第9話 後輩と出かける。

 「くはー。終わったー」

「お疲れさん」


 テスト期間が終わった最初の放課後。図書室のカウンターでぐでーっと溶ける渚を横目に、俺は渚の受けた試験問題を見ていた。試験問題にも答えを書き込ませたのだ。


「うん、全部前回より点数は上がってるな。頑張ったな」

「本当ですか! って、そんな、何もメモせずに見ただけでスラスラ解けるのですか?」

「渚に教えながら俺も復習できたからな」

「はぁ。それだけでそんなことできるのですかね。そういえば、先輩。夏休み明け、私も図書委員になりますね」

「別に良いが。暇だぞ。図書室での業務、ちゃんとやってるの、俺だけだし」


 去年は、まさにその夏休み明けから、美鳥もいたが。


「まぁ良いじゃないですか。可愛い後輩が一人いた方が、この閑散とした図書室にも花が添えられるというものです」

「あぁ、そう。ところで本屋巡りは、今週末で良いのか?」

「えっ、あっ、はい」

「なんだよ、誘ったのは君だろうが」

「いえ、その……びっくりしました。先輩の方からその話題を振ってくるとは思っていなかったので」


 呆けた顔をする渚。思わず頬を掻く。


「約束は守るさ。俺だって」


 既に茉子には週末出かけることは伝えてある。今日だって家に帰ったら週末にやる筈だった掃除を前倒ししてやるつもりだ。


「あ、朝十時、駅前で」

「あぁ。遅刻するなよ」

「も、もちろんですとも」


 そうだ。約束は、守るんだ。誓ったことも、守るんだ。それすら守れなくなったら、俺は本当に、美鳥を……。


「先輩」

「ん?」

「今日、一緒に帰りませんか?」

「……あと三十分もすれば、先生も帰ってくる。それまで待ってろ」

「はーい。じゃあ、ここで小説書いてますね」

「あ?」

「先輩も去年はここで書いていたらしいじゃないですか」

「はぁ」


 そう言われたら、止めることなんてできない。


「いやー、テスト明けですし、何書こうかなぁ」


 俺も、書き始めた頃は、こんな顔をしていたのだろうか。一つの世界を作り上げる高揚感。まだ見ぬ世界への期待。

 どうして渚は書き始めたのだろう。

 俺は確か。そう、自分が求める最高の小説を自分で作ろうと思って書き始めたのだったと思う。それは、覚えていた。尽きない最高の物語への渇望が、筆を走らせていたんだ。

 どうして、渚は、書き続けるのだろう。



 帰り道。普段行く道をお互い選ばず、駅前までの道を選ぶ。お互いの家からすれば多分中間地点だから。

 一緒に帰ろうと誘った割りに、渚は口を開かない。俺から会話を振るべきなのだろうか、だが、俺に気の利いた話題提供なんてできるわけが無い。


「その、先輩」

「なんだよ」

「何か話題とか無いですか?」

「無い」

「そ、そうですか」


 なんで変に緊張しているんだ、こいつ。


「ったく」

「はい」

「そこのハンバーガー屋、結構美味しいぞ、豪快だし」

「は、はぁ」


 美鳥が顎を外しそうな勢いで口を開けてかぶり付いていたのは簡単に思い出せた。



「そこのラーメン屋は外れだった。麺がふやけたみたいに柔らかくてな」


 腰が無いと美鳥が口をへの字に曲げて顔をしかめていた。


「そ、そうですか」


 呆ける渚の反応なんか気にせず。俺は見えてきた別の店を手で示す。


「あそこの喫茶店はチーズケーキが美味いぞ」


 調子に乗って美鳥はお代わりを注文していたな。


「行ってみたいですね」

「いずれ行ってこい」

「……それが姉さんとの思い出ですか」

「そうだな」


 入り口や看板を見れば、美鳥とどういう風に入って、食べた時の反応も、容易に思い出せた。


「……ありがとうございます」

「急になんだよ」

「いえ、姉がどんな風に先輩と過ごしていたのか、その片鱗に少し触れることができた気がしたので」

「そーかよ」


 駅前に着いて、俺達はそれぞれの帰路に着いた。

 らしくないことをして、少しだけ疲れた気がした。


 



 「今度こそ付き合うとこまで行くの?」


 前日の夜。事前に明日着ていく服とか、身支度の事前準備をしていると、茉子は当たり前のようにノックもせず、俺の部屋の扉を開けて来た。


「男と女が休日に出かける即ちデートとはならないし。仲良くなる即ち付き合うとはならない」

「そりゃそうだけどさ。正直、渚さん、可愛いと思うし」

「それは、まぁ」


 流石は美鳥の妹という感じではある。……俺、美鳥のこと、可愛いとか思ってたんだな。いや、綺麗だとは思っていた。でもそれは観賞用みたいな感じで。でも。関わってく中で……。何を考えている、俺。


「お前は、俺に彼女、作って欲しいのか?」

「そうだね。作って欲しい。おにぃの魅力を知っている人が増えるのは、嬉しいから。おにぃいの悪いところも一緒に知ってくれる人がいたら嬉しいし、その上で、おにぃが心から信頼出来て、支え合える人がいたら、素敵じゃない?」

「まぁ、素敵だな」


 でも。 

 俺も美鳥も知っていた。人と人がわかり合うのは無理だって。突き詰めれば人はどこまでも孤独だって。その一点でわかり合っていたと思う。真理に対して出した答えが違っただけで。

「でもね、おにぃ。わかりあえなくても、尊重し合える。寄り添い合える。ってことはできると思わない?」


「……お前、急に頭良いな」

「おにぃに言われても皮肉にしか聞こえないよ」

「まぁ、そうだな。俺、頭良いもんな」


「頭良過ぎて、捨てられちゃう程だからね」

 正確には、放置されてる。捨てられてはいない。

 金だけは与えられる。必要な支払いもしてくれる。この家も取り上げられられない。親の署名が必要な書類があれば、机に広げて置いておけば、俺が家にいない間に書いてくれる。

 茉子はたまに親に会っている。俺は、高校入学する直前にニアミスしたくらいだ。

 三者面談は断っていたし、親に電話が行ったらしいが、仕事を理由に断ったと聞いた。

 当時小学六年生だった茉子は、俺から離れたくないと駄々をこね、大喧嘩し、親を根負けさせて、この家に残った。それからすぐに家事を覚え、完璧にこなし始めた。


「あの時は大変だったなぁ。ちゃんとやらないと、おにぃに父さんたちのところに送られるとか思って、必死だった」

「俺、そこまで冷たい奴だったか」

「当時のおにぃ、ずっと死んだ目してたもん。正直、怖かった」

「じゃあ、なんで残ったんだ?」

「あたしがいなくなったら誰がおにぃのこと支えるんだ? って。あたししかいないじゃん」


 そう言って茉子はカラッと笑って見せる。


「おにぃは頭良いから、一人でも上手く暮らすと思うけど、それでも、おにぃには誰か必要なんだって、あの時、思ったんだ」


 あの時悟ったんだ。人と人の繋がりなんてそんなものだ。親子ですら、当てにならないと。


「ありがとな。茉子」

「にひっ。素直なおにぃも可愛いよ」


 悟りながらも見限らなかったのは、茉子がいたからなんだろう。

 正直、茉子のことはずっとわからなかった。けれど俺は、茉子が出した答えを知った。すとんと腑に落ちる答えだった。

 寄り添うこと、か。  


「頑張ってね、おにぃ。まぁ、おにぃに彼女ができなくても、あたしが一緒にいたげるから」

「お前もさっさと良い男捕まえてこい」

「えー。朝起こすの大変で、ほっとくと平気で食事抜いて本読んでて、髪とか服装とか、言われなきゃいつも適当で、ちょっと口が悪いことに目を瞑ればカッコいいおにぃを越える男?」

「わりと簡単に見つかりそうだな」

「ううん。そういうところを全部可愛いと思えちゃう人は簡単には見つからないよ。だから可愛くてカッコいいおにぃなんだよ」


 そう言って茉子は、飛び切りの笑顔と一緒にぶつかるように抱き着いて来た。それをしっかりと抱きとめて、背中を優しく撫でる。


「……そーかよ」


 それ以外、何が言えよう。


「と、言うわけなので、うーん。おにぃ、前回と同じ服は流石に無くない?」

「えぇ……」

 



 「うん。行ってこい。可愛くてカッコいいおにぃ」

「あぁ。行ってくるよ」


 休日の駅前は当然のように賑わいがある。さて、どこにいるのやら。と少しして、渚から。


『せんぱーい。どこですかー』


 とメッセージが来た。と、同時に背中をツンツンと突かれ振り返る。


「えっ、みど……渚か」

「おはようございます。先輩」

「あ、あぁ。その服……」


 ピンクのカーディガンに白いワンピース。


「気づきましたか。姉から勝手に借りました。それはそうと、本屋に行く前にひとつ寄り道、良いですか?」

「それは良いが。どこに」

「まぁ、とりあえずついてきてください」


 それから俺達はバスに乗る。バスに乗ってしばらく。


『―――大学病院前』


 とアナウンスが鳴った瞬間、渚はすぐに降車ボタンを押した。

 俺は知っている。この病院を。俺は一度ここまで救急車で来たことがある。

 美鳥が眠り続ける病院だ。ここは。

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