第8話 忘れないこと。

 「おにぃ?」

「ん?」


 気がつくと、リビングには食欲をそそるスパイシーで香ばしい香りが漂い、最後に読んだページから一ページも進んでいない参考書。顔を上げた。


「できたよ、夕飯」

「あぁ、悪い。すぐに行く」


 テーブルにはいつもより一人分多い夕飯が並んだ。茉子の隣に渚が増えた。


「ふふん、朝から仕込んだカレーだよ」


 と、自慢気にドンと胸を張った。


「どうです? 先輩、これ」


 渚が作ったのはコロッケのようだ。材料あったのか。

 手を合わせて夕食が始まる。はっきり言って茉子の料理は美味い。味は大事にしたいからと、俺に台所を触らせず、自分で担当するだけのことはある。だからまずは渚の作ったコロッケに手を伸ばした。茉子もだ。


「あっ、美味しい」


 茉子は正直だ、味に関しては。俺も安心して一口。


「ん!」


 サクッとした小気味の良い音ともにほくっとしたジャガイモの食感、程よい塩気を感じる。


「あれ、これ」


 俺はこの味を知っている。いや、コロッケは何度も食べたことある。でも、このそう、味の比率と言うのだろうか。俺の舌が、覚えている。


「……美鳥」

「あっ、気づきました? うちの姉から教えてもらったんです」


 悪戯に成功した子どものように、渚はニヤニヤとした笑みを浮かべた。


「姉さん、突然弁当をいつもより一人分多く作り始めたので聞いてみたら、先輩に持ってくんだーって」

「へぇ。おにぃ、お弁当足りないなら言ってよ」

「いや、そんなことは無い。食べ盛りだったから、二人分くらい余裕だっただけだ。茉子の料理は正直美味いぞ。美鳥のも美味かった。正直」


 まぁ、体重とか余計な肉が増え始めたなとか思ったから、休日運動するようになったが。


「嬉しいよ、おにぃ」

「あは、ありがとうございます」


 あっという間に食べ終わり、窓の外はそろそろ日が完全に落ちる頃で。


「送るよ。家まで」 

「良いんですか?」

「うん。駅から十分だろ」

「はい」


 最近暑くなって来ていても、夕方になれば涼しくなってくる。

 夏は、夜も少しだけ明るい気がする。

 まだ明るい方の空、夕方の残滓。それが少しずつ、消えていく。

「午前中もそうでしたけど、さりげなく車道側、立ってくれますね」

「普通だろ」


 自慢気にすることでも、わざわざ褒めることでも無い。


「そうですか。先輩は、なんだかんだ、優しいです。そんな紳士な先輩に提案です。テスト明けの休日、会いませんか?」

「なんで?」

「姉がやっていたという本屋巡り、私も行ってみたいです」


 俺の横をスキップするように歩き目の前に立ち、渚は振り返る。


「君も、本を読むのか」

「姉程では、ありませんけど」

「そっか」


 少しだけ迷った。あの時間は、確かに楽しかった。でも。


「俺にはもう、そんな時間を過ごす資格は……」

「やかましいです。資格なんて知りません。私が先輩とそうしたいから聞いているのです。そうしたいかしたくないか。それを聞いてます」

「ははっ。そうだったな」 


 常陸渚は、そういう子だ。


「それに、テストを頑張ったご褒美を与えるのも、教える側の仕事だと主張します」

「あぁ。そっか。そうだね。うん。わかった。一緒に行こう」

「決まりですね。やった。頑張りますね」

「あぁ。赤点は回避しろよ」

「はい!」



 朝、教室に入ってまず見るのは、常陸美鳥の席。今日も空席だ。

 窓際の一番後ろに、今は配置されている。今はもう、彼女の名前を教室で確認することは無い。先生も、その名前を口にしない。

 まだ誰もいない教室、美鳥の机にそっと手を置いた。


「俺は、何もできなかった。美鳥から、もらってばかりだった」


 書く理由すら、俺は美鳥からもらっていたものだった。誰かに読んでもらえることの嬉しさを、教えてくれた。


「ここが、姉の席ですか」

「なんでここにいる」

「おはようございます。先輩」


 渚はいつもの調子で笑い、そのまま美鳥の席に座る。


「先輩の席ってどこなんですか」

「ここだよ」


 美鳥の席の隣。中間テストの後に行われた席替えで、この席になった。


「良いじゃないですか。一番後ろ。気楽です」

「まぁな」 

「姉は、この景色を見る筈だったのですか。なるほどなるほど」


 朝練を終えた運動部が続々と入って来て、電車で登校している人たちも入って来て、教室の中に少しずつ賑わいが生まれてくる。


「あれ、えっと……誰だっけ。一年生?」

「可愛いね。名前は?」


 ずっと空席だったところに誰かが座っていれば、見に来る奴も当然いる。


「あっ、この席に座る予定の常陸美鳥の妹の常陸渚です」


 堂々と名乗って見せた渚。クラスメイト達は顔を見合わせる。


「ひたちみどり……?」

「あーえーっと、ほら、あれだよ。ずっと来てない人」

「ずっと意識不明とかって」

「あー。ごめんね。美鳥さんにはよろしく伝えておいて」


 どこか気まずい空気、誤魔化すための言葉がツギハギ。でも、どんなに補っても埋めるには足りない、美鳥を一瞬思い出せなかった人たちがたくさんいた事実を覆いきれない。


「……渚?」


 顔を伏せた渚の表情は伺い知れない。けれど、ギュッと強く握った手は確かに震えていて、心なしか、呼吸が少し荒い気がした。

 思わず手を伸ばしそうになるが。


「はい、姉にはしっかり伝えておきます。それでは、お邪魔しました」


 と、少しずつ高くなっていく日差しよりも明るく笑って見せて、教室を駆け出て行く。


「……あいつ」

「おい秋月、予鈴鳴ってるぞ」


 丁度入って来た担任の声を背に受けながら、俺も教室を走り出る。

 一年生の教室は四階、すぐ上。だけど、渚は追いかけるまでも無く、階段の踊り場の壁に背を預けて、俯いていた。


「渚、何してんだよ。本当に」

「あれ、先輩。どうしたんですか? 私が恋しくなりましたか?」

「……大丈夫なのかよ」

「おかしなこと聞きますね。私は元気ですよ」


 元気な奴は、そんな顔しねぇよ。そんな青い顔、しねぇよ。


「先輩は、本当に、姉のこと、好きなんですね」

「きゅ、急になんだよ」

「覚えてますよ。初めて会った時、常陸美鳥という名前を聞いた瞬間の先輩の悲しげな顔」

「目の前で倒れられたんだ。覚えていないわけ無いだろ」

「それでも、覚えていてくれたのは、先輩ですから」


 本鈴がなった。それを合図に渚はペコリと頭を下げて。


「では先輩、また放課後に」


 階段を駆け上がっていく背中を見送り、俺は教室に戻る。

 この教室にいる人たち中で、どれだけの人が常陸美鳥を覚えているのだろうか。

 春の天気のようにころころと、でもどれもこれも、優しくて温かみのある表情。俺はその一つ一つを忘れない。

 色んなものを笑顔の仮面に押し込めて笑う後輩の顔がちらついた。

 美鳥が目覚めないこと。その重みを感じ続けているのは俺だけじゃない。だから。

 忘れていないことを、忘れないこと。証明し続ける。自分に、渚に。

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