第18話 目覚め。

 この日は渚が家を訪れた。いそいそとお茶を出した茉子も座らせて、俺は二人に原稿を渡した。二時間ほど経って、二人は顔を上げた。


「こんな感じで良いか? 渚」

「……はい、とても、良いです」


 渚の柔らかな笑みに嘘は感じられない。いや、渚も真剣に、誰よりも真剣にこの物語と向き合ってきた。嘘を吐くはずがない。


「祈りですね、まるで」

「うん。俺にとって小説は、祈りだった。願いだった。茉子は、どう思った?」

「おにぃと渚さんの合作かぁ……凄いなぁ」

「すごい、か」

「うん。二人とも、熱いね。……おにぃもここまで熱くなれるんだね」

「熱い、か」


 俺はただ納得したかったんだと思う、折り合いを付けたかったんだと思う。色んな事に。

 ただこうあって欲しい。こうあってくれたら良い。

 世界を変える力どころか、現状を変える力すらなかった。あるがままの現実を受け入れることしかできなかった俺にとって、頭が良いだけのただの子どもにとって、自分の願いを、思いを形にする手段何て、これしかなかったから。だから俺は、描いたんだ。

「……きっと、姉さんも同じだったんだと思います。祈りたかったんだと思います。先輩のように、願いを形にしたかったんだと思います」

 

 



 俺はまた、美鳥と楽しい日々を過ごしたい。


「なぁ、美鳥。俺、人が誰かのことを理解できるわけが無いとか言ってただろ」


 ベッドの脇の丸椅子に座って。完成させた原稿を置いた。起きたらすぐに読めるように。

 八月ももうすぐ終わる。あれから、夏祭りとか花火大会とかあったけど、全部無視してさらに小説を磨き上げていた。


「人が誰かのことを理解できるわけが無い。だから、人と人の関係は信用できないと考えている。今でも変わらず。俺は腹の底ではそう考えている」


 根付いた考え方は簡単には変わらない。当然だ。だけど。

 でも、それでも、いくつか俺の手の中には実のある真実がある。


「美鳥と過ごした時間は間違いなく楽しかった。心が満たされていた」


 あの時の俺は、美鳥と過ごしていた俺は、間違いなく一人じゃなかった。ずっと一人ではなかったけど、それでも、誰かが隣にいることを実感していた。

 理解できなくても寄り添い合える。茉子の言葉だ。茉子はそんな考えを携えて、俺の傍に居続けてくれた。

 理解し合えるならそれは素晴らしいことだ。でも、俺は甘えていた。『どうせ』なんて考えて、真っ直ぐには見れていなかった。


「渚は、真っ直ぐにぶつかって来てくれたな」


 いろんな角度から、渚は真っ直ぐにぶつかって来た。俺に逃げることを許さなかった。目を逸らしてもわざわざ逸らした先に来てくれた。

 理解を求めながら、俺は理解しようとしただろうか、理解してもらおうとしていただろうか。    

 渚はそんな俺を許さなかった。立ち向かうことを教えてくれた。勝手に確かめもせず諦めて、逃げて、逃げて。諦めて。目の前に転がっている可能性すら目を背けていた俺に立ち上がり方を教えてくれた。


「わかったことがあるんだ」


 誰かと出会った瞬間から、その人は一人ではいられない。俺は誰かとの繋がりをきっと求めていたんだ。


「君もそうだろ、美鳥」


 人と人の関係なんか信じない、でもそれでも、可能性は信じたかった。絶望しながらも希望を見せてくれと祈っていた。

 俺は祈っていたんだ。美鳥も、祈っていたんだろ。だから、あのプロットを作った。

 茉子がいたから、茉子が親を選ばず俺を選び、残ってくれたから。残ってくれなかったら俺はとっくに折れていた。美鳥だってきっと、渚のあの真っ直ぐさに、思うところはあった筈だ。

 お互い、素敵な妹を持ったものだな。


「渚には助けられた。あの子がいなかった俺はきっと、今でも腐っていたと思う。眠っていたと思う」


 美鳥といた時間という心地の良い思い出の中で、後悔に浸っていたと思う。

 時間は寄り添って止まってくれない。無為な時間をひたすら積み重ねていただろう。


「美鳥、俺は先に進む。俺は、また戦う。また、書いて色んな人に見せてみるよ。もう、逃げない。良い物語を見せつけて黙らせてやる」


 祈りを小説に込めてここに置いていくんだ。

 美鳥、君の願いは、確かに受け取った。俺は立ち向かう。

 でも、できるなら。もし、できるなら。叶うのなら。


「美鳥も、読んで欲しいな。隣でまた」


 なんて、さて、帰るか。なんて思いながら俺は背を向けた。


「うん。良いよ」


 掠れた声が聞こえた。でも、その声は、言葉は、確かに了承の意味を示していて。

 ゆっくりと起き上がる。半年、眠り続けた少女が、ゆっくりと身体を起こした。


「み、美鳥」


 慄きながらも俺の手は、鞄にいれていたペットボトルの水をあけて差し出していて。それを美鳥はゆっくりと飲んで。


「けほっ、げほっ」

「お、おい、落ち着け。あっえっと、な、ナースコールって、どれだ」

「せ、先輩。た、確か、これ、だったと思います」

「渚、いつの間に」

「い、今来たところです。ね、姉さん、大丈夫? 渚だよ、わかる?」


 また水を一口ゆっくりと飲んで。


「ふ、ふふっ。覚えてるよ、渚。心配かけたね。それより、修君が動揺してる。面白い。いつも達観して何でも見通してるって顔してるのに。ふふっ。ふふふふっ」 


 美鳥の楽し気な笑い声。大慌てで飛び込んできた看護師さんと主治医さん。

 感動よりも驚きが勝って、俺も渚も、しばらく情けなくおろおろしていた。そんな俺達を、美鳥は面白おかしい映画でも見るかのように眺めていた。それからその目は柔らかく、見守るように細められた。

 

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