はじまり おじさん、異世界で褐色巨乳美女となったのち、会社員から冒険者にジョブチェンジする

一話目 おじさんの認識とファンタジーな世界について。

 私はおじさんである。名を、山岸やまぎしはるかという。


 兄弟姉妹の子供から見て、血縁的におじさんという訳ではなく、シンプルに、ただのおじさんだ。

 四十代も半ばに差し掛かり、いわゆる中間管理職についている。ちょっとオタク気味なくたびれたおじさんである。


 普通のレールに乗った人生を送り、仕事で忙しくしているうちに、ろくに恋愛もせず、もちろん結婚などできずにこの歳まで至ってしまった。


 世の若者達に尊敬もされず、会社の偉い方々からは気力が足りぬと叱咤されながらも、けなげに社会の歯車を回し続ける、萎びたおじさんなのである。


 こんなにも自らがおじさんであることを主張し続けているのには理由がある。本来ならばこんな悲しい事実を羅列する必要などないのだが、私にものっぴきならない事情があるのだ。


 見下ろすと勝手に目に入る豊かな胸の盛り上がりを眺めながら、私は自らがおじさんであるということを、繰り返し我が身に言い聞かせる。

 我がことながら、一体何が起こっているのかさっぱりわからない。もう一度落ち着いて状況を整理する必要があるだろう。



 今朝のことだ。

 いつも通りであれば、賃貸の狭い我が家で、寝ぼけ眼をこすりつつ、痛む体にむちうって、ゆっくりと目を覚ますはずだった。


 しかしどうしたことか、覚悟していた痛みが訪れることはなく、すんなりと体を起こすことができた。十代の頃、快眠した後には確かにこんな感覚で起き上がることができたような気もする。

 しかし、それは遥か遠い記憶で、この油の切れた体では決して味わえないものであるはずだった。


 深く考える間もなく、今度は猛烈な体の違和感に襲われた。ほんの少し体を動かすだけで、いつもとバランスが違うことが、ハッキリとわかったのだ。

 最近の運動不足のせいで、ポッコリと出始めたはずのお腹が軽く、胸のあたりが異様に重い。


 ゆっくりと立ち上がって、恐る恐る見下ろしてみれば、足元が見えずに、大きく膨らんだ胸だけが目に映った。女性の膨らんだそれの呼び名を、私は知らないわけではなかったが、言葉にするのは憚(はばか)られ、ただ空を仰ぐ。


 周りに目を向けると、そこは狭いながらも快適な我が家ではなかった。


 先ほどからチュンでもカーでもポッポーでもない鳥の鳴き声を捉えていた私の耳は、壊れてしまっていたわけではないらしい。壊れていてくれたほうが、まだましだったのではないかとも思う。


 森の中のひんやりとした綺麗な空気を胸いっぱいに吸い込んで、精神の安定をはかる。

 時折がさりと揺れる茂みや、嗅いだことのない花の香りが、私のノミの心臓をさらに刺激した。せっかく深呼吸したというのに、気持ちは全く落ち着かない。


 バクバクと脈打つ心臓の鼓動を聞きながら、私はもう一つ確認しなければいけないことを思い出した。


 首をまた下に向けて、ダルダルになったズボンの裾を前に引き伸ばしてみる。

 しっかりと確認せずとも分かる。そこにはあるべきはずのものが存在しなかった。


 ……これは緊急事態だ。大至急捜索が必要かもしれない。



 何度か現状を確認して、私はおじさんであると散々自分に言い聞かせる。

 それからようやく森の中へ出発だ。

 いつまでもこの森の仲にいるわけにはいかない。

 決断まで長く時間がかかるのは私の昔からの悪い癖だ。


 藪をかき分けてしばらく進むと、突然視界が開けてのどかな湖畔が姿を現した。


 水に今の自分の姿が映るはずだ。

 駆け寄ってその姿を確認した私は、ごくりとつばを飲んだ。


 なるほどどうして、絶世の美女である。


 目元が少しきつめではある。しかし左右対称に配置されたパーツはバランスがよく、凛々しく整っているといって差し支えないだろう。銀糸のような美しい髪は腰まで長く伸びている。日の光にキラキラと輝くその髪を、私はそっと手に取って撫でてみた。


 これは自分の身体の一部であるから、決してセクハラには当たらないわけなのだが、なんだか悪いことをしているような気分ではある。


 手に取った端からさらりと零れ落ちていくような滑らかな感触。

 頭部の扱いに慎重になりはじめていた私の髪の毛とは思えない、すばらしい触り心地だった。


 ほんの少しの間、感動に打ち震えていたのだが、はっと我に返って自分の姿の観察に戻る。


 年の頃は恐らく二十歳前後。女性の年齢というのは分かりづらいものだが、成長期はもう終わっているように見える。肌艶がとてもよく、皺の一つも見えないので、私と同年代ということはないだろう。


 更に特筆すべき点が一点。

 耳が尖っている。


 先端がシュッと長くなっている耳を持つその種族を、創作文化に馴染んだ我々インドア派の人間は、親しみと憧れを込めてエルフと呼ぶ。

 エルフだ。健康そうな褐色の肌をしているから、きっとダークエルフだ。きらめく銀の髪も相まって、その姿はいっそ神秘的でもあった。


 昔から憧れを抱いてきたファンタジーなエルフの姿を見ることができて、気分が上がっていくのが自分でも分かった。

 中に自分が入っていることだけが少し残念だけど。


 水鏡を覗き込んだまま興奮を抑えること数分。いくつかの疑問と不安がゆっくりと首をもたげてくる。


 なぜ知らない場所にいるのか。なぜこの体になっているのか。元の体はどうなってしまったのか。誰がこんなことをしたのか。言葉は通じるのか。そもそも人はいるのか。


 次々湧いてくる疑問に答えてくれるものはいない。

 「死んでしまったので転生させました」と言ってくれる神様もいなければ、「この世界を救うために召喚した勇者よ」と拝んでくれる高貴な方もいない。

 

 不安だ。


 遠くから獣の声がする。


 心細い。


 どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

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