第3R 夜色ルーキー
第三話
電話が鳴る。繰り返し響くコール音は、どろりと襲いかかる眠気から意識を覚醒させるには充分だった。身体を包んでいたタオルケットの隙間から、にょきっと腕だけを生やして伸ばす。携帯端末を掴み取ると、未だ眠気が残る声で応えた。
「…………はい、もし、もし……」
『──どもども、天才若手ジョッキーさん。朝ですよ!』
「……眠いから、切るよ」
『ちょ、切るな!空太!あんたまたこんな時間まで寝てんの!?』
「お前は俺のお袋か……」
のそり、と身体を動かせば、頭からタオルがパサリと音を立てて落ちる。あちこち跳ね回った毛先を摘みながら、男は部屋で一人大きな欠伸をした。それをうっすらと感じ取ったのか、電話口では元気な女性が『おいこら!聞いてる!?』と思わず文句を口にする。それに対して、はいはい、と適当さが垣間見える返事を一つ。
「久々の休みくらい、寝させてくれんもんかねぇ」
『休みならレース見れるよね!是非、見てほしいものがあるんだけど!』
「……ひかる、労働者を労わろうという気はないのかな」
『わっはははー!ないよ!』
電話口のひかるは楽しそうに、ケラケラと笑っている。よく耳をすませれば、声の向こう側からも何か騒がしい歓声や、物音が聞こえてくるような気がする。空太、と呼ばれた男はすぐにその正体を理解した。競馬場だ、と。すぐにそう勘づいた。
「……どこ?附田?」
『そう!附田の新馬戦、第5Rだから!』
時計を見る。第5Rということは、もうパドックは始まっている頃合いか。空太はノートパソコンを立ち上げて、言われた通りに見知った競馬場の中継を繋げた。
燦々と注がれる初夏の日差しを浴びて、歩く二歳馬の毛がツヤツヤと輝いているのが分かる。新馬戦のパドックは、三歳馬や古馬とはまた違った感覚が楽しいものだ。馬も、人も、どこかソワソワした表情で足取りも軽い。それらを眺める客は、運動会を見にきた親といったところだろうか。カメラを遠くから構えて、まだあどけない顔の二歳馬たちを微笑ましく見つめていた。
「これの、何を見せたいって?」
『ふっふっふ。聞いて驚け見て驚け、ってやつだよ。探してみな!』
いかにも面白がるような言い方で、電話の向こうから声が聞こえた。空太はガシガシと頭を掻いてから、じっと画面を見つめることにした。ステンレスのカップに白湯を注いで、ぐっと口に含みながら意識を集中させる。
鹿毛の牝馬。首が大きく揺れていて興奮している様子が見て取れる。厩務員も必死になって連れ添うが、あの様子では落ち着くまでに時間がかかるだろう。芦毛の牡馬。まだ毛が黒く、緊張からか汗をびっしょりかいている。余り良い走りは期待できないな、と思った。その後ろを歩く栗毛の馬は、グッと首を下げて、落ち着いた様子で周回できている。狙い目はここか。なんとなく目星をつけて、空太は再度カップに口をつけた。
「──5番、ヨサリオーロ。馬体重448キロです」
雲の隙間より差し込む光が、一頭の馬を照らし出す。お、と思わず声が漏れた。
美しい馬体だった。
どこまでも黒一色の毛並みがぴかぴかと照って光っている。片方は丸く可愛らしい瞳だが、もう片方は薄い青色で、どこか相手を睨みつけている様にも思える、不思議な馬だった。二歳馬とは思えないほどに確かな威厳を感じさせる馬であり、明らかに他と比べて浮いていた。
──まるでカメラ越しに、こちらが見つめられているかのような。
空太は頭を振った。そんなはずがない。たかだか二歳になって半年の競走馬に、そのようなことを考えてしまう自分を恥じた。しかしその馬はどの馬よりも、一等目を引く存在だった。
「……魚目の馬ね、珍しいじゃん」
山葡萄のような深い色の目と、春の空のように薄い水色の目。いわゆるオッドアイの競走馬は滅多に見ない。一人前の騎手として中央競馬で活躍する空太であっても、なかなかお目にかける機会はなかったと言えるだろう。
おそらくパドックでは、彼を一目見た観客が応援馬券を買っているに違いない。一番人気、そして地方競馬の掲示板では既に名前が上がっているようであった。
「馬体重、軽めだな。……走れるのか?」
しかしながら、見目が良い馬だからと言って走るとは限らない。空太は斜に構えた素っ気ない態度で、その馬への感想を小さく声に漏らした。
二歳馬とは思えぬ堂々とした動きを見せる馬、ヨサリオーロ号。そんな気高い空気を纏う彼は、突如並んで歩く厩務員を振り切ったかと思うと、観客席にいた一人の男性に首を擦り寄せた。誰がどう見たって、青鹿毛の馬は何度も繰り返し顔を擦り付けて、仔馬の様に甘えている。相手は馬主か、それとも他の厩務員か。そう思ったその時。空太は思わず息を呑んで、マグカップを勢いよく床へと落とすことになる。
「──っ彰ぁ!?」
困った様な、でもちょっぴり嬉しいような、どこか照れ臭そうな。そんな男が一人、もう一人の厩務員に謝るような体勢で頭を下げていた。それは空太の幼馴染で、競馬学校で短くとも濃密な時間を過ごした相手だった。数年前の記憶と外見が多少変わってこそいたが、見間違えるはずがない。
電話口の向こう側で、ケラケラと楽しげな笑い声が聞こえてくる。予想していた反応通りだった、と息も絶え絶えなそれは言った。空太は持っていた携帯端末を、思わずフローリングの床へと勢いよく落とす。衝撃音が深く耳にこだまする。
カツーン!
──カツン、カツン、カツン、カツン。
リズム良く、まるでスキップでも踏んでいるかのように機嫌の良い音だった。誰もいない地下馬道にて、彰は青鹿毛の馬と並んで歩いている。手綱を引けば、馬はウキウキとした様子で四つ足を踏み鳴らした。
「いやあ、まさかパドック中に観客の中から須和オーナーを見つけちゃうだなんて。さすがの僕も想定外でしたよ」
「すみません、近くにいると邪魔になるかと思って……ご迷惑をおかけして、あの、本当に……」
「いやいや、かわいいモンじゃないですか。なあ、ヨサリくん?」
須和牧場の勝負服を身に纏った騎手は、ニヒルな笑みを浮かべてみせた。ぴかぴかな黒い毛並みを撫で摩ると、「なんだよ」とでも言いたげに、ヨサリオーロ号はぶるると鼻を鳴らしている。それが可笑しかったのか、騎手は馬上でケラケラと笑っている。彰はそれが申し訳なくて、何度目かわからぬ謝罪とともに頭を下げた。
「本当にすみません、次から言って聞かせるので」
「ッハッハ!まるで人間の子どもみたいじゃないですか!良い馬体に愛嬌もあって、入れ込むこともなく、マイペースに馬主に甘える……なかなか、僕もついに運が回ってきた気がしますね、ええ?」
はあ、と。彰は曖昧に返事をした。なにせこの黒い競走馬が走るのはこれが初めてであり、彼の期待通りに動いてくれるかなんて、これっぽっちも予想が出来なかったからだ。とにかく彰の願いは、人馬ともに無事にこの場所まで戻ってきてくれること。あわよくばでいいから、上々とも言える結果を携えてきてくれること。それだけに尽きていたのだから。
「じゃあ、よろしくお願いします……熊谷騎手」
「どうもどうも!それじゃ、頑張ろうな〜ヨサリくん」
熊谷弘成──騎乗予定であった熊谷智幸の実の父であり、JRAにも所属をしていた元トップジョッキーである。最近何かしらの心境の変化でもあったのか、地方競馬へと戻ってきた彼は、お手馬に乗って大穴馬券をこれでもかと産み落とす。
曰く──「嵐を呼ぶ男」と。附田競馬のファンからは、そう呼ばれていた。
そんな彼が、ヨサリオーロの新馬戦での騎乗を了承した──工藤からそう聞かされた彰は、驚きで危うく失神してしまいそうになったのも、つい先週の出来事である。
厄払いに持っていた塩をぱらっと軽く背にかけて、熊谷はゆるく手を振った。ヨサリはまだ状況を分かっていないのか、彰の顔をじっと見つめている。手綱を離し、ヨサリの全てを熊谷に委ねた。そっと首筋を軽く撫でて、「頑張ってこいよ」と小さく呟く。
「オーナー、早く戻ったほうがいいよ。須和オーナーがいなくなるって分かったら、多分この子またこの道戻ってきちゃうから」
冗談半分といった様子で、熊谷はそう笑って告げた。しかし、重ねられたゴーグルの向こう側にうっすらと見える双眸には、若干の強い光が見えた。多分、
気のせいだろうか、既に遠くから嘶きが聞こえる。なぜだか、甲高く親を呼ぶ仔馬のような声が繰り返し聞こえる様な気がする。
「ほらヨサリくん、ちょっと走るだけ!走って須和オーナーを迎えに行こうよ、ね!ね〜!大丈夫だから!ちょこっと!千八百メートルだけ!あとでオーナーを迎えに行ちょおおおおお突然やる気すごおおおおおッ!?」
──本当に、大丈夫だろうか。
レース前からげっそりした表情を浮かべる彰を見て、途中で迎えにきてくれた弥助がそっと背中をさすってくれた。
*
『──附田競馬場、第5R。
メイクデビュー附田、サラブレッド系2歳の新馬戦です。
ダート1800メートルの舞台、5頭が無事デビューを迎えました。
既に4頭の枠入りは順調に終わっております。最後は今回の1番人気、外枠5番のヨサリオーロ……一時はゲート入りを嫌がる様子を見せましたが、なんとか枠入りを果たしました。今にも飛び出しそうな、立ち上がりそうな勢いですが……係員がゲートから離れます。
各馬ゲートに収まりまして…… スタートしました!
ああっとッ!?大外ヨサリオーロ出遅れた!1番人気ヨサリオーロは後方からの競馬となりました!
先頭に立ったのは1番シップウジンライです、後をぴったりつくようにその外レアレフト、一馬身ほど離されましてアカネノツバキ。
その後ろオトコギダ。内セツナノキオク、出遅れました一番人気ヨサリオーロは大きく離されてしんがりにいます!
これから1、2コーナーに差し掛かります。
先頭変わりましてレアレフト、内にシップウジンライですアカネノツバキはまだ控えている、1馬身ほど離されオトコギダ、外セツナノキオク。しんがりヨサリオーロは後方集団から5馬身ほど離された状態で行く!残り1200メートルを通過──』
「おうい、ヨサリくん。しっかりしてくれよ」
思わず、といった様子で熊谷がため息をつく。騎手を乗せたヨサリオーロは、そんな斤量を一切感じさせない様な優雅なステップで、悠々とダートコースを駆けている。──それにしては、前目につけた馬との差が広がる一方であったのだが。
拗ねているな、と熊谷は思った。試しに前へ前へと押してみたものの、依然として追いつこうという気概がない。オーナーである須和と離され、狭い所に短時間ではあるが閉じ込められ、走らされている。それに対していじけているのだ、この馬は。
人間の子どものようだとは言ったが、まさかここまでとは。
熊谷は手綱を捌きながら、ふむ、と馬上で一人悩んだ。このままいけば、もれなくレースの結果はビリッケツだろう。いくら出遅れたとはいえ、騎手として熊谷も諦めるようなことはしたくなかった。だから──試してみることにした。
『……本当にすみません、次から言って聞かせるので』
須和オーナーが言っていたことを思い出す。言って聞かせる。そう言った。
なぜこの馬は拗ねている?どうすればこの馬はやる気になる?まさかな、そう思ったものの、熊谷は一縷の望みをかけて──舌を噛み切りそうになりながらもヨサリオーロに語りかける。
「ヨサリくん、騙して悪かったよ。確かに、そもそも1800メートルはちょっとの距離じゃないよな。ごめんよ」
「……ぶひっ」
「お?返事した!?……あーっと、うん、ごめん!でもこのレース、負けたら君もちょっとまずいことになるかもよ」
「ぶも?」
走りながらヨサリオーロは器用に首を傾げている。本当に人間そっくりな仕草をする、と熊谷はこっそり心のうちで笑っていた。自分のことを人間だと思っているんじゃないか?と、この可笑しな状況に納得しかけている部分もあった。
熊谷はにたっといたずらな笑みを浮かべて、ヨサリオーロの立った耳の近くに口を寄せる。ぴくり、と大きなそれが熊谷の方を向く。
「須和オーナーの持ち馬、君だけなんだろ?こんなんで勝てない状況が続いたら、オーナーもどれだけ悲しむか……」
「ヒンッ!?」
小さく、しかし確かな嘶きが聞こえた。よしよし、いい調子だ、と熊谷は一人ほくそ笑む。小さな子どもを相手にするようなものだ、既に己の娘息子を成人させている熊谷にとっては、子供と対峙した状態で上手いように話を持っていくことなど造作もない。ただその相手が人ではなく、二歳の競走馬であったとしても、だ。
「ヨサリくん、逆に考えるんだよ。……ここから全部まくって勝ったら、オーナーはどれだけ喜んでくれると思う?」
「……ッ!!」
ぴん、と艶のある毛が生えそろった耳が伸びた。明らかにヨサリオーロの目の色が変わる。がちん、という金属音が熊谷の耳に入った。ハミを噛み直したのだ。そんなあからさまな変わり様に、今度は思わず苦笑いが顔に浮かんでいた。
しかし、だ。状況は改善された。あとはもう走るだけ。第4コーナーに向かう手前のところで、熊谷は軽くヨサリオーロの腹を蹴った。
「──さァヨサリくん、ぶっちぎったれよォ!」
『──なんとここでしんがりヨサリオーロが上がってくるッ!
本当にそのペースで保つのかヨサリオーロ!大外を回ってスーッと前めに上がってきた、が……。
抜いたッかわしたかわしたヨサリオーロ!?
オトコギ食い下がるが構わない!ヨサリオーロかわした!
かわしてあっという間に3番手まで上がってくる!
シップウノジンライに並びかけ──るまでもない!
更にかわした!かわした!先頭で粘るレアレフトまでもう1馬身もないぞ!
直線コースに入って残り200メートル!レアレフトに並んだ並んだ!
ヨサリオーロあっさりかわした!まだ伸びる、まだ伸びる!グングン伸びる!
その差は2馬身から3馬身、いや5馬身だ!2番手との大きな差をつけて、出遅れなんて関係ない!大外からヨサリオーロが今、
1着でゴールイン──ッ!!』
*
「はああっ……」
詰まらせていた酸素を、彰は思い切り吐き出した。
ヨサリオーロが勝った。新馬戦を見事一着で飾って見せた。機嫌良さげに砂の上を駆けて回る彼に、彰はようやくホッと胸を撫で下ろす。歩き方に異常はない。帰ってくるまではまだなんとも言えないが、おそらく大丈夫だ。
「帰ってきたら、褒めてやらなくちゃな」
ポケットにしまった角砂糖を取り出しながら、彰は地下馬道を通って一人と一頭を迎えに戻った。ぱ、と初夏の日差しが目に焼きついた時──黒い閃光が勢いよく彰の元へと突っ込んだ。
ドンガラガッシャン、となし崩しに尻餅をつく。転がった角砂糖にも目をくれず、それは彰の顔に盛大に己の顔を擦り付けていた。
「んぶぶぶぶっ」
「ちょ、んぼ、ヨサリ!舐めるのやめ、コラ!」
黒い何かは、まごうことなきヨサリオーロ号であった。鼻をぶるると鳴らしながら、勢いよく彰に向かって飛びつく。リクルートスーツはもう彼の涎によって肩がびっしょりと濡れていた。まんべんなく顔を舐められたあとは、はみはみと口先でスーツの裾を咥えられる。
「おいおい、ホントになんてやつだこの馬は」
後ろから一人歩いてきたのは熊谷だ。ヨサリオーロから降りたのか、それとも振り落としたのか──多分勢いと彼の土汚れを見るに、振り落としてきたに違いない──肩をすくめてこちらに近付く相手に対し、彰はさっと顔を青くする。
「熊谷ジョッキー!あの、すみまべぶぶぶぶぶ」
「ダッハッハッハ!おーい、喋る暇くらい与えてやってくれよ、ヨサリくん!」
はちきれんばかりの笑顔を見せた熊谷は、砂まみれになったゴーグルを取った──意外にもつぶらでかわいらしい印象の瞳を晒すと、バシバシと強く彰とヨサリオーロの背を叩く。恐縮する彰に対し、ちょっぴり不満げなヨサリオーロは威嚇の嘶きを上げた。熊谷はケロッとした様子で、気にすることなくヨサリオーロを撫でている。ぱらぱらと毛から細かい砂が落ちた。
「面白い馬だよ、本当に!」
「ありがとうございます、熊谷ジョッキーのおかげでふ」
ハミハミ、とヨサリオーロの唇で彰は片頬を吸われている。気にせずに話を続けようとする彰に、若干熊谷は引いているような様子を見せた。ひらひらと手を軽く振って、「ヨサリくんの実力さね」と返す。
ただ、いつもよりも低い声で言葉が続けられた時、彰は思わずぴっと背筋を伸ばした。
「……ただ新馬戦とはいえ、今回の騎乗はいただけなかったな」
長く深い嘆息がもれていた。多くの経験を積んできた古参騎手である熊谷に、そこまで言わせるのは珍しいことだった。
「どうしてですか?」
「わざわざ本人の口から言わせるか?なかなか騎手泣かせな性格してんねぇ、オーナー」
「あ、すみません……」
熊谷が肩を軽くはたいた。どうやら彰のことを怖がらせ過ぎたと思ったらしかった。鼻の下を擦りながら、悔しげに、そして少し面白がるような光を目に宿して、言う。
「乗ったのが俺じゃなくても、おそらく勝てただろうよ」
恐ろしいほどの末脚と、それを長く続けるための有り余るスタミナ。ロングスパートの掛け方は、まるで平成のアイドルホースを思わせる走りだった。今回は上に乗って、ただ発破をかけただけ。それがちょうど良くハマったんだ。熊谷はそう端的に説明すると、ヘルメットを外して居心地悪そうに頭を掻いた。
「ゲート内で宥め切ることができなかった。出遅れたのは俺の責任だ。もっと乗ってみたかったけど、もしかしたら別のジョッキーの方がヨサリくんには合ってるかもしれねえな、それこそ、智幸みたいな若手の方が」
「……そう、でしょうか?」
彰は首を傾げている。肩を頭の隙間にヨサリオーロの顔が突っ込まれて入り込む。きゅいきゅいと甘えるような声を聞きながら、彰は自身の見解を口にした。
「ヨサリオーロはゲートが苦手です。もっと言えば、多分他の馬と並んで走るのも得意じゃない。多分、競馬には全然向いてない……走るのは誰にも負けないくらい、速いけど」
鼻先を撫でると、ヨサリオーロは気持ちよさそうに目を瞑った。ちらりと熊谷に視線を向けると、器用にも片方の瞼をパチンと閉じる。まるで人間のようなヨサリオーロの仕草に、熊谷は目をパチクリとさせた。
「多分、出遅れは半分わざとじゃないですか?後ろにつけて、大外からまくって上がるために」
「……なんとでも言えるさね、勝てた今ならな」
「そうかもしれないですね。でも、ハナを奪いに出鞭を打つよりも、控えて最終コーナーから抜け出そうとするよりも──今回は正しい選択だったと俺は思ってます」
新馬戦ですから、と。彰は自信を持ってそう答えた。
新馬戦は差し、追い込みの作戦が決まりにくいとされている。好位置を保って直線で抜け出すような王道的な作戦が良いとされてはいるのだが、ヨサリオーロは後ろから狙い撃つような走りが得意であった。
そして、内ラチを攻めるよりも外を回った方がいい、とも言う。他の馬との競り合いに慣れていないうちは、距離を走ったとしても安全に大外から前に出たほうがいい、という単純明快な理由である。それらのことを考えると、きっと今回の騎乗が最善の選択だ、と。彰はそう考えて熊谷に笑いかけた。対して熊谷は居心地悪そうな顔をして肩をすくめている。
「なんだよ、分かったような顔して」
「いえそんな、一応は俺も競馬学校に通ってたんで」
熊谷はピクリと眉を動かした。「怪我で途中から普通の高校に行ったんです」と答えれば、少し納得したような顔で「お気の毒に」と返される。塩対応であるように思えたが、彰はそれがなんだか可笑しくて思わず破顔した。馬と関わる人間にとっては、競馬学校を諦め普通高校に変えるということに対し──酷く哀れまれることなのだ。
「何より、馬主の俺が言うんですから。いいでしょう?」
「こりゃ参ったな、そう言われちゃ俺からは何にも言い返せねえや」
熊谷は目を細めて、照れ臭そうに頬を掻いた。彰はそっと左手を差し出す。砂で汚れてサラサラになったグローブを軽く拭ってから、熊谷は力強く彰の手を握り返した。
「今日はありがとうございました」
「そりゃどうも。次のレースが今から楽しみですよ」
プイッ、なんて奇妙な音が地下馬道に響く。ヨサリオーロが鼻を鳴らして、何かを伝えたそうに前掻きをしていたのだった。カツカツ、ザリザリと蹄が不満気に音を立てる。二人は互いにしばらく見つめあってから、同時に吹き出すこととなった。
「ヨサリ、仲間はずれだと思ったのか?」
「おいおい、本当に子どもじゃねえか!お前の話をしてんだよ、こちとらさあ!」
二人はヨサリオーロの首筋を撫でた。満足したのか、桃色の舌をぺろりと出して機嫌の良さを表していた。二人の目に、悪戯っぽい光が宿る。
「……あの。騎乗は、新馬戦だけで……充分でしたか?」
「ハハッ!言うねえ、オーナー。随分と意地悪な言い方をする」
今度は、熊谷が舌なめずりをする番であった。乾いてひびが入りかけの唇を舐めて、ククッと喉を鳴らして笑っている。
「……足りるわけねえだろ。ウチの
長い、競走馬としての年月の始まりを、夜空に輝く星のように白く染めてみせた。未来に向かって、たくさんの夢を乗せて。夜色の馬はきっと次も走るだろう。
──ヒヒン!と。ヨサリオーロが高く、鋭く、美しく、嘶く。
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