしてると思いながらも保健体育の表紙を見せてみた。

 でも多分、効果は無かった。

 だからやけになって口付けしたシャーペンを渡しちゃったw

 何やってんだろ、やばい、超恥ずかしい……。 』

 

 

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