第9話 ようこそ火星へ 皆さまの安全と危機管理を第一に考えております
巨大な茶褐色の球体、火星が目の前に迫っている。
モニターに映し出された直径が地球の半分ほどの地球型惑星を、ハヤトは呆然と見つめた。
宇宙は僕を殺してはくれなかった。ついにこの火星まで僕を運んだ。いったい、こんな奇跡があるだろうか。
ジャンの言葉を思い出す。
「オレたちは最後の人間として、名誉ある存在なのだ。多くの奇跡が折り重ならなければ現在のオレたちは存在しないのだ」
そうだ。その通りだ。しかし、これは喜ぶべき運命では決してない。ジャン、これは悪夢だ。まったく悪夢でしかない。いま、僕の目の前には赤茶色の乾いた巨石が暗黒に浮かび上がっている光景が見える。あそこはきっと生き地獄だ。たった一人で、僕はこんなところまで……。
何をどうしろというのだ?
ジャン、これはいったい、どうしろということだと思う?
孤独が浮かび上がった。そして孤独が燃えたぎり始めた。
この暗い世界に錆び付いて浮かぶ孤独な存在。それがハヤトの目を通して見た火星の姿だった。
再び、たった一人きりであるという恐怖心がこみ上げた。巨大な火星を目の前にして、畏怖の念も起こった。
なんたる威圧感だ。このちっぽけな人間相手にして、これほど痛みつけて何になる。お前の暇つぶしにもなるまい。
背筋を悪寒が通り抜け、がたがたと身震いした。べったりとした冷や汗も滲む。
僕はどうしたらいいのだろうか。
これで一〇〇〇回以上の自問である。生まれてから今に至るまでの自問の数だが、その数の九割方はここ数日の回数だ。
孤独に狂った自らの醜態が脳裏に映じた。
僕の最後だというのか。それが僕の最後の姿だというのか。
エルドー船長、ケーネスさん、リン、そしてジャン、皆が守ろうとした人間の尊厳を僕は台無しにしてしまう。
僕の最期ですべて台無しだ。
今までの死がすべて……。
これが僕の末路か。人間の末路か。
末路ならば、もうそれで結構だ。
だが、そうであるならば、せめて最期に一目、地球を見たかった。この褐色の惑星ではなく、ふるさとを見たかった。
あの青く豊かな地球が見たかった。僕が九歳まで過ごした惑星。今の干からびた地球ではなく……。あの頃の青いふるさとを見たかった。
◇
この火星にも人間の居住区が一八区画あったが、誰しも火星をふるさとと呼べるほど順応し出来ては居なかった。
第一に火星で生まれ、一生を火星で終えた者でも、火星の大地を肌で感じ、五感で味わった者はなかった。分厚い宇宙服と、活動服に身を包んで、大地に出て、仕事をする際は充分に注意が払われた。
生活圏は巨大なドームで覆われ、それらが区画の数だけ、一八個ある。その虫かごから生身では1歩でも、一秒でも外には出られしないのだ。それでいてどうして火星が故郷なのものか。
ただ、あの貧相でグロテスクなカプセルの内側が故郷であるに過ぎない。それも区画間の移動も制限が設けられ、常に酸素と温度、湿度に注意を払われ、腹から呼吸するのもままならないと来ている。
と、これは存分にハヤトの偏見が入り交じっているが、強ち間違いではなかった。
ハヤトが火星に降り立った経験は、見習いの頃、二五、六歳のときに一度、それもその日のうちに飛び立つという強行軍であったから、ハヤトには街の記憶もかすかにしかなかった。
表面に膨らむシャボンのように丸くなったドームの、いったいどれに降り立ったかは全く記憶にない。第一、右も左も分からぬ頃だったから、気がつくと火星、気がつくと宇宙連合ステーション、また、地球軌道、金星へと、次から次へとめまぐるしい行程だったから、分からないのが当たり前なのだ。
ドームの半分以上は崩壊し、または大きな穴が開いていた。
火星の約四分の一を覆い隠す巨大なドームを建造する技術も計画もあったのだが、それはしなかった。理由は明らかだ。穴一つ開けば、めでたくすべてが一瞬にしておじゃんだからだ。
そんな話がふと思い出された。
「安全と危機管理に神経を費やす人間が戦争にご熱心とは皮肉だな」
これは、反戦活動家だったハヤトの父の言葉だ。
「神経を費やしすぎた結果が戦争なのよ」
これは父と活動を供にしていた母の言葉だった。
当時は、両親が心底嫌いだった。弱くて、カッコ悪いと思っていた。反戦運動なんか時代遅れで、ただの批判主義でしかない。そう思って反抗していた。
◇
スペースタンクはゆっくりと、確実に火星の重力に落ちていた。
僕の人生とは何だったのだろうか。
父が言っていたように、やはりこの戦争には意味がなかったのだろうか。
歴史上、戦争には何かしらの意味があった。そして、間違いなく回避できないものもあって、それらが大半だった。
しかし、この大戦は違う。歴史上初めて、意味の無い、ぽっかりと芯が空洞の戦争だ。避けようと思えもば、そうできたし、やめようと思えば、いつでもやめられる戦争だ。今だって、そうだ、明日にでもやめられる。今日だっていい。怠慢と漫然が戦禍を大きくしているに過ぎない。
やはり、僕の、この大戦に捧げた人生は無意味だったのだろう。やりきれないな。
顔を下ろすと、胸のバッジが見えた。そこには十桁の数字が並び、二十歳で入隊してからはほとんどその下四桁の番号で呼ばれていた。
この輸送船に配属されてから、「ハヤト」と呼ばれることの方が多くなった。
いったい、こんなところでたった一人きり。こんなバッジが何になろうか。番号が何だというのか。
ここに秩序はない。人間の秩序はない。組織はない。機構はない。
群れをなす種が、たった一人になる時、それは死ぬときだ。
その時、探知機が耳障りな音を発した。涙も枯れて漫然とモニターを眺めていたハヤトの目に、「人工物確認」のメッセージが飛び込んだ。
モニターはそのメッセージを忠実なペットのように誇らしげに掲げている。
高音のブザーが鳴り響く。
青いサイレンの光が船内を隈無く照らし出す。
「人工物確認」の文字の後ろには褐色の火星が迫っている。
そして、その褐色の大地から噴煙を伸ばして、ロケットが打ち上げられた。
十八個ある内のドームのどこかから打ち上がったはずであろうが、いったいどこからだか、ここからでは判断できない。
あの荒んだ街のどこから……。
ハヤトは身を乗り出して、モニターに釘付けになった。
いったい……これは……。
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