闇と青年

達観ウサギ

闇と青年


 大きな耳糞が嫌な場所に転がったような音がした。不快に感じ、目を開ける。しかし、何も見えず、真っ暗のままだ。目が見えなくなってしまった、そう一瞬肝を冷やすと、目線の先で不規則に瞬く歪んだ何かが映り込む。ぼんやりと、〈蝶か〉としたその予想は外れた。

 〈蝶にしては大きく羽が変だ〉と考えられるようになった脳味噌は、適切な言葉を探し出す。でこの辺りまでポワンと言葉は浮かんで俄かに弾けた。

〈コウモリだ〉

 思い出せた快感で手先が痺れる。だが、その快感も長くは続かなかった。思い出したからだ、この状況を。

 目は次第に暗闇に慣れ始めた。生身の感覚が戻りつつある仰向けの体を地から起こし、辺りを見渡す。落ち葉の上にいた。耳に受けた雑音は、どうやら虫が歩いた音だったらしい。

 〈なぜこんな所にいる〉そう思うのは後のこと。〈自分は誰だ〉まず始めはこれだった。

 自分に関する過去の記憶が全くない。わかるのは声が低く男性器があるから男、怪我はしていない、こんなものだ。加えてワイシャツに学生服のズボンを着ているから中高生ではないかという予想くらい。もはや、自分の顔すらもわからなかった。



 漆黒な森の中、四方からは不気味な鳴き声や物音が響き渡る。

 行く宛もなく歩いた。その間、思考を巡らすが何一つ思い出せず、自分の存在は定かでない。こんな永遠の闇を歩いている自分はあたかも既に死んでおり、ここは地獄、あるいはその類ではないかと疑い出す程だった。しかし、その疑いはいささか的外れでもなく、しばらくしてある事に気づいた。〝月が赤い〟と。月明かりに色はないのに月は真っ赤に染まっていた。驚怖。何かの気候現象に違いない、そう心を落ち着けようとしたが、この状況では簡単にはいかない。辺りが一面闇、生気を吸い取る闇、異世界じみた闇故に。〈でも大丈夫だ、陽が昇りさえすれば〉なんとか心を落ち着かせた。



 全身から悟った。もうこの闇からは抜け出せないのだと。一気に『絶望』という二文字が脳を支配した。どれだけ待っていても陽は昇らなかったのだ。絶望する自分を、あまり大げさだとは思えなかった。自分は心が弱いのか、悲観的思考回路なのか、どうやらそれらの素養の持ち主なのだと自覚した。

 力が抜け、膝から崩れ落ち、手をつく。〈このまま、ずっとここにいなければならないのか〉、〈もう死んでいるならきっとそうだろう〉、〈なんでこんなことに〉……。それぞれの意思を持ったハエが脳内を飛び交う。次々とハエは増えていく。たちまち、頭の中は羽音で満たされていった。

 突如うめき声が邪魔をした。我に返り、反射的な速さで左右に目を配る。しかし、暗いせいで何も見えない。恐怖でうずくまり、丸まった。目をつぶり、指を交差させ、祈るような形を取る。

 数秒後にまたうめいた。おかしなことに、なぜかそれは自分の腹から聞こえた。

 至って単純、腹の虫が主張してきただけなのだ。これには自ら絶句。如何に気が動転していたかを思い知った。

 頭からハエを追い払い、徐々に冷静さを取り戻した。そして奮起し、信じた。自分は生きているのだと。

「死んでなお、腹が鳴ってたまるか」

 半ば文句の口調で言葉を発した。

 しかし暗闇の中、食料を探すというのは難儀なもので、腹を空かせ歩きながら考えた。

 火を起こしてみては、と落ち木を使って試みたが、そういった知識は微塵もなく結局は功を奏さなかった。

 平坦な場所、緩い下り、きつい上りと歩きに歩き、意識も次第に朧気おぼろげとなってゆく。その最中さなか、耳を澄ますと幽かに聴こえる一定した波長があった。ある意味その音を目標にして歩いていた。

 水流である。細々とした流れだったが、やっと掴んだ希望の一筋に思えた。〈きのこ一つ見つけられない森の中でも水辺に行けば何かあるかもしれない〉そう思ったのだ。

 歓喜の念に影響され、歩速は増していく。そして、やっとの思いでかたわらへと来た。早速、水でも飲もうかと水面に顔を近づけた。顔は映らず認識できない。

 黒い水面を凝視していると、見えない水底から何かが浮かんできた。何かと思い、更に顔を近づけ観察の態を取る。ゆっくりと上昇する、その物体の全容が見えてきた。

「手?」

 思わず声が出た。その直後、一瞬にして生気のない色白な腕が水面から飛び出した。顔に接触する寸前で体を反り、ギリギリの所でかわした。小石が広がる地に尻餅をつき、手足を使ってエビみたいに後ずさりした。後ろの木に腰がぶつかった。

 放心しながら川から伸びた腕を見つめる。二・三度何かを掴もうとする素振りをした後、水中へと消えていった。なんだか、温度計内の水銀の移動に似ていた。

 いわゆる霊的なものを見てしまったのだと感じた。しかし、〈この真紅な月、漆黒な世界では極めて一般的なことなんだろう〉納得ならずとも理解した。

〈食べられるだろうか〉考えがよぎった。ここに来て、初めて捕えられそうな生き物だったからだ。狂った世界であるならば自分も狂ってなければ生きられない、そうなぜだか直観した。

 あの恐ろしい腕を『魔の腕』とでも呼ぼう。〈魔の腕が飛び出してきた際、周りに水が散ったことからも実体はある。霊体ではなく存在している、間違いない。それなら捕えること、そして喰うことも可能だろう〉と何の根拠もなしに妄信した。頭がおかしくなった、それとも元からこうなのか、よくわからなった。傍から見れば非常に考えなしで馬鹿げた発想だと嗤うに違いない。しかし、空腹は顕著になり、意識が朦朧もうろうとしてきていた。思えば、飲み食いせずに何日を過ごしたのだろう。死んでしまう、胃にモノを入れなければ。体は至って正常なのだから。やりたくなかったがやるしかなかった。

 意を決し、魔の腕が出てきた場所へと恐る恐るにじり寄っていく。そして再度水面を見つめていると、案の定恐ろしい手の平が迫ってきた。強くねめつけ、息を止め、冷静にかわした。続けざまに手首となる部分を精一杯に掴んだ。魔の腕はよじりながら抵抗した。物凄い力を感じた。が、それに負けじと力を振り絞り引っ張る。

 メキメキと音を立てながら何かが剥がされていく感触を受けた。〈もう少しだ〉という実感を得ると、株を抜く時の態勢で力を入れる。

 魔の腕がジリジリと水中から伸びてくる。〈どこまで伸びるんだ〉驚きながら見ていると、急に込めた力が返ってきた。反動で後ろに倒れた。

 掴んだ手には激しくうごめく魔の腕がある。その滑らかに広がってゆく肘の方を見ると、見るからに木の根っこみたいな姿をしていた。〈水底に深く深く張っていたのか。これで頭でも掴まれていたら……〉そう考えるだけでゾッとした。でも、まだ動いていた、暴れ狂っていた。だから微塵も気は抜けなかった。

 恐くなり、とっさに地面の小石に叩きつけた。何度も何度も。馬乗りになってナイフで人を刺すように。無我夢中で打ちつけた。魔の腕の指部分は上下斜め、あらぬ方向へ曲がっていく。

 張りつめて感じていた力が弱まってきた。我に返り、魔の腕を見てみると、指は取れかけボロボロになっていた。既に絶命していた。打ちつけ過ぎて小石がなくなった地面にそっと置いた。

 動かなくなった安堵と虚無が心を埋めた。しばらく何も考えず、考えられずに気が抜けた正座をしていた。

 目の前の息絶えた生き物、いや自分が殺した生き物を見てゾワゾワとした自己嫌悪に似た気持ちが湧き上がってきた。これを罪悪感というのだろうか。安堵と虚無に覆い被さり、圧倒的な力で侵略していった。

 生きることの醜さを知った。〈自分は何かを殺さなければ生きていけない。自分はそうまでして生きるべき命なのだろうか。多くは、この魔の腕を醜く嫌悪の存在とみなすだろう。では、綺麗な存在ならば、殺すことをやめたのか。犬や猫ならば地面に叩きつけなかったのか〉こんなことをずっと考えていた。結局、わからなかった。殺したかもしれないし、躊躇ちゅうちょしたかもしれない。でも、どちらにせよ確かに生きていた一つの生命には違いなかった。きっと一方的に襲い掛かってくる存在にはこんなことは思わなかった。あの魔の腕は自分から対峙しない限りは襲い掛かってこない無害な存在。滅法、自分が侵略者なのだから。侵略者が来たから、あっちは必死に抗った。ただそれだけだった。

 よくよく考えてみると、〈結局はそうなのか?〉そう思い至った。〈魔の腕だって同じように他の生き物をあの手で捕らえて生きているに違いない。全ての生き物はそうして生きている。それなら、自分の行いも正当なものなんだ。だから自分は悪くない〉

 何重にも口実を掛けて自分を善にした。そうせざるを得なかった。そう誰かに言って欲しかった。でないと罪に殺されてしまうのだ。単に考え過ぎなのか、甘いのか、馬鹿なのか。それでも生き物を殺して生きる自分は、醜いと感じた。

 死んだ魔の腕は乾いた雑巾のように干上がっていた。食べなければ、殺してしまった以上は。自分を正当化できなくなってしまう。取り敢えず、生のそれに喰らいついてみることにした。口を開け、歯を近づける。意外と臭みは感じられなかった。だが、いわゆるゲテモノを食す心持ちとなった。

 覚悟を決め、かぶりつく。味など気にする余裕は毛程もなく、苦虫をかじるが如く眉間にしわを寄せ、噛み締めた。

 舌に触れていくうちに、知っている生き物が想起された。

「ん、エビ?」

 思いもよらなかった。そう、エビに近い味だった。弾力が弱った人間じみた肉を食べているはずなのに、食感までエビの肉に錯覚してくる。これにははなはだ驚愕した。

 指の骨の髄までしゃぶった頃には知れずと罪の意識が消えていた。代わりに杞憂、安堵、幸福が脳内を占めた。食べ終わった頃に初めからいたように、しれっと『感謝』が現れた。現れてからも『感謝』の影は薄く、他の感情に埋もれてゆく。そうだな、友達と遊んでいる時、気づけば一緒に行動している。でも、居なくなっても気がつかない誰かの妹みたいな感じ。

 腹一杯となり疲弊した体は眠りにつき、『感謝』はまたも何処かへ消えていった。



 下流に向かって歩を進めていると、水流の先は小さな溜池になっていた。

 終着点を知り、はっ、と息をつくと近くから油性ペンで書く時、あるいは黒板を引っかいた、そんな甲高い音がすり寄って来た。

 音の鳴る方へ目を向ける。落ち葉が微動していた。〈突然、襲い掛かって来るかもしれない〉注意深く近づき、観察する。

 葉の下では何やら、しなって動く細い紐が見えた。意思を持つように動き散らしている。紐が前にゆき、葉に隠れて見えなくなる。同時に何かが葉から出てきた。

「――」 

 それはネズミの頭であった。未知の生物だと危惧した手前、姿が露わになるなり安心した。小さくてか弱そうで愛らしく思えてくる。ネズミは長いひげを探知機みたく泳がせ歩く。その後ろから見守る想いでついていく。

 しばらくして、突如ネズミの姿が消えた。目の前には立ちはだかる壁、いや洞窟があった。軽石程の細かい気泡が延々と並ぶ岩壁であった。左右に目を散らしてみても、端がまるで見えなかった。 

 〈中へ入れば、きっと未知の恐怖が待っている。今以上に深刻な状況に陥るかもしれない〉そう本能的に自覚していた。だが、〈入ればこの世界から出ることができるかもしれない〉かような不安と好奇心が幾度も衝突を繰り返していた。

 人間は未経験の事には酷く敏感で、頭の中で恐怖の化身をおのずと生み出してしまう。結果、その化身に精神は圧倒され、おののいてしまう。しかし、実際にその化身と戦ってみれば、なんてことはない。指の一本で軽く小突けば崩れてしまう程度の脆い塵芥の化身であることも少なくない。勿論、強固な岩石の化身であることもある。その場合は激しい戦いを余儀なくされる。〝なんてことを〟と後悔することもあるかもしれない。それが恐いのだ。それに恐れている。だから動けない。動きたくない。動かずに終わらせたい。が、そうであっても塵芥か岩石、はたまた何か別の化身であるかは、その化身と対峙してみなければわからない。自分はこの時、何かの化身と対峙しようとしていた。洞窟という閉鎖的な空間、何かあっては容易に逃げられない。

 ネズミは巨大な洞窟の中へと進んで行った。自分は唾を飲み込み、足を踏み入れた。



 まぶたを強く閉じた時よりも更に黒く。樹海以上の暗さ。光の届かぬ深海に放り込まれた感覚。内側の岩肌に手をつき歩く。無音の空間では、靴底と砂の摩擦音のみが生きている。見えない骨は心臓の鼓動で震えていた。

〈そういえば、「人生は先の見えない道。だからこそ面白い」だなんて誰かが言っていたような気がする。なんでこんな記憶があるのだろう。肝心な自分のことは何一つ思い出せないくせに。この言葉に全く共感できない。自分には「面白い」とは思えない。確かに生まれてから死ぬまで、どうなるのか全てわかってしまったら「つまらない」だろうとは思う。だけれど、「面白い」と思うより前に恐いんだ。それこそ、どうなるのかがわからないから。今だって歩いているだけで不安になる。数秒後、数分後、数時間後、自分はどうなっているのか、それを考えるだけで戦慄する。やっぱり見えない道は恐いんだ〉 



 遠くに光が一点見える。出口だと思い、早足で向かう。近づくにつれ、より明るさが際立ってきた。

 手前まで行くと、煌々としたまばゆい光景が広がっていた。明暗差で目がくらむ。体感五分位でやっと明順応してきた。

 赤・青・緑と多方向から鮮やかに光る、万華鏡のように幻想的な道。発光源を見てみると、それはLEDに優り強く光る水晶であった。安心と希望を与えてくれる光。

 夢に飛び込む心持ちで光の道に踏み込む。いや、直前で止まった。なんてことだろう。道のあちこちに骨が散らばっていた。頭蓋骨に足の指、紛れもなく人間のものだ。乱反射しあう光で気づかなかった。夢が悪夢に変わった。

〈後悔した。やはり、強固な体躯の化身だったか。自分では到底勝てない。恐い、殺される。きっと、自分も目の前の骨にされる。どうやって殺されるのだろう。圧死? 焼死? 自分の死ぬ姿ばかりが連想されていく。行きたくない、行けない。そうだ、来た道を戻ればいい、退路がある、助かった。本当に良かった〉後ろを振り向き、来た道を歩こうとする。

 ふと思った。〈これでいいのか〉と。〈確かにあの道を通れば死ぬかもしれない。でも実際にどうかはわからない。結局は行ってみないと知り得ないことだ。それにここまで来て、帰って何になる。何にもならない。また暗闇をさまようだけだ。そう、どんなに恐ろしく見える道でも通ってみなければわからないんだ〉その未確定要素を信じて勇気を出した。化身の姿を知る為に。

 光る道に一歩踏み入れる。脚は小刻みに震えていた。腰が抜けそうな程、変な所に力が入る。

 この道は一見、二十メートルもない。しかし、百メートル近くもあるかに見えた。〈なぜだろう、心なしか寒気がする。体は今にも燃え盛りそうなのに。今なら肩に手を乗せられただけで失神してしまいそうだ。とにかく早く抜け出したい〉が、脚が中々動かない。まさにヘドロの中を進んでいるかのよう。

 〈やっと中間ぐらいまで来た。今のところは何もない。一瞬たりとも気が抜けない。頭蓋骨がこちらを凝視している。水晶は自分を監視している。あと少し、もう少し〉心に言い聞かせることはやめない。

 出口への一歩を踏み出す。目の前はまたも真っ暗。

 全身が洞窟から出た。途端、おかしな感覚がした。例えるなら、ずっと雲を見つめて黄昏ている時に急に話しかけられる、はたまた浮いていた意識が地面に着いた、そんな感覚。目が覚めたように後ろを振り向くと、そこに洞窟はなかった。消えていた。何もかもがおかしかった。やはり、夢を見ていたような。あの道を渡り切ったことが嘘に感じられた。

 自分が創り出した化身を自分で倒した。今ならわかる。自分の意識次第で化身は塵にも岩にもなるのだと。

 目の前に天から何かが降りてきた。さっき見た水晶だった。いや、それよりも遥かに明るかった。小さな太陽かと感じる程に、暖かみのある光だった。

 水晶を静かに手に取る。握ったこぶしの中から光が放射状に漏れていた。



 島だった。海に囲まれた島。一周回るのにさほど時間も掛からない小さな島。その中心には一つまみ乗せた形の緑があった。テレポートでもしたのか、樹海も洞窟もない。でも、それらと比べると優に安心できた。光があれば、心地良いさざ波の音もある。木にもたれかかり眠る。この世界で目覚めてから初めて熟睡ができた。

 次に目覚めたのは腹が鳴った時だった。また食料を探さなければならない。ただ、以前と違うのは明かりがあるということ。足元を照らして探し回った。

 海に向かった。水面に顔を近づける。またも、顔は綺麗に映らない。〈ぼやけていて、のっぺらぼうに見える。なぜだろう〉

 海を離れ、浜辺を探索する。カニや貝がいることを期待したが、見つからなかった。代わりに人の指が尺取虫をまねて這って進んでいた。それを呆然と見つめた。忘れていた。ここは、人間が生活する世界とは異なるのだと。直前にネズミを見たせいか、見知っている生き物がいるものだと錯覚していた。〈ひょっとすると、あのネズミも全貌は全くの別物だったのか?〉自分はもう一度、ネズミの姿を思い返してみたりした。

 結局、見つかったのは例の歩く指と木に生える耳のみ。大分ずれていた。想像していた

 島とは。こんな場所で寝ていたと考えると、身の毛がよだつ。幸いにも、猛獣らしき生き物はいそうになかった。

 これらの生き物を殺して食べた。醜さや罪悪感を受け入れて殺していくうちに、その感情が薄まってきた。〈このまま何も感じなくなるのかな。気づけば手羽先のように歩く指をくわえ、生える耳を煎餅のようにかじっている。こうしてこれからも生きてゆくんだろうか〉


       ◆


 〈心地が良い。もう年月がかなり過ぎた。この島では食料も尽きず、外敵もいない。あたかも自分の部屋にいるかのような感覚に陥る。ずっとこのまま不自由なく暮らせる〉そんな空間であった。 

 安心しきった状況からか、あり余るいとまからか、親や友人、自分の存在について思いを馳せ、空想してみた。これが思いのほか楽しく、この世界で目覚める以前の事に俄然興味が湧いてきた。〈名前も顔もわからない。だけど、確かに生きてきた実感はある、それだけは間違いない。それを思い出したい、自分が何者であったのかを〉興味から欲求へ、沸々と昇華していった。

〈動かなければいけない〉そう思った。〈でなければ何も変わらない。新しいことを始める、するとまた新たな化身が生まれる。きっと動けばこの心地良さは消えてしまうだろう。後悔する時が来るかもしれない。だが、行動しない後悔もあるかもしれない。今でさえ、ずっとこんな所で生きる、命が尽きるまで生きる、そのことに恐れ、強く嫌悪している。この状況を変えるには島から出るしかない。そうだ、解決法は既に見つかっているんだ〉それでも、わかってはいるのに腰が上がらない時間はひたすらに続く。その姿の自分に酷く苛立った。髪をむしりたくなる。爪を噛みたくなる。すねを引っ搔きたくなる。自責の念は増していくのに現実逃避してしまう。それの繰り返し。〈なぜなんだ、なんでこんなにも苛立つ。現実に向き合えない。わからない、わからない、わからない〉

 〈嘘だ、本当はわかっている。自分が前に進んでいないと感じているからだ。この苛つきを解消する為には〝前へ進んでいる〟と実感できる事をすればいい。それだけで、希望を持って生きてゆくことができる。でも、恐いんだ、失敗することが。失敗をすれば、もう立ち直れない気がする。回数を重ねるごとに自分が駄目な存在に思えてくる。そして、いつの間にか「自分が何をやっても無駄」だのと勝手に脳に刷り込まれる。だから、現実から逃げ続ける。挑戦しようとしない。腰についた重りを壊してでも前に進むしかないのに。でなければこの苛立ちは死ぬまで消えないのに。それを全部わかっているのに。自分はいつからこんな考え方をするようになったんだろう。〝自分を信じ切ること〟ってこんなにも難しいんだな〉

 電池が切れた身体は木にもたれ掛かっていた。廃人じみた顔つきで。

 ふと、首を横に曲げた。そこには、食べてきた指の骨が幾重にも積まれ、貝塚と瓜二つになっていた。光に照らされたその姿を見て愕然とした。そして思った。〈これほどまでに時間が過ぎたのか……〉と。〈あの指の骨はこれからひたすらに堆積し、自分は歳を取って老いて死ぬ。何も残せず、誰にも知られることなく、存在すらも認識されずに〉そう思った瞬間、血が逆流する感覚がした。その血は次第に頭に集まってきた。マグマの如く沸き上がる、闘志に似た感情と共に。

「自分は意思を持っている。人間として生きている。こんな所に一生? ふざけんな!!」

 叫んだ。そして、驚いた。激情している自分に。

 重い腰がゴム球に似て跳ね上がった。そうして早足で歩き出した。腕を組みながら考えた。

〈この状況から脱するには島から出なければならない。その為には海を進むことができる乗り物、いわゆるイカダをつくる必要がある。つくる為には……〉今できること、今すべきことを洗い出し、整理していった。

 木材を集め、つたで結び、組み上げていく。結び方や配置構成が歪(いびつ)ながらも、なんとかイカダを完成させることができた。嬉しかった。辺りが真っ暗で、海の向こうに何も見えずとも、なんとかなるかもしれないと思えた。

 海にイカダを持ちより、静かに浮かべる。それに慎重に乗った。

 バギャッ、カランカラン。瞬時にイカダは水中に沈み、果てにはつたがほどけ崩れ散った。唖然とした。島から少しも進まず、はたまた乗っただけで崩壊してしまった、その事実に。

 積み上げてきた心の柱が見事に倒れてしまった。

 壊れゆくイカダを見つめる。海中に脚を沈め、棒のように立ちながら。

 とぼとぼ砂浜へと戻り、そのまま仰向けに寝転んだ。何もしたくなかった。これを無気力というのだろう。

 〈元々、はなから成功するなんて思っていなかった。でも、なんだろう、やっぱりショックだ。迷路の行き止まりに着いた感じ。きっとこの行き止まりから分岐点に戻って別の道を歩き、そしてまた行き止まり、それの繰り返しでゴール、すなわち成功へと辿り着くんだろう。でも自分は一回目でこれ。とてもじゃないけど精神が持たない。この感覚が恐くって挑戦できなかったんだ。既にもう、「何回やっても駄目だったら……」、「やっぱり自分じゃ……」こんなことを考えている。それだけ失敗してもいない、加えて過去の記憶もないのに。なんて自己肯定感が低いんだろう。なんで自分を信じ切れないんだろう。昔に何かあったのかな〉

 水晶が右前のポケットから転がり出ていた。ズボン越しでも明るいので、いつもはポケットに入れて行動していた。その水晶を掴んで、目の前に持ってくる。

 〈この水晶は常に光り輝いている。自分も、何の影響も受けないぐらいに強くなれたらな〉そう思わされた。

 ずっと見つめていると目がチカチカしてきた。ズボンにしまおうと水晶を握り直す。その際に指についた細かい砂がパラパラと落ちてきた。鼻の中に入ってきた。

「へぶしゅっ!!」

 なんとも大きなくしゃみが出た。歪んだ顔を元に戻し、目を開ける。幽かな虹が架かっていた。

 〈……綺麗〉

 虹は自分の崩れ落ちた心に架かるようだった。七色は速やかに消え、代わりに霧状の水滴が落ちてきた。その顔に掛かる唾さえもなぜか美しく思えた。

 まぶたをこすり、起き上がる。

 イカダの製作を再開した。つたを三つ編みにしたり、浮力の高い木材をバランスよく使ったりと、できる限りの工夫を凝らした。とはいえ、それから何度も沈み続け、練習で島の周りを漕いで回る、という段階すら抜け出せずにいた。それでも、諦めずにつくり続けた。



 きたる十一回目の試作体。島を一周することに成功。とてつもない達成感を覚えた。でもこれはまだ準備段階。模型のパーツを全て揃えたようなもの。これから組み上げなければならない。

 十二回目。更に改良を加えた。最大限の完成体だ。

 久しぶりにイカダの前方を境界のない水平線に向ける。初回に失敗した時以来だ。未知への恐怖、死の恐怖、また何体も化身が生まれそうだった。それでも前へ進むには行くしかない。

 出航には、何日分かの食料をイカダに乗せ、補修用のつたと木の枝をポケットに突っ込んだ。別につくったオールを手に大海原へ漕ぎ始める。

 改良も実り、スムーズに島から離れられた。あとは模型を組み上げるのみだ。いつ組み上がるのか、本当に組み上がるのかはわからない。説明書もない。あとは全て自分次第だ。綺麗に完成させるのも、途中で辞めてしまうのも。

 腕に力を込め、力強くオールを漕いだ。



 後ろを振り向いても、もう島は見えない。かなり遠くまで来た。だが、上陸できる場所も見つからない。

 海の色は相も変わらず黒い。あたかも広大な墨液の上に木片を浮かばせたのかと感じてしまう。不安は募る、いつかその木片をも黒く染まってしまうのではないかと。それでも漕ぎ続けた。自分で選んだ道なのだから。例え、沈んでも後悔はなかった。



 激流は轟く。切り裂く風で波がうねる。

 渦潮だ。気づいた時には渦の中にいた。範囲が広すぎて、中心部に吸い寄せられるまでは気づくことも叶わず、用意周到に練られた策の如く、まんまと陥り、葬られる。

 必死に抗う。反対方向にオールをつきさし、つきさし。水に浸るオールは半ば黒く染まりかけている。まるで蟻の脚。渦の中心が寄ってくる。癇癪かんしゃく風に嘆く。

 イカダは無慈悲に散る。頭が沈む。最後に両手を天に伸ばす。それはきっと、蟻の触角のよう。



 溺れて意識が遠のく中、水中で水晶が著しく光り瞬いた。

 自分は気がつくと何処かの部屋らしき場所にいた。そこは物が散らかった雑多な部屋の中だった。

 少し離れて小さな子供の姿を確認できた。この子供の体はうっすらした蜂蜜色の光に縁取られている。顔はもやが掛かってぼやけており、把握できない。また、視界の端々にも同様のもやが映っていた。ほの白く光る映画館のスクリーンを連想させられる。

 ここでは、首をひねることも声を出すこともままならない。まるで金縛り。少し離れて俯瞰する様はいわゆる幽体離脱のそれだった。

 しばらく固まって見ていると、右奥の古びた扉がキィィと脆い音を立てながら僅かに開いた。〈誰か来たのか〉と怪しく開く扉に注視していると、ダンッという轟音が鳴り響いた。その瞬間、扉は弾け飛ぶように勢いよく旋回し、ドアノブが壁にぶつかった。その割には戻る力はやけに小さく、空気の抜けたゴムボールを思わせる。ドアがゆっくり戻ると、当たった部分の石膏の壁は、ドアノブの形を下手にかたどった穴がぼっかりあいていた。穴からは石膏の粉がビスケットの食べカスっぽく落ち、蝶番ちょうつがいは疲れ果て、今にも外れそうでいる。

 扉の勢い以上の勢力で、ある男は入ってきた。こちらも顔はぼやけている。だが、雰囲気は不機嫌そのもので、強い怒りに満ちていた。

 バチン、とにぶく嫌な音がした。男は小さな子供を平手で思い切り殴ったのだ。子供は地面に叩きつけられ、頬を打った。その後、何度も腹部を蹴り飛ばし、力が抜けた転がるのみの体を押し入れに閉じ込めた。

 男は床に落ちていたガムテープを使い、これでもかと何重にもして開口部を封じた。けれども、中からは物音一つ聞こえてこない。

 最後に、使い果たしたガムテープの芯を投げつけ部屋から出て行った。

 突然と視界は映画フィルム風に移り変わった。

 静寂に包まれたその部屋に音がもたらされたのは、かなり後のことだろう。窓はすっかり夕焼け色に染まっていた。

 また勢いよく人が入ってきた。今度は髪の長い女の人だった。その人は部屋に入るなり、キョロキョロとした。押し入れのガムテープに気がつくと一目散に駆け寄り、懸命に剥がし始めた。

 何とか扉が動くやいなや、力一杯戸を横に引いた。一時詰まるも勢いで全開させた。すると、両手を伸ばし子供を引き寄せ、抱きかかえた。子供は気を失っており、生きているのかさえ疑う程に衰弱しきっていた。女は何かを呟きながら、そっと頭を撫でた。そのまま、よたよたと静かに部屋を後にした。

 子供の頬には青いあざができていて、もやのせいか周辺は白くかすみ、いびつな形の穴に見えた。



 次は公園に来た。多くの子供達がいる。さっきの子供もいた。光のおかげか、すぐにわかる。背は伸び、小学生くらいの少年になっていた。

 何やら隅の茂みに向かう通路に子供が二人立っている。そこに少年は向かって行った。すると、その二人に突っぱねられた。

 通路の先、隅には多くの子供の足が見える。〈秘密基地でもつくっているのだろうか〉推測しながら見ていると、突っぱねられた少年は追い返されてしまう。そのまま、うつむきながらとぼとぼと公園から出て行った。



 夕日に照らされた通路。右隣にはコンクリートの建物が見える。左には金網が掛かる。

 体育着を着ている人が四、五人いる。さっきよりも体躯が大きく、しかし幼い雰囲気も共生していた。〈中学生だろうか。何をしているんだ?〉

 〈なんだろう、何かを囲むみたいに輪になっている〉輪の中の何かが動く度に輪は不気味に揺らめく。〈ヘビでもいるのか?〉そう思って見ていると、徐々に輪は解かれていき、人がこちらに歩いてきた。人々は固まった自分を素通りしていく。

 輪の中心には光る少年と、『誰か』がいた。『誰か』は少年の首を両手で雑巾のように絞り、馬乗りをしている。少年は小刻みに震えている。『誰か』は肩を頭に近寄せながら、肘の隙間を減らしていく。『誰か』も小刻みに震えていた。力と力の拮抗。それを見て、魔の腕とのことがフラッシュバックしてきた。この光景とあの出来事が重なり合わさるようで、嫌悪感に満ちてきた。

 空気が抜けるみたいに少年の力は去ってゆく。固い瓶が開いたみたいに『誰か』の力も抜けてゆく。

 『誰か』は動かなくなった少年を一瞥し、立ち上がった。そのまま唾を顔に吐きつけると、軽い足取りで何処かに消えた。



 学校の教室の中、生徒達が右に左にはしゃいでいる。どうやら休憩時間らしい。

 光る少年、いや青年は自分と同じ格好をしていた。周りの体格もさっきより大分大きい。〈薄々気づいていたが、これは多分死ぬ前の走馬灯だ。この青年はきっと自分のことなのだろう。やはり、自分は高校生だったのか〉

 青年は腕の中に顔をうずめて机に突っ伏している。周りに人はいない。机の周りと生徒がいる空間は甚(はなは)だ別世界のように感じた。

 続けて他にも色々な情景が流れた。受験に落ちた時。人から無視されている時。それに、罵声を浴びせられている時。その浴びせた人の口の形が〝シネ〟と、白いモザイク越しでもわかってしまう。〈ああ、これが今までの人生だったのか、あまり良いとは言えないな。世の中にはもっと辛い経験をしている人もいるんだろう。でも、自分にはこれだけでもうお腹一杯だ、これ以上は入らない〉そう思った。

 場面が切り替わった。〈これで何度目だ〉と思ったが何かが違う。実際に存在する感覚がした。それと、手足も自由に動かせた。手からは水晶の光が漏れ出している。辺りをほのかに照らすその場所は、トンネル内のようだった。



 〈体が濡れていない。海に沈んだはずなのに〉

 このトンネル、半径五メートルくらいはあっただろうか。

 壁面に近寄ってみると、コンクリートでできていた。見るからに現実世界のトンネルである。電灯は一切ないのだが。〈ここも現実ではないのか? やはり、さっきのが現実なのか? もう何が現実だかわからない〉どちらにせよ、肝を据えてゆっくりとでも歩き出すしかなかった。

 水晶があるとはいえ、前方は真っ暗で先は見えない。人工洞窟、廃トンネルである。暗闇には慣れてきていた。しかし、こんな現実味を帯びた閉塞的な環境は別だ。幽霊みたいな人工的な恐怖を感じた。血の気が引くような、ここにいるのにいないような。

 震えてすれる足音が筒の中で共鳴しあう。

 何か物音が聞こえてくる。自分ではない足音、段々と近づいてくる。なんと不気味な。しかし、新たな足音に希望を抱く自分がいた。仲間、あるいは近い存在に出逢えることを妄信する。

 光がその存在の範囲に入る。全体像が露わとなる。黒っぽいズボン、シャツが見えた。〈人間だ〉そうひとまず安堵した。

 両者、徐々に歩み寄ってゆく。顔が確認できる距離となる。

 気づいた。自分は目を見開き、全身の毛が逆立った。幽霊を見た人間はこうなるのかもしれない。顔がなかったのだ。いや、正確には白いもやで隠されていた。あの沈んだ時に見た映像と同じだ。加えて、姿がまるで自分自身、鏡に映った自分と相似していた。一つ違うのは、右手になたを持っていた。これが〝ドッペルゲンガーに会うと死ぬ〟と言われる所以ゆえんだろうか。

 瞬時に〈マズい〉と察した。鉈を持った自分とそっくりの存在に、危機と恐怖が迸る。

 近づき過ぎた。既に間合いは二メートルもない。反射的に肩をねじり、背を向ける。その瞬間、スローモーションかと思う程にゆっくりと鉈を振り上げている姿がコマ送りとなって見える。

 完全に後ろを向けた。走り出そうとした。腕が飛んだ。



 消された阿鼻叫喚。

 気づけば血しぶきをあげながら、無我夢中で走っていた。なんとか離せた。状況を振り返る。まず、既に右腕はなくなっていた。痛みよりも腕がない、という感覚に驚愕し、戦慄した。夢、嘘、冗談、何度も疑った。〈あの存在は、また追ってくる。殺しにくる。逃げなければ〉まさに、駆除に怯える害獣の思考。

 とにかく走った。だが出口はなかった。このトンネルは複雑に入り組んだ永久迷路となっていた。入口や出口はおろか、行き止まりもない。ひたすら半筒状のトンネルが続く。つまり、逃げて疲れて動けなくなった時、あの存在の鉈で切られる、死が訪れる。分かっていつつも、来る度に走って逃げる事しか自分はできずにいた。

 壁面にもたれる。荒らぐ息は、遠くから響く抑揚のない足音に消されてゆく。その足音よりも早い間隔で自分の心音が聞こえてくる。

 脚が震えて動かない。神経に意思が通じない。出血で意識が薄れる。〝絶体絶命〟この時に相応しい言葉だった。

 あの存在が見えてきた。鉈の銀色がきらりと光り、乾いた血は刃(は)文(もん)状に。

 なけなしの力を振り絞り、脚を動かす。壊れたブリキのおもちゃよりも動きは酷い。

 案の定、転んだ。パキッという音がした。脚の方から聞こえた。〈遂に骨でも折れたのか〉と錯覚する。しかし、痛みはない。怪訝に思い、すぐさま両膝立ちとなり、確認する。

 太ももに違和感があった。ポケットの中を漁る。

 イカダの修理用に入れておいた枝だ。うまい具合にポケットに収まっていたのか、走っている最中さいちゅうも全く気づきはしなかった。二つに分断された木の枝は先が鋭く尖っていた。その枝をぎゅっと握り、覚悟を決めた。一か八かの賭けに出ることにした。

 鉈を振るう狂気な存在はカツカツと近づいてくる。

 突進する。水晶を噛み、枝を左脇腹にブレないよう固定して。視界が揺れる程に勢いをつけて駆ける。

 突如にしてあの存在が一面に現れた。

 奇襲。

 相手は一瞬ひるんだ。焦って鉈を振ってきた。でももう遅い。間合いに入り込み、枝の先が相手の腹に突き刺さった。相手はもがき暴れ、突き刺した枝はジリジリと外れ、傷口からは栓が抜けたように黒い煙が溢れ出した。光に照らされた煙は工場からの禍々しい煙を彷彿させる。

 苦しんでいる姿を見て逃げようか迷った。しかし、〈逃げればまたすぐに追ってくるだろう〉それ位の強い執念を感じた。〈ここで終わらせる〉そう決心し、更に猛撃した。

 何度も体を突き刺した。体のあちこちから煙が漏れ出す。

 ガシャダンッ、手から鉈が落ちた。そして、ようやく相手は背を向けて倒れた。それで死んだのか、いやまだだ。手の指がカクカクと動き出した。

 左斜め前にはにぶく光る鉈が落ちていた。持ち替えようと近づいた。相手を見ると、肘をついて起き上がろうとしている。再び鉈に目をやった。〈やっぱりこれはやめよう。自分はこんな存在にはなりたくない〉鉈はやめた。急いで枝をアイスピックのように逆手に持ち替え、背後から首を突き刺した。直後、相手は動かなくなった。

 〈殺人鬼はこんな気持ちなのだろうか。とてつもない達成感がある。殺しても罪悪感がない。状況が正当防衛に近いからなのか。そうだ、魔の腕とは状況が違う。この存在は襲い掛かってきた、自分にとって有害な存在だったんだ〉

 〈自分を殺しに来る自分とそっくりな存在。恐ろしく、怖かった。一体何なのだろうか。自分の内面にある嫌な部分の集合体に思えてくる。思えば、自分はいつもこの存在に殺されてきたのかもしれない。そうだ、弱い自分はいつだって生きる力を、未来への可能性をこいつに奪われてきたんだ!! ……あれ、なんだ?〉涙が出てきた。黒い煙が目にしみた。けれど、流れた涙はそれとは違う意味に感じた。

 口にくわえた水晶がまたも光り出し、大きく身を包み込んだ。



 小さな鳥が微笑ましくさえずるような音がした。愉快に感じ、目を開ける。

 木々の間からは青天が広がり、木漏れ日を感じた。

 ゆっくりと起き上がり、上半身を立てる。怪我をしていない。腕もしっかり付いていた。水晶や枝は持っていなかった。

 視界は木と落ち葉で埋め尽くされている。〈初めに目覚めた場所か?〉そんな気がした。左斜め前には薄い水溜まりができていた。歩いて近づいてみる。

 自分の顔が鮮明に映った。昼だろうか、日差しが強い。太陽はあの水晶のように光っており、水面をきらめかせた。その光を映した瞳は、闇の中で希望を見つけたようだった。



 終わり



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

闇と青年 達観ウサギ @yrck

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ