第4R テキ

 第四話


『──最終コーナーを回りまして、先頭エレキスピナー!二番手外からスピネルクラウト!サラウンドボーイは後方へ下がった!残り200メートルを切る──


 いやまだだ!外の外からまた、夜がきた!ヨサリオーロが大外からぶん回ってくる!

 ただ1頭だけ足が違う!ぐんと伸びた!残り100!

 かわすか!?かわした!もう止まらない!エレキスピナーをかわしてヨサリオーロ今ゴールイン!


 ……勝時計は2分3秒8でした、ヨサリオーロ4連勝!快勝です!

 2着エレキスピナー、3着はスピネルクラウトに見えましたが接戦か。着順が確定されるまで、お手持ちの勝馬投票券はお捨てにならないように──』



「っうああああよさりぃ~!!かっこいいよあんた!超カッコイイよーっ!!」

「ひかる、気持ちは分かるけどちょっと落ち着いて、お願い……周りからの視線が痛いから……」


 巨大なスクリーンいっぱいに、我らがヨサリオーロが映り込んでいる。二千メートルを駆けた直後であるにも関わらず、二色の彼の眼はいたずらっぽい光がちかっと見えて、ぺろりと舌を出しては楽しげに歩いている様子が伺えた。

 それに対して黄色い声を飛ばすひかると、げんなりしながら肩身を狭める彰。それを見た通りがかった小柄な男性が、一人苦笑いをこぼしていた。どこかで見覚えのあるように思えた彼は、スクリーンに映ったジョッキーとそっくりな顔で笑っている。


「にぎやかっすね」

「すみません、本当にすみません……」


 いいっすよ、と彼はまた笑っている。するりと横を通り抜けて、彰の隣の席に腰を下ろした。その表情が、画面に映った熊谷騎手にとても良く似ていた──あ、と思わず声を上げる。元々ヨサリオーロに騎乗予定であった、熊谷智幸がそこにいた。熊谷弘成の実の息子である。

 すっかり怪我も良くなり、無事に退院を果たしたと彰に連絡が入ったため、こうして直接競馬場で落ち合おう。時間が合えばご飯でも──そういった流れとなった。年が近いこともあってか、彰と智幸は案外、馬が合う。


 しかし、彰は少々居心地悪そうに体をすくめて、隣でスクリーンを眺める智幸に対して小声で問いかけた。


「……ほんとによかったんですか?」

「ん?なにが?」

「あの、最初は智幸くんがうちのに乗ってくれる予定で、でも……」

「ああ、そのこと」


 智幸はちょっと困り顔で頭を掻いた。視線はまっすぐ、地下馬道に戻り始めた父の姿を追っている。反射した光が映り込んで、黒い目がちかっと光ったように思えた。


「元々親父には逆らえる性分じゃないっすし、それに……あんなに楽しそうに乗ってるの久々だったんで」

「え、熊谷……えっと、弘成ジョッキーが?」


 あんなに勝ってるのに。思わずそう呟けば、そうそう、と智幸が首を縦に振った。

 智幸の怪我により、急遽父である弘成の乗り代わりとなったヨサリオーロの新馬戦。智幸が復帰するまでの間だけの騎乗、という話で依頼していたのだが──現に、復帰を果たした智幸は観客席ここにいる。一体これはどういうことなのか、それを知るには先日の出来事にまで遡る必要があった。

 ヨサリオーロの四戦目となる今日のレース、その二週間前のことである。


 *


「──すみません、俺、ヨサリオーロには乗れないっす」


 開口一番、工藤厩舎へと現れた智幸はそう言った。ギプスを嵌めて吊られた腕と、いたるところに貼られたガーゼが痛々しい姿だった。


「そりゃそうですよ……そんな具合で乗っていただくわけにも」

「ああいや、そういうことでもなく。復帰しても、ヨサリオーロには乗れないってことっす」


 至極真面目な顔でそう言ってのける智幸。彰が驚きで大きく目を見開いたのを見て、近くにいた工藤がバインダーを振りかぶり、ぱしんと智幸の頭をはたく。


「ばか、ちゃんと言え」

「いって、すんません。別に俺が乗りたくないわけじゃないっすよ!むしろ乗りたかったのに……親父がヨサリオーロに乗りたいそうで」

「熊谷……あ、えっと、弘成ジョッキーが?」


 そうっす、と智幸が返す。少しばかり遠い目をして、ふうっと深いため息をもらしている。


「病院に珍しく見舞に来たと思ったら、お大事にの言葉もなく、『あの馬はお前にゃ勿体ねぇ、譲れよ』──ときたもんだ」

「……ええ?いやまさか、そんな」

「そのまさかですよ。でも俺だって、新人とはいえ騎手としての矜持があるっすからねぇ」


 すう、と息を吸い込んだと思えば、思わず耳を塞ぎたくなるほどに通った声で智幸は叫んだ。


「ばか言ってんじゃねえ!あの馬には俺が乗るんだ!老いぼれはそろそろ引退しとけってんだ、ボケが!」


 彰と、工藤と、ヨサリオーロが驚きで体を大きく震わせた。突然の大声に、近くにいたヨサリオーロは苛立ちを露わにしていた。どすどすと背中を頭突かれる智幸はそれでも笑っていて、痛みに悶えながらもどこか嬉しそうにしている。ごめん!とどついてくる相手に謝って、軽くたてがみを手櫛てやっていた。


「……ともかく、誰が譲るか!って返事をしてやろうと思いましたよ。でもね、したらね……次に親父を見たら、もうなんにも言えなくなりましたね」

「……弘成ジョッキーは、なんて?」

「ははっ……いや、今でも信じらんないな。頭ごなしにあれがだめだこれがだめだ、お前の騎乗はなってない……なんてがなる親父がですよ?

 ……俺みたいなばか息子に頭下げてんすよ。頼む、って言ってから、ずぅっと黙ったまんま」


 やれやれ、と智幸は洋画の主人公のように肩をすくませた。細めた目からは呆れが垣間見得ていた。それでもね、と続いた言葉には深く感情が込められている。


「あんな顔見て、譲らないなんて言えないっすよ。……そんでまた、負けたっす。俺は」


 切ないような、それでも嬉しさがにじむような。そんな答え方をした智幸の顔が、あれからずっと彰の頭から離れなかった。


 *


「──中央にいた時よりも、なんならこっちに帰ってきてから一番楽しそうっすね。親父は」


 はた、と彰は辿った記憶の海から覚醒し、現実へと戻ってきた。画面の中の熊谷騎手はガッツポーズをして、何度も観客に向けて手を振っている。まるで新人騎手か、それとも子どもかのようなはしゃぎ方。ニヒルでちょっとクールな印象の彼とは、また少し違った雰囲気に思えた。

 レースを終えたヨサリオーロから振り落とされそうになっているのも含め、楽しそうに笑っている。


「……好きな馬がいて、好きな馬にまたがって、それで勝てたら……騎手冥利に尽きるってもんっすよねぇ……」


 智幸はそう呟いた。騎手であればだれもが心根に一度は思うような、切実な願いであった。

 スーパークリーク、ダンスインザダークに、サイレンススズカ。彼らだけにとどまることはない。過程や終わりがどうであれ、競走馬たちはずっと、共に戦う騎手の心を支えてきた。

 晴れやかな弘成の姿を見て、彰も智幸の言葉に深く頷いた。


「そうだ」と手を叩いた智幸が、くるりと体の向きを変えて彰と視線を合わせる。ぐっと顔を近寄せ、したり顔で笑っていた。やはり、画面の中にいた彼といたずらっけのある表情が瓜二つであった。


「須和サン、ヨサリオーロの産駒が出来たら、俺に乗せてくださいよ。新馬戦から引退レースまで、全部乗るっすからね」

「ええ?ヨサリオーロの……産駒、ですか?」

「なーに現実味の無さそうな顔してるんすか。デビューから始まって怒涛の四連勝、種牡馬入りしないわけがないでしょ!」


 智幸の言っていることは、決して間違っているわけではない。競馬は別名、『ブラッドスポーツ』と呼ばれるほど血統を重要視する傾向にある。名だたる名種牡馬、サンデーサイレンスから連なる清く正しい血統は、今なお優駿たちを生み出し続けていた。スペシャルウィークやフジキセキ、アグネスタキオンやステイゴールド。長い時を経た現在にも、赤く長い紐は繋がっている。

 二冠馬の父と、長距離重賞を勝ち得た母を持つヨサリオーロも、またその糸を紡ぐことを望まれるだろう。ましてや、地方とはいえ勝利を重ねているのであれば、よっぽどのことがない限り引退後は種牡馬として過ごすことになる。

 しかし、今この瞬間を過ごすことにていっぱいであった彰にとっては、そんなことは未だ夢のまた夢であり、到底想像できたこともなかった。引退後。種牡馬。次の世代へ。思いもよらぬ単語が浮かんでは消えて、彰は少しため息を漏らした。


「考えたことなかった……」

「ええ!?ちょっと待ってよ須和サン、今持ってる競走馬ってヨサリオーロしかいないじゃないっすか。肌馬はどうしたんすか、種付けしてないんですか!?」

「いや、ツバキはあのあと体調を崩したんで、しばらく休ませようと……だから種付けはしてないし、これからも特に予定は……」


 智幸は顔を引きつらせていた。信じられない、といった感情をまるきり表に出していた。そこに横からひかるが首を突っ込んできて、若干の呆れ顔で口を出す。


「彰はそもそも、こっちで仕事してたわけじゃないですし。おじさんおばさんの忘れ形見のヨサリオーロを育てるために、はるばる都会から戻ってきたんですよ!」


 穏和なひかるには珍しく、きっぱりとしたものの言いようであった。事情も知らないのにあれこれ口出すな、とでも思っているのか、ひかるの眼には反抗的な光が小さく浮かんでいる。それを見た智幸はきゅっと背筋を伸ばして、薄く頬を赤らめた。耳の先まで、赤く染まっている。


 突然横から口を出された、ということに対する怒りの表情でないことは確かであった。明らかに、普段見ることはない反応と顔つきである。


「へっ?はっそ、そそそっ、そうなんだ……あの、えっと、君は?」

「三浦です。三浦ひかる。ヨサリオーロ号の厩務員です!」

「そうだったんすか!?ご、ごめんっす、隣にいたのに、全然気が付かなくて……」


 フン、とひかるは不満そうに鼻を鳴らしている。それとは逆にわたわたと慌てだした智幸を見て、彰はしばらく、目を繰り返しぱちくりと瞬かせた。なにか興味深いものを見た、珍しい動物でも見つけたかのような、そんな気分である。


 とち狂ったか、突然趣味を訊ねた智幸に「ヨサリのブラッシングと削蹄の動画を見ること」と返し、縮まった距離をまた少し量られたひかるを横目に──そんな彰の元に、馬主席にいた別の人物たちが駆け寄ってくる。


「須和オーナー!見事なもんですね、ヨサリオーロ号は!」

「いやはや、本当にすごい脚でしたよ。二歳のレースだなんてとても思えん」

「そうですとも。ヨサリオーロ号が種牡馬入りした暁には、ぜひとも種付けの権利を頂戴したいものだ」


 年齢層も幅広い彼らに囲まれた彰は、バレないようにちょっぴり眉をひそめた。飛び交う言葉一つ一つに、丁寧な口調で言葉を返す。


「……とんでもないです。ありがとうございます」


 ああ、な、と彰が感じ取ったのは、話し始めてからまだ数十秒も経たない頃合いだった。

 彰を囲む複数の双眸からは、ぎらつく光がちかちかと垣間見えている。優しく、朗らかに会話を続ける馬主たちは、異様にぴりぴりとした雰囲気を漂わせていたのだった。

 連戦連勝のヨサリオーロの次走は、いつの予定か。重賞には出るのか。調教内容はどうなっているのか。血統にクロス配合はあるのか。様々な情報と利を得るべくして、彼らは獲物を狙う肉食動物のようなまなざしで彰を見ているのだ。

 須和牧場は零細オーナーブリーダーであったが、それこそ長くことを続けていたし、そうすると小さな競馬場であれば多少名は通るものだ。都会で仕事をしていた一人息子が、牧場を継ぐために帰ってきた──経験の浅い相手から零れた情報を拾い上げることはたやすいと踏んだのだろう。

 ──所詮、あちらでも、こちらでも、やるべきことは変わらないんだな。

 そう考えると、彰はまた、バレないよう今度は小さく息を吐いた。そして、社交的な笑みをやんわりと浮かべてやる。

 ぴり、とまた空気が変わった。


「お褒めのお言葉、恐縮です。ヨサリと工藤先生が頑張ってくれたおかげですね」


 困ったようにちょっぴり眉を下げ、口には微笑みを携える。どもりさえしなければ、これで充分事足りるのだ。

 余裕があって、付け入る隙なんてこれっぽっちもない──そう思ってくれさえすれば万々歳だ。都会での職場に揉まれた際に得た接待術が、どうにも意外なところで役に立つ。


「それから、あまり経営や勝負事には詳しくなくて。勉強させていただきますので、その時はどうぞよろしくお願いします」


 ──次も勝つから、よろしく。

 彰は一人、周りに対してそう宣戦布告をしてみせたのである。


 少し遠くでは、ひかると智幸がこちらの様子を窺っていた。助けに行きたいが、間に割り込むこともできず。社交場となり得た観覧席は、触れれば火花が飛び散りそうなほどに、ぴりりと鋭い空気が満ちている。それでも、人混みの向こう側に消えた彰を追いかけ、なんとか二人が壁を突破しようと思索した、その時だった。


 扉の開く音が、賑やかであった観戦席に小さく、しかし確かな存在感を持って響いた。部屋に入ってきた一人の老年が、目の色を変えて、彰の方を振り返った。長く伸ばした髭をさすって、ゆっくりと彰の元へとやってくる。彰はぽかんとしながら、それを見つめるほかなかった。なぜならば、その老年を見た馬主たちはぎょっとした顔をして、波が引くようにそそくさとその場を離れたからである。

 彰を助け出そうと意気込んでいた二人まで、豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くしている。


「──貴方、須和オーナーのご子息殿でいらっしゃったか。先ほどの勝利、お見事でした」

「……あ、ありがとうございます」


 老年は帽子を取って会釈を返した。べっこう色の丸眼鏡の向こう側で、穏やかな瞳がまっすぐに彰を見つめている。


「ヨサリオーロ号は、ジュニアカップには出られるご予定で?」

「……いえ、今のところ、予定は」


 ほっほ、と老年は笑った。茶目っ気の溢れた猫のような眼を細めて、テンポよく彰との会話を続けている。


「ならば、ぜひ出走していただきたいのです。我々はヨサリオーロ号に素晴らしい素質を感じております」


 彰は思わず、乾き始めた喉に唾を押し込んで、小さな嗚咽をもらした。


『ジュニアカップ』。附田競馬が施行する、特に優秀とされる二歳牡馬のみが出走を許される地方競馬の重賞競走だ。

 そしてなにより、ジュニアカップ一番の特徴としては──附田競馬から直々に、レースの招待を受けるということ。勝利数に限らず、素質を見込まれた競走馬が出走するということで、「シンデレラ・ボーイレース」というキャッチフレーズにて知られている。


 目の前の老年は今、「ヨサリオーロ号をジュニアカップに出走させてほしい」と、そう言った。そこから導き出される端的な答えは、一瞬にして彰の肌を粟立たせるのに充分なほどの驚きをもたらしていたのだった。


 異常なほどに、辺りはしんとしていた。遠くの馬の足音でさえもはっきりと聞こえる程に、強大な沈黙が観戦席を支配している。老年は年にしてはあどけない笑みを浮かべたまま、紳士的に一礼し、彰にゆっくりと語りかけた。


「……驚かせてしまいましたね。私は附田競馬における責任者のうちの一人、相馬と申します。須和牧場様には、かねてより大変お世話になっておりましたよ──須和オーナー」


 シックな帽子をかぶり直して、相馬と名乗った老人は微笑む。数秒経過して、ようやく意識を取り戻した彰はこわばった肩をなんとか動かして礼を返した。ぱき、とブリキの人形のように関節がいびつな音を立てる。


「……っこちらこそ、お世話になっております」

「そんなに硬くならないで。今回のレースも楽しませていただきました。彼は本当に楽しそうに走りますね、愛情をもって接してもらっているのがわかります」

「お褒めのお言葉、ありがとうございます。精進します」


 そう言葉を返すと、相馬はまたやんわりと目を細めた。そして、ふふ、と息をもらすようにして小さく笑っていた。

「貴方は……貴方のお父様お母様とは似ているようで、やはり違っていますね」

「……えっと、それは」

「いや、失礼しました。関係の無いことです。……年を取ると、どうも無駄話が多くなって困ります」


 この場にいる誰よりも鋭く、星のように明るい目で、老年はまっすぐに彰を見据えている。ぞく、と背筋が震えたが、一度唾を飲み込んでから彰は更に視線を返した。


「ヨサリオーロ号は素晴らしい走りをしました。そして、彼にはその素質がある──ぜひ彼を、ジュニアカップへ出走させていただきたいのです」


 一瞬の沈黙。

 しかしその静謐はいつまでも続かなかった。きゅ、と彰が己の拳を握りしめる音が聞こえて、乾燥し始めた口を小さく開いた。


「……ありがとうございます。もちろん、そちらのお話をお受けしたく思っております。……ですが」


 そこで、彰は一度言葉を止めた。ふっと視線を逸らし、今はもう黒一色の姿が見えなくなった、からっぽの本馬場を見つめている。


「先生と……工藤調教師とも、一度相談をさせてください。走った後の怪我があるかもしれない。厩舎までの道中で何か見つかるかもしれない。コズミが出るかも。蹄鉄が緩んでいるかもしれません。……俺は、ヨサリオーロを一番大事にしたいと、そう思っているので」


 そう言い切って、彰はようやく一息ついた。それと同時に、その場の緊張感も少しばかり緩み始める。

 ジュニアカップ、ヨサリオーロ号が電撃参戦。出走に前向き。そんな言葉がひそひそと小さくあたりを飛び交うようになった頃。相馬はまた人のよさそうな笑みを浮かべて、一人何度も頷いていた。


「……うん、うん。分かりました。ではまた改めて、ジュニアカップの招待状を送らせていただくということで?」

「はい。……この場でお返事が出来ず、申し訳ないです」

「構いませんよ。賞金だとか名誉なんかより、なによりも我々が大事にすべきものは競走馬たちですから」


 何気なく放たれたその言葉に、何人かの馬主たちが肩を震わせた。相馬はそれを気にすることもなく、「では」とまた帽子を取って軽く一礼し、彰の隣を静かに通り過ぎていく。

 扉が閉まる音が聞こえた瞬間、どっと力が抜けたような気がした。


「…………ッ彰ぁー!!」


 背中からすさまじいほどの衝撃が加わる。緊張の糸がほどけた、というわけでもなく。力が抜けたのは単純明快、背後から不意打ちの攻撃を受けたからである。その正体は言わずもがな、栗色の長い髪を揺らして彰に突撃したひかるであった。

 肺から空気の抜ける音。あとは、骨身に響く追突音と衝撃。めきょ。


「須和サーンッ!!」


 隙を与えぬ二段構え。二度目の衝突、今度は真正面から。もはや親しみすら覚え始めた、不穏な音が全身を伝って耳に響く。めきょきょ。

 ──いや、ひかるはまだ分かるが、なぜ関係のない智幸ジョッキーまで?


「彰大丈夫か!?怖かったねっよく頑張ったねあんたーッ!大勢前にしてよくヨサリのことを思って返したよぉ!」

「須和サン、なんすか今の!?ヨサリがジュニアカップに出る!?クッソ羨ましいんスけど!?あ~ッやっぱり親父に譲るんじゃなかったクッソーッ!」


 彰が抜け落ちそうな意識を必死に手繰り寄せる中、前後で彰を挟む二人が必死に裾を握り合う。もはや言葉ではなくただの叫び声と化し始めたそれを諌めるべく、彰は仕方なく強行手段に出た──己よりも低い身長、二人の頭頂めがけて拳を振り上げたのである。

 ゴツン!と案外小気味よい音がしたかと思うと、二人はつむじを押さえその場に撃沈した。ひりつく拳をぱきぱきと鳴らしながら、彰は優しく微笑んで見せる。


「お〜い?……子どもか?お前らは」

「いやだってね彰、私たちはね、彰を心配して」

「そうっすよねぇ~、いやあつい体が勝手に」

「……ああそうだ、この後寿司食いに行くって予定。お前らの代わりに先生と弥助さんを誘おうと思うんだけど、どう思う?」

「すいませんでしたオーナー、私たちが悪うございました」


 成人済みであるにも関わらず、今にもべそをかきだしそうな二人。そんな様子を見たからか、周りの馬主たちも居心地悪そうに、そそくさと観覧席を後にし始める。深いため息を一つもらして、彰は正座をする二人の前で腕を組んだ。悩まし気に眉をひそめれば、二人は「この通り!」と深々と頭を下げる。


「いいか、静かなところで騒いじゃいけない」

「静かなところで騒ぎません」

「急に走ったり、人相手に馬と同じ力加減で接してもいけない」

「はいオーナー、節度を持ちます」

「このままじゃお前ら、ヨサリオーロ以下の扱いだからな」

「すみません、どうか寿司だけは!」


 彰はまた嘆息をもらした。しかしこれ以上の醜態をさらすわけにもいかない、と、仕方なく話を終える。その場に残った複数人の馬主が、三人の会話を盗み聞きした挙句、笑いをこらえているところを視界の端にとらえたからであった。


「わかった、もう頼むから、あんまり騒がないで──」

「──失礼します!須和オーナー!……いらっしゃいますか!」


 バタン、と騒がしく扉がまた開かれる。視線がぱっとそこに集まって、部屋に入ってきた人物はそれに慄いた。短い黒髪があちこちに跳ね回っている、ヨサリオーロの調教助手である弥助であった。彰の姿を見つけると、ほっとしたように目に涙を浮かべて駆け寄ってくる。心なしか、いつもよりげっそりとして砂にまみれているような。


「ああ……須和オーナー……」

「ちょ、弥助さんどうしたんですか!?今の一瞬でこんなにやつれて……!」


 嫌な予感というものは、本当によく当たるものである。脳内に鳴り響く警鐘を振り切って、彰は倒れかけた弥助を支えた。後ろの二人も目を丸くして、今にも昇天しそうな弥助の周りを囲う。


「ヨサリ、オーロが……」

「ヨサリが……?まさか、怪我を!?」

「いえ、ヨサリ、オーロが…………

 レースから戻ってきても、オーナーがいないので……放馬寸前になりながらオーナーを、探し……歩いて……」

「まぁた迷惑かけとんのか!?……コラァッ!ヨサリーッ!!」


 思わずそう彰が叫ぶと、聞き覚えのある鳴き声が階下から響いた。それと共に、調教師である工藤の、やけに気合の入った怒声も聞こえてくる。


『ぶひいぃいん!』

『彰ちゃんッ頼むー!はよ来てくれェーッ!!』


「あの……今何とかセンセイ(工藤)が抑えているところで……、急いで戻ってきていただいていいですか……」

「分かりました!……本ッ当にすみませんいつも!本当に!ごめんなさい!」


 彰は弥助を支えていた手を放し、ぱっと部屋から飛び出した。背後からゴツンという音が聞こえたのは、弥助がそのまま倒れ込みでもしたのだろうか。それを確認する間もなく、彰は声の聞こえる方へと足早に駆け抜けていった。


 *


 沈黙が戻り始めた部屋で、ひかるは倒れた弥助を抱え起こした。日々厩舎にて仕事をこなす彼女にとって、気絶した成人男性を抱き上げることは──彼女自身の筋肉量もあるだろうが──存外簡単なことであった。病み上がりの智幸はぼんやりとそれを眺めるだけに止められたが、ふと先ほどの出来事を思い出し、ぽつりと呟きを一つもらす。


「……ヨサリオーロ、マジでジュニアカップに出るんすね」

「まだ分かんないよ。でも、多分出す方向にはなると思う。工藤先生も賛成してくれると思うし、名誉なことだもん」


 くす、とひかるは笑いをこぼす。弥助を近くのソファに寝かしてやると、強張った肩をぐっと伸ばした。


「彰は断っちゃうかと思ったけど、意外だったなー」

「っええ!?断る理由がどこに!?」

「まあ単純に、目立ちたくないからじゃないかな、と思うけど」

「いやいやそんな、だって競馬っすよ?デカい重賞を出て勝ってなんぼじゃないすか!」


 勝てば賞金が得られる。勝てなくとも出走手当が懐に入る。実力があればあるだけ名は通り、賞金獲得の機会が増える。強い馬はどうやったって注目が集まるもの。

 そんな至極当たり前のことを避けたがる彰を、智幸は上手く理解できなかった。しかし、幼馴染であるひかるはなんとなく事情を知っているようで、今度は凝り固まった首をぱきっと鳴らしながら、ちょっと困ったような顔をしてみせた。


「目を付けられると、面倒なことになるんだって」

「誰から?」

「んー……一応、昔馴染み?」

「あー……?競馬嫌いとか賭け事ムリとか、そういう?」

「ううん、全然。競馬好きだし、むしろね──」


 ひかるの言葉を遮って、電子音が静かな部屋に響いた。聞こえてきたのは、「ザ・チャンピオン」。地方競馬場である附田競馬では耳にすることないそのメロディーに、智幸は疑問を覚えて首を傾げる。


「あ、ごめんなさい。マナーモードにするの忘れてた」


 そう言って、携帯端末をポケットから取り出すひかる。厩舎で働く、彼女らしい着信音だ、と智幸はその場で頬を緩める。そして、液晶に表示された文字列が目に入った瞬間──驚愕の表情を浮かべ、勢いよくひかるを振り返った。


「…………マジ!?」

「ふふ、マジだよ、マジ」


 自慢気な顔で笑うひかる。そして彼女が手にした端末には、とある人物から電話がかかってきている。流れてくる「ザ・チャンピオン」の着信音と、光り輝く液晶画面が、なによりの証拠であった。


 表示されていた名前は、高伊空太。

 それは、父の名を継ぐ若き天才──ついに関東リーディング入りを果たし、一躍有名となった。関係者であれば誰もが知る名ジョッキーである。


「…………アイツに見つからないと思ったら、大間違いだぞぉ?……彰」


 嘘だろ、という言葉を繰り返す智幸をよそに、ひかるはぽつりと呟く。面白がるような笑い声を上げ、したり顔を隠すように、携帯端末で歪んだ口元を覆っていた。

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