ホールインワン
いつもの銀時計まであと少し。俺は駆け足で向かっていた。
銀時計の文字盤が目に入る前にれーこさんを見つけ声をかけた。
「すみません。遅れました」
頭を下げるとれーこさんは腕時計と俺を交互に見て11分とつぶやいた。
慌てて銀時計を見上げると確かに約束の時間より11分遅かった。あ、いま12分になった。
そんな俺を見てれーこさんは罰ゲームねと笑みを作った。
「アイスコーヒーなんて売ってますかね。あ、コンビニなら」
「待って。コンビニより自販機のコーヒーが飲みたいわ」
自販機、自販機か。でもこの時期に自販機のアイスはちょっと……。
「すみません、れーこさん。今の時期、自販機にアイスコーヒーは難しいかもしれないです」
「そうよね。普通の人はそう思うわよね」
こっちよと俺の手をひいてれーこさんは歩き出した。
大通りを進み脇道に入り路地を抜けたどり着いたのは。
「サウナ?」
見た目は銭湯で看板には大きくサウナ! と文字が描かれていた。
「そう、サウナよ」
「サウナなら冷たい飲み物が売っている。でも入場料を払わないといけないですよね」
俺が当たり前の疑問を口にすると彼女は入り口では無く脇の小窓に近寄り3回ノックをして俺を手招きした。
しばらくして小窓が開くとひとりの女性が顔を出した。
「あら、久しぶりね。元気してた?」
「ええ、おかげさまで」
「アイスコーヒー?」
「もちろん」
「今
女性が差し出したのはカラー印刷された販売目録だった。
れーこさんはそれを受け取り上から下まで目を走らせてひとつのコーヒーを指した。
「ゴールデンバランス。この季節はやっぱりこれね」
「ふふふ、いつものじゃない」
「そうね。でもせっかくのおごりなんだから好きなもの飲まなきゃ」
「おごり?」
小窓から少し顔を出した女性と俺の目が合う。
どうもと頭を下げると女性の顔がものすごい笑顔に変わった。
「もしかして例の彼?」
「そうです」
「あらあら、ようやく春が来たのねえ。あんなに泣き言いっていたのに」
「そ、それはもういいでしょう。さっさとお願いします」
慌てる仕草が可愛い。
「はいはい。じゃあ少し待っててね」
女性が顔を引っ込めて小窓が閉じてすぐ開いた。
「彼の分は買わないの?」
「彼、冷たいものを入れるとお腹を壊す人なの」
へえー、繊細なのねえ、などと言葉を残して再び小窓が閉まった。
小窓が閉じるとれーこさんは俺の方へ体を向け
「かかくん。小銭をちょうだい」
と手を差し出した。頬が少し桜色なのはさっきのやり取りからなのかそれとも外気のせいなのか。
「ああ、おごりですものね」
小銭入れから代金を出して渡すとあと少し足りないと言われた。
「あれ? 自販機ってそんなに高かったですっけ?」
「手間賃よ。入場料を払うより安いわ」
そうか、入場せずに買ってきて貰うのだからそう言う物も必要なのか。
それから少しして女性が小窓から顔を覗かせれーこさんの言った通りの料金で冷たい缶コーヒーは彼女の手に収まった。
「また、飲みたくなったら来ます」
「次は中に入っていってよ。彼と一緒に」
女性が小窓の奥から手を振る。
考えておくと言うとれーこさんは体を反転させて歩き出した。
れーこさんのあとを追ってしばらく行くと彼女は大きく溜息を吐いて缶コーヒーを開け一気に喉の奥へ流し込んだ。
俺はそれを見て背筋に冷たいものが走った。
この時期にアイスコーヒーを一気飲みするなんて、自殺だ!
俺のハラハラを知ってか知らずかれーこさんは飲み終わった缶を振ってこちらへ微笑みかけた。
「やはり冬は糖分も摂らないとだめだな」
「それでも冷たすぎるとおもいますけれど」
「かかくんにはきついと思うが私には屁でもないね」
笑う彼女に俺は疑問を投げかけた。
「それにしても、そのコーヒーってコンビニとかスーパーに売ってないんですか?」
「売ってないね。販売会社を見てみなさい」
渡された缶を覗き込んで俺は納得した。確かにこの会社のコーヒーは陳列棚には乗らない。
でも。
「そこまでしてこのコーヒーなのはなんでですか? 加糖コーヒーなら他にもありますけど」
「バランス。この季節で私の口に合うバランス。かかくんも思うわよね。この季節ならここのココアがいいって」
「ああー、思います。味って季節や体調でころころ変わりますから」
俺が頷きながら同意をするとれーこさんは俺の手から缶を奪い取り放り投げた。
それは放物線を描き少し離れた所にあったごみ箱へと吸い込まれた。
それを成し遂げた彼女はまるで失敗するはずだったかの様に驚いた顔をして俺に振り向き、俺が微笑むと彼女も微笑んだ。
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