第15話 第9地区の中
ピーピー。
遠くの方で音が鳴っている。微かに聞こえる電子音。
いったい、何の音だろうか。
ピピピピっ。ピーピー。ピピピピっ。
時折、目覚まし時計のようにけたたましく鳴った。
時計の音か……。
その時、ふと我に返った。
はっとしたら、未だ第九地区の大きな扉の前で立ち尽くしていた。
ああ、オレはここにいたんだったな。
ピーピー。ピピピピピッ。
音がはっきりと鼓膜を揺すった。
酸素の残量が低下したという警告だった。
なんだ、そんな下らないことか。いまさら、どうだっていいことを教えてくれるもんだな。
ハヤトはマスクの中で白い溜め息を漏らした。
頭上には巨大なドームの天井。足下には冷え固まった死体の山。崩壊した繁華街。黒い空と赤い大地。
外部の災厄から人間たちを守り抜くために、お前はじっとそこで頑張っているというのに、肝心の人間たちはとっくに居なくなってしまったとはな。それも人間自らが災厄となって、内側から朽ちていくとは、お前もやりきれないだろうに。
ドームが機能していれば、地球と同じ青い空が天井いっぱいに映し出されているはずなのだが、この有様ではどうしようもない。
いやしかし、大した代物だな。街を一つ丸々覆い尽くすほどのドームを一つのスクリーンにするとはな。いったい、人間の技術力ってやつはときどき恐ろしくなる。何をどうして、そうなるのか。僕にはさっぱり分からないし、そもそもそんな発想もない。
こんな僕が系内最後の人類とは、人類に申し訳ない。皮肉だ
酸素残量警告は依然としてうるさく鳴り響く。
警告しても、何も対処しない主人に口うるさく、騒ぎ立ててみせている。
ピーピー。ピピピピピッ。ピピピピピッ。
酸素が充分の場合は青色ランプが光っているが、いまは黄色になっていた。そして、すぐにオレンジ色に切り替わった。
これが赤になればいよいよか……。
音は一層大きく、高くなった。
ハヤトは取り乱しはしなかった。ただ、じっとそこに立ち尽くすのみだった。
目は一点を見つめている。左腕に取り付けれてい酸素計器である。そのランプが徐々にオレンジから赤に移ろうとしている。赤く光れば、そのあとは十五分程度保つかどうかだ。もっとも、このまま身動きせずにじっとしていれば、二十分程度意識を保つことができるかもしれない。
別にそんな五分の時間はどうだっていい。少し長くこの世にとどまったところで……。
オレンジ色の中から徐々に黄色が薄れていく。
すると、その時視界が真っ青になった。計器のランプが上手く見えなくなり、その色が判然としなくなった。
いったい、なんだ?
ハヤトはあまりのまぶしさに動揺した。さっと右手でひさしをつくった。右側、第九地区の扉の方から青い光がさしているのだ。あまりにも強い光だった。
何が起こったのか確認しようと、まぶしいながらも光の方に目を向けた。
その時、扉がこちらに向けて観音開きに開き始めた。
強い光のまぶしさも忘れて、目を見開いた。これは驚きだった。
死ぬ瞬間とは、こんなにもまばゆいものなのか。
いや、違った。まだハヤトは死の入り口には立っていなかった。
第九地区の大きな扉が開いたのである。
目一杯開ききったところで、扉はぴたりと止まった。
ドームとドームを分け隔てる壁に大きな四角い穴が空いた。青い光はドアの上に取り付けられたランプだった。ここに空気が残って入れば、きっと扉が開く案内、警告の音声が流れるのだろう。
◇
はたしてハヤトは第九地区の中にいた。
いくつもの部屋をくぐり抜け、通路を抜け、やっと内部に入った。宇宙服の計測器が、外部酸素濃度、生命活動可能計測を自動で行い、その数値は奥に行くほど、部屋を一つまた一つとくぐるたびに、高くなった。高くなるとは、つまり空気が存在するということだった。
そして、内部では「不要」というサインが表示された。活動服はもう要らないのだ。
こころなしか身体が重く感じる。
思い切って船外活動服を脱いだ。
腹の底から深く呼吸し、肩を回し、首を回した。
どうやら、ここは戦禍が少ないようだな。
先ほどの地区と違い、ここにはショッピングセンターや商店街はなく、だからといって生活地区でもないようだった。草木はそこかしこで枯れ果てている。赤い花はしおれ、黄色い花は黒く変色していた。
心弾むような場所ではない。
この辺りは遠い記憶にある。軍事施設と演習場と、よくわからぬ倉庫街の地区だ。そして、灰色のアパート風の建物の向こうにフェンスで囲われている広大な敷地が演習場で、ハヤトが以前降り立った場所だった。
わずかな記憶と合点がいく。しかし、懐旧の念は微塵も無かった。
ハヤトは出し抜けに大声をあげた。唸り声のように喉を振るわした。その音声は四方に響き渡った。
とても気持ちが良い。
久しぶりに音が遠くまで空間を振動していくのが快い。
この気持ちはなんだろうか。
これだけでも、ここまで生きてたどり着けて良かったと思えたのだ。
しかし、いったい何故あの扉が急に開いたのだろうか。
疑問は消えていない。
ただ、そんなことはどうでもよかった。大した問題ではない。
また、雄叫びのような大声を上げてみた。
低い声は響き渡った。
そして、今度はジャンの名前を叫び、リンの名前を叫び、ケーネスの名前を叫んだ。
微かに風が起こった。たぶん人工風だろう。
腹いっぱいに空気を惜しげも無く取り込んで、エルドーの名前を叫んでやろうとした。
ドーム全体を振るわしてやるという意気で叫ぼうとした。
「何してるの?」
背後で声がした。
叫んでやろうとした声が喉元まで出かかって止まった。ビクッと体中が硬直したのが自分でも分かった。
振り返ったほんのわずかな瞬間の時間で、あり得るさまざまな場合を考えてみたが、どれも外れた。
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