第19話 常陸渚の目指したグッドエンド。
「やっ」
夕方、病室に入ると、そう言って美鳥が右手を上げた。
長い艶のある黒髪をふわりと揺らして、美鳥はにへらと笑って見せる。整った鼻梁、長いまつ毛に覆われた大きな瞳。改めて見ると、きれいな人だ。
美鳥が目覚めて一日。検査入院は今日まで。結局眠った原因も目覚めた原因もわからず、後遺症も見られず。すぐに普通の生活に戻れるそうだ。
「……なんだこれ?」
ベッドの傍のテーブルにはフルーツの盛り合わせとか、お菓子とか、花とか、なんか色紙に書かれた十人分の寄せ書きもある。
美鳥が目覚めたのは昨日なのだが、フットワークの軽い奴が結構いるらしい。この間まで、名前を聞かなきゃ思い出せない奴らの集まりだったの筈だが、うちのクラスは。
「明日退院するんだけどなぁ。食べきれないよこれ。渚にも分けてあげよーっと。昨日母さんが先生に連絡しただけの筈なんだけど」
「あぁ、なんかクラスのグループチャットに、寄せ書き書ける人は教室に書きに来てくださいとかあったな」
「君のは?」
「ねーよ」
「残念」
「会いに来てるだろ」
「そだね。それが一番うれしいや」
クスクスと零すように笑って、美鳥はベッドの脇の棚からクリアファイルを一つ取り出す。中身は美鳥と渚、俺の合作と言えるあの小説。
「読み終わったよ。これ」
「あぁ。どうだった?」
「まさか、私が諦めたプロットが寝て起きたら小説になってるとは、凄い錬金術だね」
「お前が寝てた期間を考えろ」
「あはは。そうだねぇ」
美鳥は明日退院して、明後日には復学すると言っている。
「大丈夫なのか?」
「休んでばかりもいられないから。君の戦うところを隣で見ていたいからね」
「そうか」
「……実は聞いてたんだよね、昨日、君が私の横で話してたこと。最後以外も全部」
「なっ……」
「寝てると思って油断してたんでしょ。うん、確かにそうだった、私も、人と関わることに絶望してたけど、求めてた。渚には、確かに助けられたな。そしてまた、助けられたんだね、私。渚が君を、私のところにまた、連れて来てくれたんだね」
夏休み明けの始業式から、教室に美鳥がいる。楽しみと不安が、俺の中で同居していた。
「小説、書いてね」
「もう準備している」
「さっすがー。どんな話?」
「読んでからのお楽しみだろ、そういうの」
「それもそうか。あはは」
美鳥は学校で相変わらず人気だった。半年間、忘れられていたというブランクなんか感じさせず、クラスの中心にあっさりと収まった。一年の時と変わらず、俺は教室の隅で本を読み、美鳥は中心で笑顔を振りまく。
そして放課後、学校の隅の図書室で、同じ時間を過ごす。
いつかと同じように、カウンターの中でパイプ椅子に座り、けれど今はぐでーっと溶けていた。姉妹揃って溶ける習慣でもあるのか。
「しばらく補習だって」
「そりゃそうだ」
「はぁ。ツイてない」
「留年するより良いだろ。テスト期間。みっちり教えるから覚悟しとけ」
「はひぃ。楽しみは修学旅行だけかぁ」
絶望感に突っ伏する美鳥を横目に、ホッと息を吐いた。戻って来たんだなぁ、この時間が、なんて。……違和感だ。
何だろう、この違和感は。
美鳥がいる。元の光景に戻っただけなのに、違和感だ。
なんであの子が来ないんだ。いや、来ないのは別に良い。いや、よくない。なんでいないんだ。姉が目覚めて戻って来たからもう用済みです、ってか。
トントントンという音が自分の指が机を叩いて出している音だと気づくのに少し時間がかかった。顔を上げると、美鳥がしょうがないなぁなんて顔をして俺を見ていて。
「行ってきなよ」
なんて言って、そっと微笑みを見せる。その言葉に立ち上がると、美鳥も立ち上がる。下から見上げてくる目は、冬の夜空を思わせる澄んだものだった。
「良いのか?」
「うん。姉としては、渚も、仲良くして欲しいんだ」
仲良く、か。美鳥の口からその言葉が出てくるとは。なら、俺は応えるべきだろう。
「あぁ。ありがとう。いってくる。すぐに戻る。あの馬鹿を連れてくる」
「あはは。いってらっしゃい」
そうは言ったけど俺は渚が普段どこで何をしているのかなんて知らない。俺と渚が学校で会う場所は、いつだって図書室で。俺から探しに行くなんてことはしたことが無くて。
そうだ。いつだって渚の方からやって来る。そんな関係だった。いや、今度は俺の方から手を伸ばす。それだけの話だ。
闇雲に校舎を歩き回り、それから下駄箱で学校内にいることをまず確認するべきだと思い直し、それからどこのクラスに所属しているのか知らないことを思い出して。そして。
「渚。何してんだ」
中庭のベンチでぼんやりと空を見上げる渚を見つけたんだ。
どこか暗い印象のある中庭。昼休みは弁当を持ち寄る生徒がそれなりにいる。その真ん中のスペースにあるベンチの一つに、渚はいた。
俺の姿を認めた渚は、にへらと笑みを作る。
「あれ、先輩。奇遇ですね」
「何してんだと聞いている」
「先輩こそ、何をしているのですか? 図書室に姉を放置してきたんですか? 駄目ですよ。大事にしてください、折角帰って来たのですから」
俺の質問に答えず、渚は困ったように頬を掻いた。
「お前も来いよ」
「気を使わなくて良いです。私の役目は終わりです」
「役目って、なんだよ」
「先輩は気にしなくても良いことです」
プイっとそっぽ向いて、渚は立ち上がる。
「帰りますね」
背を向けたまま、渚はそう言って歩き出そうとする。
「今日の分の短編はどうした」
「書いてないです。もう、小説は書かないです」
律儀に足を止めて、淡々とした声でそう答える。
「何でだよ」
「言ったじゃないですか。私の役目は終わったと。元々、似合わないことをしていた自覚はあるのですから。元々、本を読まない人間ですから」
渚はこちらに顔を向けようとしない。だけど、わかる。伊達に半年も顔を合わせていない、渚は今、困ったように笑っているんだ。寂しがり屋の癖に、明るい声でそれを覆い隠して、困ったら笑顔で覆い隠すんだ。寂しがり屋の癖に。姉のことを一人で待てないからって、姉のことを覚えている人、思っている人を探しに来るくらいには、寂しがり屋の癖に。
「先輩はこれから、姉さんと楽しく、時間と関係を重ねていくんです。姉さんと喧嘩した時は私を頼ってください。ご機嫌は取ってあげましょう。仲直りの場のセッティングもサービスします。出来た妹で後輩なので、私。姉さんが小説以外に好きなものも教えます。姉さんの嫌いな食べ物も教えて上げます。結構子ども舌なところあるのは覚えておいてください」
「おい、急になんだよ」
早口で一気にまくし立ててきて、何を言っているんだよ。
「渚。何を言っているんだ」
「これが私の目指したグッドエンドなんですよ。先輩、姉さんと仲良くして、私は、今は友人の妹で後輩、それで良いじゃないですか。楽しかったですよ、半年間」
「あっ、おい」
「さようなら、先輩」
そのまま渚は、ベンチに置いていた鞄を引っ掴んで駆け出して、俺の声に振り返ることなくあっという間に靴を履き替えて、校舎を走り出る。
「渚!」
慌てて俺も追いかけた。くそっ、靴を履き替えてる間に……。
「待て」
しかしながら、渚の足は速い、全然追いつけない。くっ、頭だけじゃなくて身体も鍛えるべきだったか。
だけど不思議なことに、この時の俺は、追いつけないまでも走れた。走れるけど。
「くっ」
息が段々苦しくなっていく。服の中が蒸し風呂のようだ。渚はペースを緩めない。風のように軽やかに駆け抜けていく、本気で振り切る気のようで、振り返ることなく走っていく。
「な、なぎ」
名前も呼べない、吐く息に紛れて音が散っていく。
なんで、何だよ、急に、ふざけんな。
景色がどんどん後ろに流れていく。下校中の小学生を、のんびり走っている自転車すら追い越して。そして。
「何なんですか、何なんですか! 何で追いかけてくるんですか! わけわからないです。意味わからないのは難しい言葉を羅列した発言だけにしてくださいよ。頭良いんじゃないんですか? なんで私の言った意味を分かってくれないのですか」
ようやく渚が立ち止まったのは川沿い、土手の上。少しだけ息を切らして、渚は振り返る。その視線の先には。
手に膝を突いて、呼吸を整えている俺が見える筈だ。
「はぁ、はぁ、くっ。ふっ、よゆう、だぜ」
「どこかですか、全くもう。しょうがない人ですね」
差し出されたスポーツドリンク。五百ミリペットボトル半分ほどの量を一気に飲み干して、ようやく楽になった。
「へ、平然と飲み干しますね」
「あ? 間接キスとか知るか。お前、体力あるな」
俺より小柄で、歩幅の差とかある筈なのに、全然追いつけなかった。
「あはは。中学の頃は陸上部だったので。よくついてこれましたね。千五百メートルほどの距離を、本気のペースで走った筈なのですが」
「軽い調子でえげつないこと言ってくれるな」
本気で振り切る気だったのか、こいつ。
ようやくこっちを向いた渚の短い髪に汗が伝って落ちた。
「なので、先輩のその根性に免じて、先輩の主張も聞いてあげます」
「そうかよ。ったく。ほんと、冗談を言うのは大概にしてくれ、寝てるときに寝言ついでにかます程度にしてくれよ」
「冗談のつもりはないんですけどね」
「いいや。良いか、世の中、責任というものがる」
「そうですね」
「責任取れ」
「私、先輩といつ子ども作りましたっけ?」
「そんな過去は無いし、そういう話じゃない。というかさらっとえげつないこと言うな」
「冗談ですよ」と、笑い声を転がして、渚は土手の坂に座り、ポンポンと隣を叩いたので、俺も腰を下ろした。
「それで、私はどんな責任を取らされるのですか?」
「俺をもう一度立ち上がらせた責任だよ」
「あれは、先輩が頑張って立ち上がったんじゃないですか」
「それでも。きっかけをくれたのはお前だ」
渚が俺に出会ってくれなかったら、きっと今でも俺は何となくの日々を過ごしていた。後悔に浸って生きていた。きっと美鳥も、前の俺なら見限っていただろう。美鳥が目覚めて奮起する可能性なんて、あの時の俺に対しては感じられない。
物語に没入できないことを言い訳に、美鳥ですら拒絶していたと思う。
「俺をもう一回始まらせてくれたのは、お前なんだ。渚。お前と過ごした時間は、はいおわりです、で終わるような関係じゃなくしたんだよ。お前がそうしたんだ」
「過大評価ですよ」
「そんなことは無い」
睨むように見つめ合った。お互い、視線を逸らそうとしなかった。確かに渚と美鳥は似ている。でも、渚はどこか愛嬌がある。美鳥はどこか澄ました印象で。その違いはどこにあるのだろうかと考えて……。
「圧、圧が凄いです。そんなまじまじと見ないでくださいよ。もう」
「お前がわからず屋だからだ。良いか、俺がそう思っているなら俺の中ではそうなんだよ」
「はぁ、そうですね。先輩がそう言うなら、先輩から見た私はそうなのでしょう」
「あぁ。その通りだ。渚らしい納得の仕方をしてくれて嬉しいよ」
「そ、そうですか」
その上で俺は、渚に求める。
息を吸って吐いた。夏の匂いがした。何かが溶けたような匂いだ。この匂いももうすぐ、芳醇な枯葉の香りに、秋の香りに変わるんだ。それから今度は何もない冬の匂いに変わる。そして今度は青臭い命が生まれる春の香りに。そんな時間も、一緒に過ごしてもらうんだ。つまりは、渚。
「責任取れ、俺をもう一度立ち上がらせた責任取って、しばらくは俺の行く先を見守れ……俺の傍にいろ、小説を読め、見守っていてくれよ。渚」
そこまで言い切ると、渚は呆けたように口を半開きにして、それから、顔を覆って笑い始める。控えめなものじゃない、何かが爆発したような笑い声だ。
「ふ、くくっ、美少女二人を侍らせたいとか、欲張りすぎません?」
「自分で言うか」
「違いますか?」
顔を覆っていた手を外して顔を見せつけてくる。整った鼻梁。長いまつ毛、切れ長の、大きな瞳。そこに愛嬌を足したら渚で、澄ました感じを足せば美鳥で。
「あぁ、うん。綺麗だよ、姉妹揃って」
「……素直に認められると照れますね」
「事実だろうが」
「……人に寂しがり屋が、とか言っておいて、先輩もじゃないですか」
「うっせーよ」
人といる温かみを知った人間にとって、孤独は寒すぎるのだ。
風が吹いた。少し強い風。その向こうで、渚が何かを言った気がした。
「えっ? 何?」
「何でも無いですよ。今時難聴系主人公は流行りませんよ」
「知らんがな。ったく。戻るぞ、鞄置いてきたんだ、俺は」
「先輩らしくないですね、勢いだけで後先考えないとか、頭良いんですよね?」
「あぁ、無駄に良いよ」
立ち上がって土を払って、来た道を戻るべく足を向けると、何やら鞄を二つ抱えた人影がこっちに向かって歩いていた。
「お、おーい。病み上がりにどこまで歩かせるんだい、君たちは」
「美鳥?」
「姉さん?」
「はぁ、やっと追いついたぁ。図書室の窓から見えたんだよねぇ、二人が走っていくの。はいこれ」
美鳥が差し出したのは俺の鞄だった。
「全くもう。学校出るなら連絡してよね」
「悪い。それと、サンキュー」
「先生に引き継いできたよ。ちゃんと。褒めて?」
「ありがとうございます」
「ほ、め、て」
「……よくできました」
「よろしい」
ふんす、と美鳥は薄い胸を張って見せた。
「じゃあ、帰ろっか」
「ああ」
三人での帰り道。いつの間にか求めていた時間、それが実現した。思わず空を仰いで、さりげなく目元を拭って、前を向く。
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