第5R 夕暮れ

第五話


ジュニアカップ。

附田競馬において、特に名の通った地方重賞競走だ。

年若い二歳馬のみ出走を許されること。そして、附田競馬が出走する競走馬を選別すること。勝ち得た馬は、地方でも大きな活躍が見込まれる、歴史ある重賞競走であること。

そんな事実が相まって、招待を受けた馬主や調教師は大概、嬉々としてその誘いを受け続けてきた。


しかし、である。ヨサリオーロ号の調教師である工藤為信は、悩ましげに眉をひそめて、長いため息を一つついた。噛み締めるようにして、彼がようやく口にしたのは──


「ジュニアカップはなあ……ヨサリには合わねぇんじゃないか?」


やんわりとした、そして断固たる否定の言葉であった。


「父さ……センセイ!ヨサリオーロの晴れ舞台を無下にする気か!?」


それに食って掛かったのは、馬主である彰ではなかった。彰と同じように苦悩し、時間を共にしてきた調教助手の弥助である。いつもの臆病さはすっかり消えて、情熱の一辺倒だけが若者の双眸に燃えている。その勢いに皆驚いて、思わずいさかいを止めようとした口をつぐんだ。


「ヨサリオーロの調子だって悪くない!ヨサリオーロはちゃんと強い!地方の重賞レースだ、勝機もあるなら出してやるべきじゃないのか!?」

「…………父親と調教師、両方一気に歯向かうたぁ……大した度胸だなあ?弥助」


視線と視線がかち合って、ばちりと火花が飛び散る。そしてようやく我に返った彰が二人の間に割って入り、「お願いだから落ち着いて」と懇願することで、半ば無理くり互いの距離を離すことに成功した。


「──おいおい、落ち着きましょうや、工藤センセ。そうカッカしちゃあ、まともに話もできませんぜ」

鶴の一声、というには少しばかり遅いだろうか。しかしそんな風に声をかけられた二人は、互いをぎちっと睨みつけてから、「ふん!」と鼻を鳴らして顔を背けた。ヨサリオーロを連れた騎手、熊谷弘成が軽い乗り運動から戻ってきたからである。彰もようやく少しほっとして、熊谷に駆け寄りヨサリオーロの手綱を受け取った。


「ありがとうございます、助かりました」

「構わん、構わん。けどこれ、一体全体どうしちゃったっていうのよ」


ゴーグルを外して、熊谷はそっぽを向きあう二人を眺めていた。調教を終えたばかりのヨサリオーロは、耳をぺたんと下ろした状態で彰の方に顔を乗せる。暑いよ疲れたよ、と言いたげなヨサリオーロを撫でながら、彰はほとほと困り果て、「まあ……」と曖昧に返した。


ヨサリオーロ号が所属する附田競馬から、彰たち須和牧場にジュニアカップへの招待状が届いて、約一日。レースを終えたヨサリオーロを連れて、彰は工藤厩舎を訪れた。短期放牧の合間の──といっても、放牧は須和牧場で行うため、調教を少し休む以外は普段となんら変わりはないのだが──軽い運動も兼ねて、身体に不調が無いか診てもらうためだった。

ヨサリオーロという馬は、本当に奇妙で突拍子もない行動ばかりしていた。しかしその人間そっくりなその行動は、大いに厩務員や調教師を助ける一因にもなりうるものだった。

たしたし、と後ろ脚を交互に動かす。首をぐるぐる回し、不満げな嘶きを小さくこぼす。その姿はまるで、運動をした翌日に筋肉痛になった人間のような、ぎこちない動きそのものであった。


コズミ筋肉痛だな。熊谷に軽く乗り運動してもらってから帰るといい」

「熊谷ジョッキーいるんですね。それなら、お言葉に甘えます」

ヨサリオーロはちょっとふてくされて、「ぶるる……」と柔らかな唇をぷるぷる震わせる。熊谷に苦手意識でもあるのか、それとも「えー、またあいつかよ?」とでも言いたいのか。しらっとした顔で彰のシャツの裾を掘り起こして遊び始めた。

そんなタイミングで、別のお手馬の調教を終えた熊谷が戻ってくる。ヨサリオーロに気が付いた熊谷は、まじめな顔をぱっと一転させ、おもちゃを見つけた子供のように目を輝かせている。


「熊谷、ちょっと乗ってってくれ。コズミだ」

「おいおい、いいのか?こりゃ嬉しい話だな!ようヨサリくん、僕と一緒にひとっ走りいかないか?」

「ぶるる……」


耳をぱたりと折り畳み、ヨサリオーロはてくてくと熊谷まで歩み寄った。彰も手綱を受け渡し、帽子を取って軽く頭を下げる。


「じゃあ熊谷ジョッキー、お願いします」

「あいよ!っくぅ~気分がいいねぇ!さあ行くぞヨサリくん!何周でも走れそうだ!」

「熊谷、軽く一周して戻ってこい。一応放牧中の馬なんだから、あまり無理をさせるな」

「へーいへい。分かってますよセンセ」


工藤の言葉を聞き流すようにして、熊谷はひらひらと手を振った。ヨサリオーロの尻尾もあわせて揺れる。ちょっとけだるげに歩く姿は、「仕方ねぇなあ」と、幼い弟の遊びに付き合ってやる中学生?男子のようにも思えた。年齢層が逆転したそれに、彰と工藤は二人でぷすりと笑いあう。


窓の外で陽気に駆け出す姿を眺めながら、工藤は彰に話しかけた。


「なあ、彰ちゃん。ヨサリちゃんの適正って……どこからどこまでだと思ってる?」

「……、ですか?」


彰はそっと腕を組んだ。脳内にヨサリオーロの血統表が浮かび上がる。それと同時に、四戦四勝したレースの内容も。少し口をもたつかせながらも、彰は自身の考えを一つ一つ言葉としてまとめ上げていった。


「……今までのレースを見ても、やっぱり短距離向きではないな……と思います」

「そうだな、俺もそう思う。……それから?」

「最低でも千六、いや千八ですね。欲を言えば二千以上がベストだと思います。最後尾から追うにしても、やっぱり距離があった方がいい」


ヨサリオーロは、何度訓練しても馬郡の中にいることを嫌う馬であった。後ろから一気に追い抜くか、自分が一番前にいないと気が済まない。

それもあって、今は鋭い末脚を活かし追い込み戦法で勝ち上がってきた。


工藤は電子端末を手に取り、画面を彰に見せる。そこには、代々続くヨサリオーロの血統表が映り込んでいた。彰にとっては、瞼を閉じても頭に浮かぶほどには眺めたものであり、次に工藤が口にする言葉も安易に想像ができたのだった。


「……あの」

「ああ?……知ってるさ、ジュニアカップの招待だろう?じゃあもう一度訊くが、ヨサリオーロの適性距離は?」

「……千八あたりから、だと思います」

「じゃあジュニアカップは?」

「ダートの、千六、です」


工藤の返答はまるで、幼子に言い聞かせるかのような口調であった。

前走は二千メートル。その前は千八百。二百メートルの差はあまりにも大きく、適性外の距離であることは明らかであった。

工藤は顎を撫でながら、困ったように彰を見た。彰は隣で、小さく息が吐かれる音を聞いた。


「ジュニアカップはなあ……」


ぽつりと呟かれた低い声に、彰はカッと体温が上がっていくのを感じていた。舞い上がっていたのだ、とも思った。ヨサリオーロが順調に勝利を重ねていたこと、それが認められ、附田競馬にて名の通った重賞レースに招待をされたこと。そのすべてに浮足立っていたということを、彰はようやく理解したのである。


ジュニアカップは、ヨサリオーロの血統からしても、脚質からしても──あまりに不利と言ってもいいレースだったということに、気付かぬふりすらしていたのだから。


「今、ここで言うことじゃねぇとは思うが……ヨサリちゃんにはまだ、走れるところはたくさんあると思ってる。そうだろ」

「っ……は、い」


「で、結論だが」と工藤は前置きを終えた。未来か、もしくは彰の思考を見透かすかのような色素の薄い目でじっと外を見つめている。


「ヨサリオーロには、あわねぇんじゃないか」

「……そう、ですよね」


口調こそ困ったような、諭すような雰囲気すらあったが、その言葉は有無を言わさぬものだった。


「……センセイ!せっかくのヨサリオーロの晴れ舞台を無下にする気か!?」


そういきり立ったのは、彰ではなく。傍で話を聞いていた調教助手──そして、工藤の実の息子である弥助であったのだ。





「……あー、そんな感じね。大丈夫大丈夫。結構ここの二人にはよくあることだから」

「そうですか?初めて見たんですけど」


テキパキと見合った指示を出す調教師の工藤と、年若くとも懸命にそのサポートや雑務をこなす助手の弥助。弥助の性格なのか、多少のミスはいくつかあっても、根は真面目なのですぐにリカバリーが利いた。血縁関係であることも相まって、叱責こそ多々されていても、潤滑に業務ができている。そんな二人の仲違いを想像するのは、どことなく難しい。

そして何より、普段から穏和な弥助がここまで強く言い返すことがなかったため、彰はこの状況に酷く驚いていた。ヨサリオーロも雰囲気に呑まれてしまったのか、ぴっとりと彰にくっ付いて二人の様子を窺っていた。


手綱を彰に戻した熊谷が、思わずといった感じで苦笑をこぼしながら言う。


「この二人は立場も方向性も違うからなあ、止めてもきりがないよ」

「同じ厩舎でも、やっぱり人によっては考え方もそれぞれですね」

「そう、そう。まあ、この二人にとっては単純な話よぉ」


工藤は持っていた鞭を、手持無沙汰にくるくると回した。ぴし、と止まって丁度真正面にいた二人を指す。


「理想を追い求めるか、結果を見据えるか……ってこと」


はあ、と曖昧な返事を一つ。あわせてヨサリオーロも鼻を鳴らす。そんな彰の肩を軽く叩いて、熊谷はにんまりと笑っていた。くしゃっと顔のパーツをゆがめる、そこか子どもっぽい笑い方だった。


「須和オーナー、ヨサリちゃんジュニアカップ出るんだって?」

「あ、っと……それが」

「わーってるわーってる!多分そこでイザコザってんでしょ、そこの二人はさ」


それぐらいお見通しです、とあきれたように肩をすくめていた。ヨサリオーロの尾がしなって、熊谷の背をぺしんと打つ。「チョーシに乗んな」と言っているようで、拗ねた様子で熊谷は口をすぼめていた。


「出すも出さぬも自由よ。でもさ、最終的に決めるのは須和オーナーだからね」

「……はい」

「そんじゃ、僕ァそろそろとんずらしとくよ。……ジュニアカップ出るときは、こっちの騎乗依頼忘れないでね」


つぶらな瞳でウインクを一つ投げ、熊谷は手を振って厩舎を去っていった。タイミングよくヨサリオーロが嘶いたので、「キザなやつ!」と吐き捨てているようにも思えたのだった。





「……理想と現実、かあ」


ぽくぽく、と道路を一人と一頭が歩いていく。畑と小さな森が広がるその道は、沈みかけた夕日で赤く染まっている。機嫌がいいのか、ヨサリオーロは足首を曲げて跳ねるように前へ前へと進んでいた。すっかりコズミも解消されたようで、ほっと一息つく。


季節の変わり目だというのに、陽射しは鋭いままじりじりと肌を焼いた。それでも少し経てば、秋色の風が鼻先を凍えさせる季節が来るに違いない。

ジュニアカップはひと月後。近いうちに、彰はヨサリオーロの出走の有無を決める必要があった。


「……ヨサリは、どうだ?出たいか?」

「ひん?」


どうしたの?と首を傾げられた。青鹿毛の馬体が夕日を浴び、艶を帯びて美しく輝いている。空色の透き通った眼が、彰を見てくりっと可愛らしく動いて回った。

ぴた、と彰の足が止まる。並んで歩いていたヨサリオーロが振り返り、心配そうな眼差しでこちらを見つめてくる。


「なあ、ヨサリ。俺、また逃げちゃったよ」

「……ぶも?」

「今日、工藤先生に訊かれたんだ。お前の、どう思う?って」


それに対して、随分と日和った答えを返してしまったと思う。短いより長いほうがいい。逃げるより追い込んだ方がいい。ぎゅっと唇を痛いほど噛み締めた。──投げかけられた質問の根本から目をそらして、、気付かなかったふりをしていたのだ。


「……ヨサリ。お前は、多分。ダートよりも、きっと──芝の方がいいんだよなあ」


きゅる、と二色の双眸が動く。言葉が通じていないのは分かっていたが、もう止まらなかった。山の向こうへ沈みゆく夕日が、痛いほどに眩しい。誰もいない道の真ん中で、彰は滲み始めた景色を目に映し、ヨサリオーロに語り掛けた。


「先生も、そう言いたかったんだと思うんだよ。でも、でもさあ、それってさあっ…………

お前はこっちじゃ、走れないってこと、だよなあっ……!」


ぼと、と雫が塊になって落ち、頬が濡れ始める。ぼやけた視界で、黒く大きな生き物が映り込んでいる。流れ落ちた塩水が服に、地面に、手綱にぽつぽつと染みを作っていった。


芝コースの維持費というのは、本当に馬鹿にならないものだ。だからこそ、芝コースでのレースは中央競馬特有のものとも言える。地方でも芝が併設されているのは、盛岡競馬場ただ一つだけ。しかしそれも中央競馬のそれと比べれば、幅が狭く小回りな造りとなっている。馬郡を嫌い、大外をぶん回るヨサリオーロに似合うのは、広く整った中央競馬のコース。

附田競馬の狭いダートコースとは、もはや比べるまでもないのである。


「……ほん、とは。弥助さんが怒った理由も、分かってる。先生は、お前を中央で走らせて、やりたがってる……でも、でもっ……弥助さんはっ……」


水っぽい洟が喋りを邪魔する。涙でいっぱいの目には、もはや輪郭すらあやふやな影しか映らなかった。手綱を引いていない方の手で、ぐっと目頭を押さえる。


「…………おれが、地方馬主の資格しかないことを、きっと、知ってたんだ……」


両親の意思を継ぎ、オーナーブリーダーとなった。産まれた仔馬にヨサリオーロと名付け、育て、走らせた。精一杯のことをやってきたつもりではあったが、恐らく、まだ足りない。

資金が足りない。資格がない。地方の英雄オグリキャップは、その馬主は、中央へと挑んだ際にどうしたか?──答えは明確だ、馬主としての権利を売却したのだ。

関りが断たれてしまえば、恐らく会う機会はほぼないだろう。放牧の際に帰ってこられるかも分からない。


調教助手として近くにいた弥助は、なによりも彰とヨサリオーロの縁を切ることを良しとしなかったのだ。


預けたはずの厩舎から、ヨサリオーロが脱走して牧場へと戻ってきた時。そして、工藤とは別の調教師が、ヨサリオーロの預かりを拒否した時。困惑と、悩みと。そして心の奥底のどこかで、ほっとしたのだ。

──嗚呼、これでヨサリオーロを手放さない口実が出来た、と。


その場で、帽子を深くかぶり直す。競走馬を生産する牧場主として、この考えはあまりにも甘すぎた。両手いっぱいの愛情を注ぎ、注ぎ切ってしまった。手放せなくなってしまうほどに。

結局のところ、別れの覚悟なんてこれっぽっちもできていなかったのだ。


「ひん!」


聞き覚えのある鳴き声がしたかと思うと、ぱっと視界が明るくなった。いつの間にか俯いていた顔を上げると、眩しい夕暮れの陽射しと、キャップを咥えてこちらを見つめるヨサリオーロの姿が目に映る。

二色の視線は、まっすぐに彰を射抜いて、柔らかく微笑んでいた。


「よ、さり」

「ひんっ」


器用に、ヨサリオーロはまた彰の頭へとキャップを被せた。そして、びしょ濡れになった頬をぺろりと舐める。黒く豊かな尾は、高い位置でゆらゆらと振り子のように機嫌よく揺れている。

ヨサリオーロは、ぽくり、と蹄の音を立てて体の向きを変えた。背中を彰の方に向けて、細まった目が笑っているようにも見えた。


「…………乗れ、ってこと?」

「ぶひん!」


鳴き声は、偶然であったかもしれない。もしくは、意味も分からず声を返してくれただけかもしれない。しかし、この瞬間だけはきっと違っていた。

ヨサリオーロは、その場で自ら脚を畳んでみせた。何か言いたげに、じっと彰を見つめている。

いかにも「早く乗って!」と、そう言いたげに。


耳の先まで、指先にまで熱が通っていった気がした。彰は涙を振り切って、ヨサリオーロの背に半ば飛ぶようにして乗り込んだ。あぶみに爪先を引っ掛けると、ヨサリオーロはゆったりと走り出す。

背に乗って歩かせたことはあった。しかし、ヨサリオーロの背に乗って走らせたことはただの一度もない。調教師や騎手だけが許されるものだと、そう思っていたからだ。なんの覚悟もないままに馬主になり、厩務員のように世話をするばかりの形だけの自分には、到底できる行為ではないと思っていた。

じりじりと焼けた素肌を、夏が終わりかけの風が撫でていく。遠くの空には、一番星が昇ってちかちかと目印のように輝いていた。


誰も通らない農道を、ヨサリオーロの背に跨り駆けていく。

彰を気遣ってか、全力で走るようなことはしなかった。しかし、それは今までで一番競馬(ほんもの)に近い速さだった、と。そう思った。


「…………っすごい、すごいな、ヨサリ」


景色が早送りのように、するすると左右へ流れていく。正面から吹く風が、濡れていた頬をあっという間に乾かしていく。沈んでいく夕日とほとんど同じ速度に思えるほど、ヨサリオーロは疾く走った。


永遠に、終わりが来なければ、と。そう思ってしまう。


「ヨサリ、速いな、すごいなあっ……!」


夕日に照らされた黒い毛並みがあたたかかった。

思わず言葉を呟くたびに、大きな耳がこちらを振り向いてくれた。

柔らかい体のしなりが、飛ぶように跳ねて振動はほどんど感じなかった。


「──ヨサリ!俺、やっぱり走って欲しいよ!中央で、広いターフでお前が走ってるところが、見たい!」


涙はすっかり乾いていた。代わりに彰の目には、子どものような輝きと情熱が渦巻き、煌めいている。

ヨサリオーロの耳が動いた。徐々に、ゆっくりと足の回転を緩めていく。ゆっくり、ゆっくり、ようやく時間をかけて速足程度になった頃、彰はヨサリオーロの首筋を撫でた。須和牧場はもうすぐそこだ。背から降りた彰は、すっかり夕闇に溶け込み始めたヨサリオーロを見つめた。


「ひんっ」


──ねえ、彰。走るの、楽しかった?


「…………楽しかったよ、すごく」

「ぶるるっ」


衝動のまま、首筋に抱き着いた。随分と驚かれたようだった。それでもすぐに首を曲げて、彰の背にぴたりと寄り添ってくる。抱きしめ返してくれているんだ、と信じたくなった。


「ありがとうな、ヨサリ」

「っひん!」


この馬がわがままだなんて、誰が言えるだろう。本当に優しい仔だ。

だからこそ、彼が輝ける舞台に連れていってやりたい。そう思った。単純な奴だと笑われたって構わない、それでも、覚悟は決まったのだ。彰はきゅっと唇を噛み締め、優しい眼差しを一心に受けて言う。


「……何としてでも連れていくよ、中央へ」


今から中央の馬主として申請することは不可能だ。資金も足りないし、地方馬主の資格を失うことになるからだ。しかし、彰はこの夜色の愛馬に、夢を見たいと。そう思った。

──たとえ、ヨサリオーロとの縁が途切れてしまうことになったとしても。


それが、須和彰という男の、覚悟だった。




「──いい馬だな、やっぱり」


聞き覚えのない声だった。


誰もいなかったはずの道。その真ん中に、伸びた影を携えた男が一人立っている。

耳を絞ったヨサリオーロが、彰の前に立とうと一歩を踏み出した。それを止めて、彰もようやく男と向かい合う。

聞き覚えのない声だった。しかし、それはどこか記憶にあるイントネーションをしていた。


東北にある附田競馬では滅多に聞かない、綺麗で滑らかな発音。少し鼻にかかったような喋り。それだけで、地元の人間でないことは理解がし得た。


「ヨサリオーロ号ってのはその馬か?」

「すみません、急ぎますので」

「そんなこと言うなよ。俺とお前の仲じゃねえか」


半ば呆れたように男は言う。辺りはすっかり暗く、他に誰かが通りがかる様子もない。見覚えのない不審者の影を、彰はじっと観察した。

ゆったりとしたパーカーにシャツ、そして薄いジーンズ。汚れの無いスニーカーは少し奇抜な色をしていて、明らかにこの田舎町で買えるような代物ではないと一目でわかった。刺繍が施されたキャップを深くかぶり、表情を窺うことはできない。しかし、口元はにっこりと楽しそうに歪んでいる。


「……観光客の方ですか?この辺りに泊まれるような場所はないですけど」

「あー、観光……それもあるけど、一番の理由はスカウトかな?」

「……はあ。左様で」


どうでもいい話を聞かされた。一刻も早く通り道から退いてほしいところだが、相手に今のところ、そのような意思はないらしい。どこかしらけたような空気の中、男は視線を彰からヨサリオーロへと移した。

淡い夜空の元、艶光りする黒の馬と、世にも珍しい水色の片魚目オッドアイ。可愛らしさと凛々しさを兼ね備えた顔立ち。つい見つめてしまうのも仕方がないな、とは思った。その証拠に、ヨサリオーロはパドックでも至極受けがいい。


「確かに綺麗な馬だ」

「ああ、ありがとうございます。……ええっと、すみません。通りますので少し除けていただいて……」

「けどダート向きじゃない」

「…………えっ?」


男の首が小さく、かくんと動いた。帽子の陰からうっすら見えた瞳には、尖って冷たい氷のような光が宿って見える。ベテランの騎手である熊谷や、附田競馬の相馬がこのような目をしていた、と彰はふと思い出した。

──見透かすような、選ぶ権利を持った側の目だ。


「歩行は滑らかでぎこちなさがない。でも身体の幅が薄いし、首も長めだ。見た目からして長距離向きなのが見て取れる」

「……あの、貴方は」

「なあ、なんでダート走らせてんの?」


まるで、金槌で頭を殴られたかのような衝撃だった。関係者でもなんでもない相手から口を出されたこともあったが、彰にとっても非常にタイムリーな話題だったからだ。

思わず眉をひそめて口をつぐんだ彰に対し、男は慌てて言葉を取り消した。


「別に、責めてるわけじゃない!地方競馬がダートコースメインだってことも、もちろん承知の上だ」

「…………すみませんが、関係者以外の方にはお答えできかねます」

「いや、だから、そういうことが聞きたいんじゃなくてだな……!」


埒があかない。耳をすっかり絞ってしまったヨサリオーロの手綱を引いて、断固として道を譲らない相手を睨みつける。


「退いてください」

「…………ちょっと待って。もしかしてこれ、マジで気付かれてない?」

「退いてくださいと言っています!」

「ぶるるっ!」


ギンッ、とヨサリオーロの目が尖る。男と彰はそれを見て、同時に「あ」と言った。機嫌の悪い彰を察したのだろう、ヨサリオーロはのしのしと口を開けたままの相手に近付き、ぐいっと顔を覗き込んでいた。そして、また睨みをきつく利かせると、ひったくるようにして男の帽子を奪い取る。ぽかんとするばかりの男を横目に、ブーメランのように美しい軌道を描いて、帽子を遠くへと放り投げた。


「ぶもッ!」

「ちょっ、ヨサリいいい!?」


帽子はくるくると回って、長い滞空時間を終えると藪の中へと姿を消した。日が暮れてしまったこの時間帯に、あの帽子を探し出すことは不可能に近いだろう。さっと血の気が引いていくなかで、ヨサリオーロはご機嫌に鼻を鳴らしていた。


「ぶひん!」


ぺしん、と彰はヨサリオーロの首筋を軽くはたいた。どうよ!じゃないんだよ。そう呟いてから深々と頭を下げる。


「……うちの馬が、大変申し訳ございません」

「…………ん?えっ?」

「貴方の帽子、すぐ探します。もしくは弁償させてください。ご連絡先をお伺いしてもよろしいですか」

「ちょ、ちょっちょっちょっと!ちょっと待ってくれって!」


男は酷く焦っているようだった。無理もない。突然現れた馬から帽子を奪われ、おまけにそれをおもちゃのように投げ飛ばされたのだから。

しかし、男が口にした言葉は、彰の想像していたものとは大きく異なっているものであった。


「マジで、覚えてないの?」

「……すみません、どのことを仰っているのか」

「…………うっわ、マジかぁ……おいおい嘘だろ……」


悲嘆さが滲み出るような声であった。機嫌を損ねただろうか、と恐る恐る頭を上げる。すると、意外な顔立ちが彰の視界に飛び込んできて、思わず目を丸くした。


少し尖った鼻と、涼しげな目元。髪の色はいたって普通の、と思ったが、街灯に照らされると明るい茶色に染められているのが分かった。

存外整った顔立ちと、垢抜けた外見に驚く。なぜこんな人物がこんなところで話しかけてきたのか、彰には皆目見当もつかない。しかしどこかで見覚えのあるような、ないような。

記憶の糸をたどり始めた瞬間だった。目の前の男が、がっしりと彰の腕を強く掴んだ。小柄な彼にしてはその力は驚くほど強く、思わず彰は顔をしかめて声を上げる。ヨサリオーロの目が、また細く、鋭くなる。


「お前!俺の顔を忘れたなんて言わせないぞ!?」

「いやあの、忘れたも何も初対面で」

「だーかーらぁー……!からかってんだとしたら、マジでタチ悪ぃからな!彰、お前……なんでいつもそう、馬のこと以外は一切興味がないわけ!?」


最後辺りの声は、涙ぐんで震えてさえいた。見も知らぬ人間相手に、どうしてここまで言われよう。ほとほと困り果てた彰であったが、ここではた、と気付きを得る。

彼は、どうやら自分のことを知っているらしい、ということに。


もう一度じっくりと顔を眺める。都会の人間っぽい顔だと思った──違う。がっかりしたその表情に既視感を覚えた。眉がしょんぼりと垂れて、唇を噛み締めるこの感じ。どちらかといえば、幼少期に見慣れていたような──。

彰の腕は、いつの間にか相手から解放されていた。肩を落とした男の前に屈みこみ、彰は相手の伸びた前髪を手で捲りあげる。


「あ」

「…………え?」

空太くうたじゃん。お前、なんでここにいんの?」


彰が、競馬学校に在学していた時。その同期であった青年──高伊空太が、きょとんとした目でこっちを見ていた。


「…………な」

「な?」

「……なんで、じゃ、ねえんだよッ!このックソボケナスがァーッ!」


ぱぁん!という乾いた音と共に、二人分の悲鳴が上がる。一つは頬に至近距離から張り手をされた彰のもの。そしてもう一つは、そんな様子を見たヨサリオーロから盛大に頭突きを食らわされた、空太のものであった。



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