第17話 無知なる少年


「名前はなんていうんだい?」

 

「僕の家は向こうの一番端っこの建物なんだ」


 少年は倉庫街よりもさらに向こう側の灰色の建物群を指さした。

 きっとあれはアパートが密集している地区だろうと思われた。軍の演習に出る兵士は、この辺りの寄宿舎に寝泊まりさせられて、その間に家族が過ごせる場所になっているアパートの一帯がある。おそらく、あれがそうなのだろう。

 そうすると、この少年は軍人の子なのだろうか。オレのような兵士の子なのだろうか。

 ふとハヤトの脳裏に昔あった縁談の話が思い出された。

 僕も結婚していれば、これくらいの子が持てたのだろうかと、そんなことを考えるのだった。


 二人は草木の枯れた赤い大地を進んだ。演習場を抜け、空虚で冷たい倉庫街を歩いていた。


「ここは酸素設備もまだしっかりしているようだけど、他の地区はどうなっているか知っているかい?」


 ハヤトが少年の華奢な背中に向かって話しかけた。

 火星の事情には少なくとも自分よりも精通しているだろうと思ったのだ。

「うん。ここはしばらく酸素がありそうだね。これといって街の崩壊もないしね。ただ、他の地区についてはよく分からないんだ。誰かが生き残っていれば分かりそうだけど、特にどこからも何の反応も無いから。きっと誰もいないと思うけどね」

 少年の表情には少しも陰りが無かった。


 そして、その口吻から今まで少なからぬ時間、一人きりでいただろうに、ハヤトと会っても大した感動もなさそうなのだ。 

 それは「願いを叶えてくれる」云々の意味での喜びはあったようなのだが、それ以前の出会えたことに対する感情の高ぶりはあまり感じられないのだ。

 逞しいというよりも、事態を正確に呑み込めていないような、飄々とした態度なのだ。


「ねえ、質問してもいい?」

 少年が出し抜けに立ち止まった。


 周りの景色に気を取られていたハヤトはちょっとだけ驚いたが、すぐに「ああ、いいよ。何でもね」と応じた。


「音楽ってなんのこと? 音楽って持ってる? 見たことある?」


 突拍子もない質問だった。

 少年の真意を、その質問の意図を探ろうとしたが、少年の顔には特に何の色も見えなかった。純粋に知りたがっているという風だった。

 だから余計に困った。


「ええっと、音楽? それが……」


 少年は即座に返答がくるものと期待していたようで、ハヤトが答えに窮している様を見て、さらに言葉を足した。

「ここに書いてあるんだ。音楽ってさ」


 そう言うなりポケットからジッポライターみたいな四角い銀色の塊を取り出した。

 そして、側面のスイッチを押した。すると、ホログラムでその場に立体の革表紙の本が現れた。これは今から百年ほど前から使用されはじめたデータ本の類いで、相当古い、旧式タイプだった。今は映像がもっとクリアで、乱れが少ない。

 何もない空間に投影された本を手に取って、少年がパラパラとめくり始めた。


 見たところ、卒業アルバムかタイムカプセルに入れたメッセージ集といったところだろう。装丁がえらく手が込んでいて、データ上の作業とはいえ、高価なデータを読み込ませないと作れない代物だったし、表紙には金文字の筆記体が綺麗な書体で彫り込まれている。


 それに少年がページをめくっているところを見ると、質感や紙の具合、重量までもあたかもそこに「本」があるようであった。

 これだけ手の込みようとは今時ちょっと見たことがないな。


「あった。これだよ。これ」

 少年が満面の笑みで誇らしげに掲げた紙面には、拙い文字で何か書いてある。


「音楽で人の心を元気にしたい」とあるのが、なんとなく読める。


 そして、その文字の横には、この少年と同じ年くらいの黒い肌の少年の写真が添えられている。

 やはり、これは卒業アルバムかなにかなのだ。

「それからね、次のやつも分からない。宇宙開拓探査部隊ってのは、どういう意味なの?」

 そして、堰を切ったように少年が矢継ぎ早に質問を始めた。「将来ってのは?」「地球ってのはどこのこと?」「月はそんなに綺麗なの?」「平和って誰なの? 知ってる?」

 まだまだ収まりそうにない。

 「木星って、なに?」「木星は大きいの? ここよりも広いの?」


「わかった。わかった。もうその辺にしてくれ。いったんそこまでだ。いっぺんには答えられない」


 少年は口をすっかり噤んだ。


「よし、偉いぞ。じゃあ、まずは音楽からだな」

 そして、ゆっくりと本に手を伸ばすと、ぱったりと閉じさせた。


「音楽はな、それは最高だ。これなしには人の世界はあり得ない。僕はここまで生きてこられなかっただろう」

 ハヤトは音楽の話をはじめた。

 ただそれはあまり説明的ではなく、辞書の意味合いではなく、これまで生きてハヤト自身が感覚的に理解するところだった。

 それは、この少年の知的好奇心に応えるには、自分の経験から話した方がはるかに面白いだろうと思ったからだ。

 また同時に、少しばかり哀れに思わないでは入られかった。十歳くらいの少年が「音楽」を知らない。いや、いろいろな言葉を知らないことに対して、哀れに思わないではいられないのだ。


 この子もまた、この大戦の大いなる犠牲者なのだと思わずにはいられない。


 

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