第6R 菊の血統


第六話


「マジでありえねえんだけど!」


ぽくぽく、という蹄鉄がこすれる音。そして、二人分の足音と会話が静かな農道に響く。すっかり日も落ちてしまったため、反射材も兼ねた馬着を被せられたヨサリオーロ号。そして手綱を引く彰の隣を憤慨しながら歩くのは、競馬学校時代の同期だった高伊空太だ。偶然にもヨサリオーロが見つけ出してくれた帽子をかぶり直し──そもそもの原因は彼とは言うまい──苦笑を隠さない彰と並んで道を進んでいく。


「普通気付くだろ。同じクラスで、寮も同じ部屋で、お前の一番のライバルだった、この!俺を!忘れるだなんて……!」

「だって、昔は坊主頭だったし」

「髪型が変わっただけだろ!気付けよ!」


無茶言うなよ、と肩をすくめる。じゃれあいのような口喧嘩を眺めるヨサリオーロの目は、めらめらと何かしらの意思を持って燃えていた。己の背中越しに交わされる威嚇のし合いに、彰は未だ気づかないままでいる。否、面倒ごとに巻き込まれまいと素知らぬふりを続けていた。子供のような喧嘩をしないでくれ、とも思う。


「……空太、お前なんでここにいんの」


そう訊ねられて、空太は目をぱっちりと瞬かせた。腕を組み、不敵な笑みを浮かべてウインクを一つ。整った顔立ちも相まってか、そういうキザな仕草がどことなく似合う。

「さっきも言ったろ。スカウトだよ、スカウト」

「……念のために訊くけど、今、何の仕事してる?」

「もちろん、騎手だけど?」


中央競馬JRA所属のね、と一言付け加えられた。

騎手って、キザなタイプの人しかなれないんだろうか。彰と同じことを思ったのか、ヨサリオーロが歯茎を見せ、呆れたように鼻を鳴らしている。


「……おめでとう」

「こりゃどうも。言うてこれでも十一年目になりますがね」

「うん、それもだけど。……リーディング入りも」


その言葉を聞いて、空太の切れ長の目がまた丸く、大きくなった。その驚き様が、厩舎で飼われている猫のようだな、とも思う。

口元を手で隠した空太が、じれったそうな顔をして彰を軽く睨んだ。


「知ってたのかよ」

「うん、知ってた」


最年少関東リーディング入り。デビュー後怒涛の重賞、GⅠ制覇。名手と呼ばれた父を超える、新たなる天才。様々な賛辞の言葉で飾られた彼の姿を、新聞やネットなどいたるところで目にした時は、自分のことのように嬉しかった。

もっとも、記憶に残っていたのは勝負服にゴーグルをかけたレース時の姿であり、実際に会ってみるまでは顔も声も、すっかり忘れこけてしまっていたのだが。


空太はきょろきょろと目線を彷徨わせながら、照れくさそうに鼻のてっぺんを掻いた。


「……サンキュ」

「いえいえ。なんかお祝いでもできたらよかったんだけどね。連絡できなかったし」

「…………あ、それ!それだよ、お前!」


どす、と低い音が彰の横腹から聞こえた。空太が彰の腹を横から軽く殴ったからである。さほど痛みはないものの、その衝撃に驚いて、思わず無様な声が上がった。蛙がタイヤに轢かれたときのような、とはまさにこのことだと他人事ながらに思った。


「っびっくりした、なに空太」

「こっちのセリフだボケ!いきなり競馬学校辞めたかと思えば、音信不通って!」

「うっ、それはっ突然辞めちゃったのはっいてっちょ、一旦、殴るの、やめて」

「お前が!理由を言うまで!殴るのをやめない!」


とんだ暴君である。またもや絞られ始めたヨサリオーロの耳を横目に、彰はどこから話すべきか思案するのであった。



──騎手になりたかった。


幼少期から、ずっとそう考えていた。牧場で毎日馬と触れあい、両親の育てた競走馬が走るのを見続けていれば、そのような考えに至るのも必然であったと思う。

幼き頃の未だ若き父は、毎日のように録画したレースを見る少年を見て、言った。


「騎手になるには、少し背が大きすぎるんじゃねえかなあ」


馬の世話と家事を両立させていた母は、少し困ったような顔で少年を諭した。


「騎手じゃなくても、馬の仕事はできるのよ」


しかし、少年は諦めきれなかった。諦めたくない理由があったからだった。

昔の須和牧場は、幾頭かの肌馬を所有していた。両親が歳を重ねるにつれて、その肌馬を引き渡したり、最後を見届けたり──その結果、今ではヨサリオーロの母であるメイジョウツバキしかいなくなってしまった。


しかし、少年には心を許した馬が一頭いた。ぴかぴかと光る青毛と、大きく動くふわふわの耳。そして、優しい眼差し。メイジョウツバキの母にあたり、競走馬から繁殖に入った牝馬であった。

少年が少年になる前、歩くことも精いっぱいだった頃から、少年の遊び相手は彼女だった。彼女から産まれてきた仔馬たちが、競馬場を駆け抜けていく姿を、ずっと、ずっと見届けてきた。


「サヨの子どもに乗って勝ちたいんだ。サヨはすごくて、優しいお母さんなんだよってみんなに言いたい」


「だから、おれ、ジョッキーになりたい」


そう語った少年の顔を、彼女はいつも優しい眼差しで見つめ、ゆっくりと鼻を愛らしそうにこすりつけた。


──それが、須和彰という男の、すべての原点だった。



「骨折ぅ?」


何かを疑るような響きである。他にも理由はあったけど、と付け加えると、空太は「ふぅん」と少し不満そうに唇を尖らせた。じゅ、という音と共に、ストローの中をオレンジジュースが通っていくのが見える。


「落馬して、骨折して、リハビリの間に同期との差が開いていくのが怖くて辞めたって?」

「……まあ、そんな感じかな」

「あの彰があ?」

「あの……俺のことなんだと思ってるの?」

「馬しか目に入ってない生粋の競馬ばか」


行儀悪くも、ストローを齧りながらそう答えられる。そこまで言わなくても。そう返そうとして、思わぬところから横やりが入る。


「そうなんだよねえ、彰っていつもそういうところあるから!」

「ひかる、あのねえ……」

「だよなあ?言い得て妙ってやつだよなあ?」

「ね~」


氷の入った冷えた麦茶が、そっと彰の目の前に置かれた。それと同時に、ひかるが空太と声を合わせて笑っている。


無事に牧場へ戻ってきた二人と一頭。寂しがるヨサリオーロをなんとか馬房に戻し、ひかるを加えた三人が居住スペースへと集まった。「スカウトをしにきた」、と言う空太の話を改めて詳しく聞くためである。


「……そもそも、そこの二人が繋がってたこと、知らなかったんだけど」

「まあな。わざわざ従姉妹の話なんて、年頃の友達にしないだろ?」

「そうだけども。というか、知ってたなら連絡とれなくったって……」

「ばか言え!俺はお前から連絡が欲しかったの!」

「……この寂しがりめ」


競馬学校時代の泣き虫っ子が、まさかここまで図太くなるとは。想定外の出来事に、思わず頭を抱える羽目になった。それとは反対に、ひかるはずっとにこにこと頬を緩めっぱなしである。人が増えて一時的に賑やかになった牧場が嬉しいのだろう。まるで、昔の須和牧場に戻ったかのように思えて。


「……とにかく!今回のスカウトっていうのは……つまり、ヨサリのこと?」

「それ以外になにがあるってんだよ。新馬戦を見たときから、あの馬の素質は見てすぐに分かったからな」


なかなかにムカつく奴だけど。そう小さく呟かれたが、彰はあえて知らぬふりを貫き通した。人間、知らない方が都合上良いこともあるのだ。同期と愛馬が子どものようなケンカをしているところなど、見たいと思うわけがない。


「あと、これは単なる好奇心なんだけど。ヨサリオーロ号の血統表とかあったら見せてくんね?あれだけ長距離向きって言っといて、血統にミスプロ系とか入ってたりしたらめっちゃ切ない」

「あー……ヨサリの血統、こっちじゃかなり珍しめというか、なんというか……」


そっと空太から目を逸らした。隣のひかるは笑いを堪えるのに必死なのか、手に持ったコップから麦茶が零れ始めている。

近くから適当なキャンバスノートを持ってくると、思い出せる限りのそれを書き連ねていった。わくわくした表情の空太が、それを上から覗き込む。


「……ダビスタ?」

「ふぐぅッ」


ぽつりと漏れ出たであろう言葉にひかるは耐え切れず、口に無理くり含んだ麦茶を噴出した。ティッシュを箱ごと手渡しながら、彰は照れたような、諦めたような。複雑な表情で笑っていた。



父は皐月、ダービーを勝利した二冠馬、ノクターングラス。菊花賞直前に足を故障し、そのまま種牡馬入りとなった競走馬だ。キレのあるスピードを持つ代わりに、足腰の故障が多いのも産駒の特徴である。

父父は菊花賞馬の言わずと知れたダンスインザダーク。父母はあのディープインパクトを有馬記念で振り切ったハーツクライと同じ、アイリッシュダンスという良血統。


血統表を指でなぞりながら、若干引き気味の空太は目を見張った。父もすごいが、なんなら母方の血統も信じがたい並びとなっていたからである。


母は現在の須和牧場唯一と言える繁殖牝馬、メイジョウツバキ。中央競馬の馬主が購入し、2600メートル2勝クラスを勝ち得た元競走馬だ。引退後はそのまま須和牧場に戻り繁殖となった。ヨサリオーロはそんな彼女の初年度産駒である。

そして彼女の父は、三冠馬たるオーロドミニカ。「黄金の日曜日」の名に恥じぬ功績を残した名馬だ。ヨサリオーロの強靭な肺と心臓、そして無尽蔵にも思えるスタミナは間違いなく彼譲りである。先を辿れば偉大な名種牡馬ステイゴールドに、そのブルードメアサイアーは春天連覇のメジロマックイーン。

そしてなにより驚くのは、母母から続く太古の遺伝子であった。


「……グリーングラスって文字、すげー久々に見たんだけど」

「俺も……」

「私も私も~」


時代は大きくさかのぼり、1976年。トウショウボーイやテンポイントなどど並び、TTGと呼ばれた名脇役。菊花賞馬のグリーングラスの名が連ねられていた。


「……TTG、だれ好き?」

「あっお前、それ訊いたら終わらんぞ」

「だって聞きたいじゃん!私は無論テンポイント!流星の貴公子!」


どこからか持ってきていたのか、アドマイヤマーズのアイドルホースを握りしめ、丸い目をぐっと輝かせる。彼女はどうも、栗毛の馬に対して愛しさを覚えるらしかった。


「空太は?」

「トウショウボーイ一択。皐月賞馬に肩入れする質なんだ俺は」

「おやおや?ということは彰はもしかして?」

「……俺は菊花賞馬を応援するって決めてるんで」


昔から、菊花賞馬が好きだった。菊花賞から三歳で有馬記念を制したゴールドシップや、古馬になってからも活躍し続けたビワハヤヒデが好きだった。いくら3000メートルの距離が時代遅れと言われようと、長い距離で策をめぐらせ駆け抜ける、強靭なスタミナを持つ馬は美しかった。

思えば、ステイヤー好きであった父の影響もあったかもしれない。ダンスインザダークにグリーングラス、彼らの名前がヨサリオーロにつながっているのは、ある意味運命ではないかとも思ってしまう。


改めて血統表を眺めた彰は、端的な夜の名を冠した字をそっとなぞりあげた。メイジョウツバキの母も、同じく須和牧場の生産馬であった。奇しくも青毛であった彼女は、孫にあたるヨサリオーロと本当によく似ている。


「にしてもすげーな、この血統。菊花賞馬何頭いるんだ?」

「えーと、オーロドミニカでしょ。ダンスインザダークでしょ。辿ればマックイーンもいるよね?」

「ステマ配合入りに菊花賞馬のオンパレードだろ?彰、ヨサリオーロって追いきりの時とかってどうだ?」


そう訊ねられて、ふと先日の追い切りのことを思い出した。同じ厩舎の競走馬である古馬と併走したにも関わらず、ヨサリオーロは軽々と相手を抜き去っていた。あれには調教師の工藤も驚きを隠せなかったのか、興奮気味にヨサリオーロの頭を撫でていた気がする。確かにあの時のヨサリオーロは、追われる側だったにもかかわらず、相手との差が開いてからは機嫌よくコースを走っていたように思えた。


「……息切らすところ、全然見てない」

「ああ、もうこりゃあれだ。もて余ししきってんな」


言うまでもない。血統、そして彼自身の才能がさらに拍車をかけていた。ヨサリオーロが持ち得ていたのは、どれだけ費やしても底が見えることの無い、無尽蔵なスタミナであったのだ。

更に、と空太は真面目な顔で言葉を続けた。


「ダートを走れたのは地方馬の母方の血だろうな。末脚の鋭さと追い込みのセンスは父親譲り。けど、それだけじゃ無理だ。なのに何故、あれほどまでの着差を付けてダートを走れたのか?」


空太は携帯端末を取り出して、過去四戦の動画を再生した。それを見ながらノートの端にカリカリと音を立てて、決まった数字を書き連ねていく。しばらくして、それがヨサリオーロのラップタイムだと分かった。


「見りゃわかるけど、先頭からしんがりのヨサリオーロまでだいたい15馬身くらい。3コーナーから徐々に距離を詰め始めて、最終コーナーの時には2、3番手まで上がってる」

「ヨサリ、ゲートが苦手だからどうしても後方からの追い込みになっちゃうんだよね」

「……にしては、反応よさそうだけどな」


その言葉に、彰はひかると並んで思わずきょとんとした。


その言葉に、ひかるは思わずきょとんとした。空太の携帯端末を操作して、レース発走の直前まで動画を巻き戻す。新馬戦ではなくて、比較的最近のものである3戦目のレースだ。


「よく見て」


よーい、の声がかかった瞬間、ヨサリオーロはかすかにだが、ぐっと身体を沈み込ませた。思わずあっと声が上がる。まるで人間の陸上選手がするように、スタートの直前で態勢を整えていたのである。そしてさらに驚いたのは、騎乗していた熊谷ジョッキーの行動にあった。


「手綱、引いてる」


ゲートが開く瞬間。行こうとしたヨサリオーロを一瞬だけ抑え、ひと呼吸置いてから合図をしていた。明らかに、

コンマ数秒のことだろうが、その差は競馬において大きな違いとなる。実際、このレースでもヨサリオーロは半馬身ほど出遅れてのスタートとなっていた。


「こんなことやってたら、もし初騎乗テン乗りがあった時に事故っても仕方ねえぞ」


空太に言われて、彰は静かに両手を上げた。降参の意味である。


「……ヨサリってさ、こんなこと言うとおかしいと思うかもしれないけど」

「なんだよ、言ってみろよ」

「……自分のこと、人間だと思ってるみたいで」


はあ、だとかへえ、みたいな声はなかった。目の前の二人は納得した様子で、いかにも「そりゃ仕方ないな」という顔をしてみせたのである。あれだけの奇行を普段から見ていたひかるならいざ知らず、ヨサリオーロを見たばかりの空太でさえその反応だ。


「隣に馬がいると、負けない!とか、一緒に並びたい!とかじゃなく……ただ単に、すごく、引くらしい」


ヨサリオーロが追い込み一辺倒である主な理由が、とどのつまりこれであった。

端を切ると後ろから追われる立場になり、不気味に思ってしまうのかハイスピードで逃げてしまう。かといって好位置につけると囲まれて闘争心が萎えていくのが目に分かるほど。


「その追い込みと驚異的なスタミナが、上手いこと噛み合っちまったってわけか……」

「あ、つまり一番後ろにつければヨサリは気楽に走れるし、脚を貯めまくって残ったスタミナで最後は一気にまくれるってこと?」

「おう。しかも直線で大外から抜けば、他の馬とすれ違う時間も最小限になる……ヨサリオーロ自身にとっても都合がいい。適性がなくてもぶっちぎりで勝ててた理由が分かったぜ」


空太はげっそりとした表情でこちらを見た。誰が考えたんだと訊ねられ、そっと目を逸らす。眉をひそめて顔を覗き込んだ相手は、こちらをじっとりとした眼差しで観察しているようだった。


「なあ、彰」

「な、なんですかー」

「お前、やったな?」

「……こうなったのは、本当に偶然だから」


はああ、という深いため息の音が耳に届いた。そして次の瞬間、ゴツン!なんて重く低い衝撃音も。

顔を上げれば、先ほどまで座っていたはずの空太が大の字で床に寝転がっている。頭をぶつけてはいないだろうか。関東リーディングジョッキーの安否が不安になったが、相手は大層元気そうに声を張り上げた。


「……これだから、これだから彰は!」

「言っておくけど、思いついたのは偶然だったし、これも熊谷ジョッキーと話し合った結果だからね」

「あー、クソ!なんでお前騎手じゃないんだよ!同期のライバルは、やっぱりお前がよかったのに!」


彰は思わず苦笑する。たらればを言ってももう仕方がないからだ。勢いを付けて起き上がった空太は、そのままちゃぶ台を掌で叩いた。氷の入ったグラスががしゃっと揺れて、机の上に水滴を飛ばす。


「こんな逸材、こんな田舎に置いて帰れるかよ!なにがなんでも美浦トレセンまで連れてくね!」

「…………あのさ、空太。空太は騎手だよな?」

「なんだ?もっと言えば天才若手イケメンアイドルジョッキーだけど?」

「……彰の話を折ろうとす・る・な!」


ぱこん、とひかるが空太の頭をスリッパの底で叩いた。イケメンアイドルジョッキーこと空太は首をがくんと大きく揺らし、若干意識を遠くへと飛ばし始めている。


「俺は地方馬主の資格しかないし、中央の馬主資格を取れるほど牧場に資金はないぞ……?」


継続的な見込みのある所得金額が1,700万円以上。保有する資産の額が7,500万円以上。零細牧場主の彰にとっては、夢のまた夢のような話である。


にもかかわらず、空太は殴られた額を撫でさすりながらけろっとした顔で申し立てた。


「譲渡すればいい」

「譲……渡……?」


今度は彰が意識を遠くへ飛ばす番だった。そして、すぱこーん!と二度目の打撃音。


「……冗談は置いといて、だな」

「彰、戻ってきて~!悪い奴はとっちめたからね!ねっ!」

「うん、そう……須和牧場って、今でも競走馬生産ってしてるよな?」


ぴ、と空太が自身の人差し指を立てた。突拍子もない問いかけに未だ思考が追い付かず、頭がいまいち晴れない。なんとか首を横に振れば、相手はぎょっとした顔をしてこちらを見つめた。切れ長の目がビー玉のように丸くなっている。


「……今年は生産するよな?」

「できなくは、ないけど。特に予定は無」

「するよな」

「……し、ます」


つり上がった眼で射抜かれ、思わずそう答えてしまう。その答えに満足したのか、空太は腕を組んで姿勢を正した。二つ目の指、続けて中指も並んで手がピースを形作る。


「あと地方馬主、辞められる?」

「……んん?」

「中央行くんだから、いいよな?」

「ま、待って待って、そこまではまだ」

「いいよな?」

「…………ほ、保留、で……お願い」


保留ね、と空太は目を細めた。真顔に近かった耽美な顔立ちに、だんだんと感情が乗せられていく。いつの間にか彼の口元はにんまり歪んで、目も楽しそうな光がともっている。


「まあいいさ。それじゃあ、三つ目。


──お前も一緒に美浦に来い、彰」


美浦。美浦トレーニングセンター。

茨城県にある日本中央競馬会の調教の拠点。関東所属の馬はみなそこに集う。

しかし、そこに立ち入るのに必要な資格を、彰は今一つたりとも持ち合わせていなかったのである。驚きで思わず目を見張る。視界には満面の笑みを浮かべて、楽しそうにこちらを見つめるトップジョッキーの姿があった。


を果たす時だ」


その言葉は、やけに真面目な響きを伴って彰の耳まで届いたのである。

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