死季

砂糖と塩

死季

 鼻腔を刺激する不吉な空気で目が覚めた。

高い湿度が体に重く圧し掛かり、動き始めるのを邪魔してくる。

冬はいつもこうだ。雪が降るからといって洗濯物を部屋の中に干していると、次の日の朝にはこの有様。いわゆる部屋干し臭に、目覚めた瞬間から気分が悪くなってくる。

「酸味がかってる。」と独り言ちるが、においなのに味ってどういうことだろと、自虐的に鼻で笑う。

また気怠い一日が始まる。

とりあえず空気を入れ換えよう。この空気をこれ以上吸いたくない。

僅かな腹筋に力を入れ、ゆっくりと体を起こす。

ふうっと一息つきカーテンに手をかけるも、開ける気がなかなか起きない。朝日を浴びたら本当に一日が始まる感じがしてならない。とりあえずいったんかけた手を下す。

このまま再び眠りに落ちてしまおうか。そうすれば騒がしい社会に向かう必要はなくなる。

いや、だめだ。

稼がなきゃ。

推しに捧げるために。

四年と四十日前の記憶がふっと脳裏に蘇る。仕事に体力も精神もボロボロになっていた。もう耐えきれずに閉じこもってしまおうかと思い始めていた頃に出会った、推し。

真っ暗な部屋の電気のスイッチを入れた、まさにその瞬間のように、目の前がぱっと明るくなった。

それからというもの、推しはいつもそばにいた。推しという名の火を灯した蝋燭が、消えることなく心の中にあった。

推しのおかげで生きてこられた。

今日も生きねば。働かねば。

そう思い直し、再びカーテンに手をかける。

さっきよりも腕が軽く感じられる。

推しを思い出したからかな。

嘲笑と微笑の狭間のような笑みを口元に浮かべ、カーテンを開ける。

想像よりも弱い日の光に、構えていた身体の力を抜く。瞼越しの光に目を慣らし、ゆっくりと瞳に外の景色を映し出す。

太陽が高く昇っていた。

なるほど。通りで部屋に差し込む光が少ないわけだ。

ということは外の空気も暖かいんじゃないか。

淡い期待を胸に抱き、硝子で区切られた外の世界の空気を取り込もうと、今度は窓の鍵に手をかける。入居した年の冬に習得した力の入れ方で、錆びついた鍵を回す。氷のように冷え切ったガチャンという音を立てながら、鉄製の鍵は百八十度回転した。

お。我ながらうまくいった。

ほんの少し気分が明るくなった勢いで、そのまま窓に手をかけ、一気に横に引く。

よし。上手く開いた。今日はついてる日なんじゃないか。

と思ったのも束の間。

ピンと張り詰めた空気が肺を刺し、鼻の奥に広がる痛みとともに涙がじんわり浮かんでくる。何枚も重ねた布団で一晩かけて育て上げた熱が流れるように外界へ出ていく。ホッカイロ並みの暖かさだった手からも、さも当然のように熱を奪われ、あっという間に今日の末端冷え性が始まる。

期待を裏切られ、明るくなったはずの気分がまた暗くなる。

でも、明るくなって暗くなったならプラマイゼロ。というか、澄んだ空気を吸えるなら、むしろプラス。

そう自分に思い込ませ、やっとのことで吸えた新鮮な空気で肺を満たしていく。

力の抜けた口でゆっくりと酸素を取り込むと、清い酸素に身体のあちこちが歓喜の声を上げているのを感じる。

ぼんやり外の世界を眺めていると、近所の

公園の雪だるまが目に留まった。

 そういえば数日前、幼い二人姉妹がせっせとつくっているのを見かけた。徐々に少なくなり始めた雪をかき集め、不格好ながらも立派な雪だるまを。あの時の雪だるまだ。

 ただ、あの時と違うのは、雪だるまの佇まい。あの日の雪だるまよりも一回りも二回りも小さく身を縮こまらせている。

ああ、春がすぐそこにいるのか。

そうか。春か。

春になると桜を見られる。満開の桜が綺麗なのはもちろん、儚く散ってしまうその姿はなおさら美しい。なんて格好つけた考えが心をよぎる。

とりあえず桜の開花予測を見よう。

枕元に置いてあったスマホを手に取るが、何となくテレビのリモコンに持ち替える。

四日ぶりに手に取ったリモコンをテレビに向け、電源を入れる。

パッとテレビ画面に映し出されたのは、

推しの、

訃報。




視界いっぱいに広がる情報は

理解されることなく

脳を通過していく。


このままだと、

死が「現実」になってしまう。

この「現実」から逃げなければ。

死が「現実」になるのを避けなければ。

テレビ画面に向けて固定されているかのように硬直した首を必死で動かし、窓の外に視線を移した。

視線の先には、さっき見た雪だるま。

その雪だるまの声が耳に入る。

「もう春ですよ。」

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