三章 背徳

第82話 下弦の病

月晶に朧のような掌を翳す。

男は細かい金輪が四方の角から垂れる総長帽のような帽子を冠り、白銀の光を滔々と放つ石の上で手を揺蕩わせた。

音がしない。光を浴びると、五感が全て失われる。

いや、五感を感じる感覚、と言いなおすべきか。目は見えているし、体が物体に触れる感覚もある。だが、見えている、触れているという実感がまるでない。美しい女性を目で追いかけている時のような、猫の背中を撫でている時のような、感覚を意識するまでタイムラグがある。

月晶クラナディウムは、月の女神がその身を砕いて地上に齎した宝石だ。扱い的には魔石だが、常人が目にすることはまずない。存在すら知る者は少ない。

男はやがて手の動きを止め、畏まるように後退した。

摺り足で後ろ向きに動く先には浅葱色に光る転移陣がある。

男の両足が陣の上に乗り、ろうそくの灯が消えるようにその場から霞んで失した。


男が俗世に帰還すると、俗世の俗が具現化したような醜悪な男が手もみして近づいてくる。

服装は青い法衣に柳銀の留め具、同じく青の手袋。大きく突き出した腹のせいで留め具が常に悲鳴を上げている。

シュレイク・ゴージェスタ大司祭。

これで、アジェルにおける清月教会の中枢なのだ。もう二人、ユエン・ルイアブスという大司祭と、ヴィスタリア・ティルベリーという特別司祭がいて、この三人が清月教の大幹部的存在だ。


「導師様。慰奉の儀、滞りないようで」

「ああ。出迎えご苦労、ゴージェスタ大司祭」


神聖な儀式から戻り、この男を目にすると、少し眩暈がした。夢うつつから現実に引き戻す気付け薬という使い方はできるかもしれない。


「何か要件があるのかい?」

「ははぁ。実は、わが教会に多くの浄財を献じているファラントゥラ殿が、折り入って相談したいと」

「ふむ、奴隷大臣殿がな」


導師は腹の中で、虫飼いの元締めが偉そうに……と考えたが、口には出さない。奴隷もその飼い主も、それを監視する役人も、所詮は汚獩に過ぎない。汚いものを汚いと罵ることにどれだけの意味があろうか。

だが、汚いものが金を落としてくるというのなら目くじらを立てることはあるまい。元来宗教というものは汚いものを相手に清き真実でまかせを誑すもの。

しかし汚いものはどこまでも汚く、清いものは全て空に浮かんでいる。地上で煌めくものは、空から落ちてきた物だけだ。


「私が出なければならないものですか?」

「いえ、御任せ下されば」

「では任せました」


ほへ、と拍子抜けする。

信者から金を巻き取るのはこの男の役割だ。清月教の資金は信徒からの月ごとの浄財と、教会が所有する土地からの税金と、【恵相金】と称して行う金貸しの三つだ。ゴージェスタは信徒への浄財回収に回るのだが、このやり方がとてもうまい。何人もの弱みを握っており、毎月莫大な金額を仕入れてくる。おまけに王府の不浄役人とも太いパイプを持ち、汚れ仕事までこなしている。

気持ち悪い男ではあるが、教会として必要不可欠な男でもある。たとえ金の一部を懐に入れて女を囲っていようと文句は言わない。


「任せましたよ。ただし、清月の徒が関わる以上汚点なきように」

「心配無用にございます」


気が済んでどすどす足音を立てて去った。

根が小心者なので、上司である導師に対する報告連絡相談を欠かさない。そういうところもまた、ゴージェスタを切れない要因であった。


「嗚呼、クラナド様……匪悪なる魔王の襲来は迫りつつあります……どうぞ、愚かな地上を嘲笑っていてくだされ……」


神に救済を乞うのではなく、愚者の喜劇を楽しめと誘った。

男の瞳は黒滔々と、塗りつぶしたようだ。悪寒が走ったようにぶるりと震える。帽子の金輪が幽かな音を立てた。


救いを求めない。

神の救済は御伽噺ヒーローテイルだと知っているからだ。救済ヒーローは遅れてやってくる。

享楽に耽り邪淫に溺れるつもりもない。

世界一冽いものと、世界に溢るる汚いものに接しているうちに外道を楽しむ気持ちも廃れていった。


導師にとって生きることは無為でしかない。死ぬことも無為であるため、こうして生きながらえている。後は、国内清月教のトップの座を守るという仕事意識も少々。


「いえいえ、生きることは楽しいですよ。楽しい、ああ楽しい。ねえ、月が綺麗です」


屋内で天井を見上げてそう呟く。


彼の名は、エルゴード下弦導師。最高度の洗礼を受けた彼に姓はない。

取り憑かれたように両手を伸ばし、朧のような動きを再開した。

そこにない月を確かに見ている。


根太まで腐った教会のトップに座る男は、紛れもない敬虔な病人しんとである。


王宮内の黒鼠とは別の、業病が篤哉たちに迫ろうとしていた……

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