第4話 美鳥との出会い。
高校入学式の日。たまたま早く着いてしまった。入学式が始まるまでまだ一時間ある。
どうせ見に来る親もいないというのに、本当に何をしているのやら。幸い、クラスの名簿は貼ってあったから、俺は真っ直ぐに自分がこれから通うことになる教室に向かった。
どうせ誰もいないだろうと思いながら開いた教室の扉。予想外に先客がいた。それが美鳥だ。
今でも覚えている。教室の真ん中の辺りに座っていた。目を離したら次の瞬間には消えてしまいそうな人だと思った。儚さというものを初めて見た。
肩まで伸びた黒い髪は触れなくてもわかるくらい、さらりと流れてる。どこかつまらなさそうに薄紅色の唇を尖らせ、頬杖をついて窓の方を見ていた。
俺が入って来たことに気づいたその子は、こちらを見て邪気を一切感じさせない笑みを見せた。華奢な子だなって。背も俺の胸辺りで、結構小柄だ。
「初めまして。常陸美鳥です」
「秋月、修です」
「修君だね。よろしく」
先ほどまでの儚さが消え去り、天真爛漫な笑みで俺のところまでとことこと歩いてくる。あ行の『あ』の宿命だ。一番前の席。
猫のような目だ。切れ長の。でも瞳は、冬の澄んだ夜空を思わせた。
「いやー。早く来ちゃったーって思ったけど、よかった」
「君はいつからいたんだ?」
「三十分前には着いたかな」
「三十分もずっと窓の外見てたのか?」
「うん。あっ、確かにそうだね。損だよね。学校探検しなくちゃ。一緒に行こっ!」
「えっ。あっ、ちょっと」
俺の言葉に盛大に拡大解釈を付け加えた美鳥に手を引かれ、そのまま教室の外へ。
「図書室はどこだー!」
「ちょっとまてぇえええ!」
「って感じだ」
「うちの姉、強引なところありますからねぇ」
「君も大概だぞ」
「あは。そうですか?」
なんて言いながら、自覚はあるようで、にんまりと唇を吊り上げる。
「もう一つ気になるのは、どうして姉が先輩の小説を読むことになったのか、ですね」
「あぁ」
それは、授業も本格的に始まり、俺は予定通り、一人で文字の海へ、美鳥はその容姿と誰に対しても分け隔てない明るい性格から、クラスの中心へ。所謂カースト上位の奴らと関わるようになった。世界の予定調和って奴だ。
だが、今にして思えば、そんなものにあの美鳥が大人しく従うわけが無いと言えるわけだが。
「何してるの?」
図書委員になった俺は、年中閑古鳥が鳴いている一室のカウンターを占領し、ノートパソコンで小説を書いていた。
今日も本を読みに来た生徒が一名、自主勉強の場所として利用しに来た生徒が二名程度。テスト期間に入れば多少は盛り上がるが、それもまた、本を読みに来た生徒というわけではない。
「それ、自分の?」
「そうだ」
「わーるいんだ」
「別に良いだろ。誰に迷惑をかけるわけでも無い」
ちらりと画面から顔を上げると。ぷくーっと焼いた餅のように頬を膨らませて、怒っているのかふざけているのか、よくわからない表情をしていた。
「もう、一緒に学校探検した仲なのに、それ以来全然話しかけてくれないんだもん」
「君のいるグループに俺が混ざれると思うか?」
「気にしなくて良いのに……。それで、何してるの? 凄いスピードで指動いてるけど。ブラインドタッチ、って言うんだっけ? 憧れちゃうな」
「慣れだよ。そんなの」
「何してるの?」
「別に」
「答えになって無いって」
と言って、美鳥は俺の後ろに回り込んで、俺を押しのけるように画面を覗き込んできた。すぐにパソコンを閉じるなり、美鳥を押し出すなりすればよかったのに、柔らかいとか良い匂いがするとか、すべすべだとかサラサラとか、そんな未知の情報に情けないことに俺の脳みそは、処理落ちのような状態になっていた。
「……これ、小説?」
「そ、そうだけど」
「すごーい」
俺は知っている。小説書いてるとか、絵を描いてるとか、音楽を作っているとか。バレた時はすごーいと言ってくれる。けれどそれがどうした。ただのリップサービスだ。タチの悪い奴だとそれを大っぴらに言いふらしたり、見せびらかしたりして笑いものにしようとする。
それを知っている筈なのに、俺はこの常陸美鳥に対して警戒心を持てなかった。
「……ねぇ、これ読んで良い? ごめん。借りる」
「えっ」
そのまま美鳥はカウンターに居座り、無言で画面を食い入るように見ていた。
五万字程度、物語の中盤までできていた小説だった。
「……凄く、面白い」
あの時だ。俺が他人に、初めて小説を見せたのは。
「ねぇ、これ。続きは?」
「今まさに書いてたところだよ」
「完成したら見せて。絶対だよ。約束!」
それが、始まりだった。
それからあいつは毎日図書室に来て、完成を急かしてきた。
あいつは意外と本を読む奴だと知った。日本文学海外文学、ライト文芸、ライトノベル、一般文芸。色々読んでいると知った。
「何で君は本を読む?」
「あは、君の方から私に何か聞いてくるとは、珍しいね。そーだなー。好きだから」
「……本を読まないということは、その人が孤独ではないという証拠である」
「太宰治?」
「知っていたか」
「たまたまだよ」
傍から見ていて、俺は美鳥が本を読む人間に見えなかったのだ。
「孤独なんて、誰だって自覚のあるなしに関わらず、抱えているものだよ。孤独じゃない人なんて、いないよ」
俺はこの時初めて、美鳥の言葉に納得した。人が人を理解することなんてできるわけが無い。人と人がわかり合うなんて、できる筈がないから。だから、どこかに孤独を抱える、わかってもらいたくてもわかってもらえない部分が生まれる。
「みんなが私に求めるのは明るい性格と容姿だよ。内側なんて誰も興味ない」
その時の美鳥は、酷く寂しそうに見えた。
悲しみも苦しみも痛みも。周りの誰かにとってはどうでも良い。興味なんて無い。
本を読むのは心地が良い。
「言葉は心に染みていく。小説は、自分の中に物語を取り込んで映し出すもの。漫画とか映像作品とは違う。取り込んだ後の一工程の差は大きいと思うんだよね。物語を実感できる。それがどうしてか、満たしてくれる感じがするの」
本を読むという行為について、俺はここまで考えていなかった。だから。
ペラペラと、渚から受け取った原稿用紙を指で弾くように捲る。
「この時の俺は、美鳥に対して、初めて尊敬って奴をしたのかもしれない」
「はえー。うちの姉が。なんかすごく深いこと言っててびっくりです」
「あぁ。俺もだよ」
でも、俺の中に間違いなく残っている言葉だ。だから俺は素直に彼女に小説を見せることを選んだのだ。
さながら文通でもするように。俺は完成した小説を印刷して美鳥に渡していた。放課後、美鳥が図書室に来て、催促してきて。俺は素直に渡す。
美鳥が俺の小説を読みたいと言ったのは本当だったようで、誰かに見せびらかすわけでも冷かすわけでも無く、一枚一枚、A4の紙に印刷された世界を咀嚼して飲み込んでいた。
「さて、思い出話はここまでして。今回の短編、読ませてもらうか」
「あっ、読むんですね」
「読ませるために持ってきたんだろ」
「そうですけど。いざ目の前で読まれると照れますね。これでも、一番本気で書いたものですから」
「あぁ、わかるよ。本気で書いたものを読まれるの、怖いよな」
だから俺は筆を折ったんだ。
受け取った五枚の原稿用紙を開く。
私は一人で歩いていました。真っ白な世界を歩いていました。
「ここはどこ?」
そんな声は、誰にも届かなかった。真っ白な世界には何も無かった。空も、海も。ただ、白かった。上も、下も、右も、左も怪しかった。
「なんというか、テンポが悪いな。同じ文末が連続している。『~た』で終わる文章がな」
「あぁ、なんか自分で読んでても読み辛いなぁとは思ったんですけど、そういうことだったのですね」
「あぁ」
俺が手を差し出すと、渚はすぐに白紙の原稿用紙を渡してくれる。
「えっと……」
白だった。真っ白な世界を歩いていた。
「ここはどこ?」
思わず問いかける。問いかけた声は誰にも届かない。空も海も。上、下、右、左。それすら怪しくなる。ただ、白い。白かった。
「こんな感じでどうだ?」
「お洒落ですねぇ」
と、渚は満足気に頷く。
「文章の書き方は、トライ&エラーだ。書いて、それから学ぶ。どっちかだけでは駄目だ」
「いつになく真剣ですね。私としては、ありがたいですが」
「別に、君が予想外にちゃんと持ってきたからな。それ相応の態度で応えただけだ」
「ツンデレですかー?」
「やかましい」
「えっへっへっ。ではでは、また明日―」
騒がしく渚は帰っていった。また明日って、明日も来る気かよ。
「ったく」
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