第10話 姉と妹。

 ノックしたけど返事は無かった。扉を開くとベッドが一つ。管やらコードに繋がれ。モニターに映る数字に生きていることを証明され、ぽたぽたと管を通って流れる液体に身体の状態を維持され、美鳥は眠っていた。

 長かった黒髪は定期的に手入れされているのか、長さはそんなに変わっていない。でも、あの天真爛漫だった姿からは想像できないくらい、頼りない。どこにもあの輝きは無い。


「姉さん。先輩、連れて来たよ」


 返事はない。慣れた様子で渚は花の水を取り替える。淡々と。


「先輩、姉さんのお見舞いは」

「一度だけ」

「そうですか。姉さんも喜んでますよ、きっと、先輩が来てくれて」

 今すぐにでも逃げたかった。今の俺は、美鳥に会うべきではない。筆を折った作家が、読者に会って良いのか? もし、美鳥が目覚めても、もう小説を書かない俺とは、関わる理由なんて、無い。


 俺は美鳥に書いた小説を読んでもらって。美鳥は俺の書く小説を求めて。それで成り立っていた関係だろ。

「筆を折った、俺なんて」

「先輩」

「もう、何も書いて無いのに、俺は」

「先輩?」

「もう俺は、美鳥が欲しがっている小説なんて」

「先輩!」

「俺は、もう。君とは、君との、約束すら……」

「先輩ッ!」


 両肩を掴まれて揺すられる。いつの間にか床にへたり込んでいたみたいで、渚の顔が同じ高さにあった。

 一度だけお見舞いに来た時、俺は。美鳥と一つの約束をした。俺はそれを果たせていない。


「……ごめん」

「大丈夫です。はい、落ち着いてー。吸って―吐いて―。ひっひっふー」

「ラマーズ法かよ」

「あはは。良いツッコミです」


 美鳥。君はきっと、俺を怒らない。笑って励ましてくれる。そんなあり得る幻想に縋りたくなかった。惨めでいたかった。でも。


「お前は、許さないんだな」

「許しませんよ」


 渚は笑う。すっかり本格化してきた夏の太陽よりも眩しく笑う。


「姉を忘れて未来を向くのも。姉の幻想を抱えて過去に浸るのも。許しませんよ。先輩には」


 


 私、常陸渚は、姉が大好きだ。姉を尊敬し、憧れている。

 姉のようにきれいで可愛らしくありたい。姉のように誰からも好かれる人でありたい。姉はいつでも場の中心にいる人だった。いつも真ん中でニコニコ笑っていた。

 でも不思議なことに、浮いた話一つ聞かない。姉の口から男の名前なんて聞かない。むしろ他の誰かの話を不思議なくらい聞かなかった。あの時までは。


「今日ね、凄い作家に会ったの」


 ある日の夕食。

 両親の帰りは遅い。夕飯は姉と私で一週間ごとに交代で作っていた。けれどまぁ、結局どちらかがどちらかを手伝っちゃうから、いつも二人で作っているようなものだった。


「作家? また本?」

「ううん。その人はまだデビューしてないよ。青田買いだね!」

「アオタガイ?」

「でね。その人。秋月修って人なんだけど、入学式でも会ったんだ。私の次に早く来た人、一緒に学校探検も行ったの。もはや運命だね! でもね、修君酷いんだよ、学校探検一緒にした仲なのに、今日私から話しかけるまで一度も声かけてこなかったんだから」


 麻婆茄子を作りながら、姉は早口でまくし立てる。姉が誰かのことをこんなに熱心に語るのを初めて見た。


「姉さん、その人のこと、好きなの?」

「んー。そういうのはわかんないかな」

「姉さん、いつもそうじゃん」

「あはは。だってわかんないんだもん」


 いつもそうだ。カッコいい人とか、中学の頃は学校のアイドル的存在とか、サッカー部のキャプテンとか野球部のエースとか、その辺りの人とも仲が良かった。

 いや、あれは姉に惚れてたその人達が、一方的に関わりに行っていた感じか。でも、どちらにしても、姉は基本的に一定の距離までは拒まない。

 でも、ある一線を越えようとすると、パタッとプチっと関係の糸を切り落とす。


「好きです。付き合ってください」

「ごめん、私は君がわからないし。君も多分、私がわからないと思う。だから、ごめん」


 姉はいつも言う。「人は誰かを理解することはできない。私もそう。だから、好きになれない。きっといつかすれ違って、破綻してしまう。だから丁度良い距離を保っていたい」と。

 私は姉さんがわからない。でも、姉さんのことは好きだ。

 その人のことを全部理解しなければ、好きになってはいけないのか。いつか、姉にそう問いかけたことがある。


「そんなの、孤独を実感しにいくだけじゃん」

「どっちでも結局孤独だよ。だって姉さん。たまに寂しそうだもん」

「そりゃそうだよ。渚の言う通り、だったら、傷つく可能性が低い方が良いじゃん。近づき過ぎたら、傷つくんだよ」


 姉さんは誰からも好かれて、いつも中心にいるのに、誰よりも寂しそうだった。姉さんがどうしてそう考えるようになったのか、その原因となった出来事なんて、一つしか思い当たらないけど。でも。姉さんは変わった。彼に出会ってから。変わった。

 姉さんは本当に笑うようになった。余所向けの、一見すれば明るい、でも、わかる人にはわかる。どこか諦めたように乾いた笑顔ではなく。本当に、心の底から笑うようになった。


「見て見てー、修君が小説くれた。面白いんだよ!」

「へー」


 A4の紙束を片手に無邪気に笑う姉。ただの文字列を熱心に追いかける姉。秋月修なる人物について熱心に語る姉。

 私は小説に興味なんて無かった。でも、あの姉をここまで夢中にさせる小説ってどんなものだろうと、その時初めて、読んでみたいと思った。


「姉さん、後で読んで良い?」

「うん。是非読んで欲しいな」

「ありがとう」




 必殺の一撃はあっさりと防がれる。返しの一撃をどうにか防ぎ、距離を取る。

「凌がれる、か。心を刃とした武器を使う者同士、やはりただでは勝てぬか、文字通り心の強さの争い。全力でいかせてもらおう」

「くっ……ここでお前を倒す」

 血よりも鮮やかな赤が振りかぶられ、向かってくる。恐れない。

 ここで逃げたら、俺は俺でなくなってしまう。

 黒い刃は煌めく。俺の思いを示すように。

 ここで負けたら、俺は、俺を許せなくなる。

 黒い刃は踊る。俺の意志を示すように。

 ここで勝たねば、俺は……。 




 「あれ、終わってる」


 すっごく良いところで終わってる。なにこの、ドラマの終盤、真犯人が現れたところでまた来週、ってお預けをくらったみたいな気分は。


「姉さん、これ、続きは?」

「修君待ちー」

「えー。貰ったら絶対見せてよ」

「あははー。渚もはまっちゃった?」

「うん」

「それは嬉しいねー」


 てっきり御堅い言葉で文字が寿司詰めになった、よくわからない誰かの独白でも読むことになるのかと思ったけど、なんか、戦ってた。言葉も柔らかくて、すんなりと飲み込めた。

 本なんて、授業や夏休みの読書感想文くらいでしか読んだこと無い私でも、気がついたら時計も見ずに読んでいた。それから私は、姉が続きや新作を貰ってくる度に借りて読んだ。何度も。人生で一番読んだ作家になるかもしれないなんて思うほど読み込んだ。

 そんなある日だ、姉が珍しく真剣にノートと向き合ってるのを見た。


「私も書いてみたいなーって思っちゃって」

「姉さんが小説を書くのか―読んでみたいな」

「プロットを途中まで作って満足しちゃった」


 なんて言って、ノートの見開き一ページに渡ってびっしりと書かれたプロットとやらを見せてくる。


「姉さんらしい……一つだけ年上の人が、こういうの、作れちゃうんだ」

「ねぇ、凄いよねぇ」


 名前と作品しか知らない誰かに、憧れた。

 何かを作れる人には、昔から憧れていた。それこそ機械とか家具とか、そういう日用品とか、音楽とかゲームとか、そういう娯楽とか。

 でも、小説を書くという行為はいまいち現実感の無い、私にとってはどこか遠い行為だった。あまり文章というものに触れてこなかったからかもしれないけど。


「私でもできるかな」


 文章さえ書ければできる行為、と考えると、何となくできる気がした。いや、本の虫とも言えるくらい色々読んでる姉が挫折したなら無理か。




 「今日修君とお出かけするの」

「へ、へぇ……二人きり?」

「うん」

「へぇー」


 姉が休日出かけることは珍しくない。人気者の姉は休日でも周りが離してくれない。でも、二人きりなんて初めてだ。デートの誘いは片っ端から断っていることは知っている。


「どっちが誘ったの?」

「私だよ」


 あの姉が? 男を? 二人きりのお出かけに誘った? この姉は……実感が無いだけで結構好きなのではないだろうか。


「えへへ」


 無邪気に笑う姉。乾きも諦観も無い。人と関わることを純粋に楽しんでいる姉。


「楽しんできてよ」

「うん!」


 この時の私は思っていたんだ。

 こんな日々が続けばいつか姉も。と、

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