第78話 傲岸の壁は崩落す
月が替わった。
八月は地を這う蟻を焼き焦がそうと躍起になっている。太陽だけではない。風も、蝉の声も、空も、触れるものすべてが矮小な虫を虐めようと熱を上げる。
空調が効いた部屋の窓から、蟻どもが身を焦がし汗を流しながら築き上げる防壁を眺めた。
ロベルトだ。彼は今、総監代理の立場にいる。
ヒルウィレムが王都からの要請で急遽登城せねばならなくなったのだ。
突然の事に戸惑ったが、何も慌てることはない。
城内への手回しは全てあのお方が担っている。賄賂はいきわたるべき場所に届いているはずだ。
ディアル司法大臣の後援があるヒルウィレム・ケイン。
侯爵の血を引くこの俺に、ヘラ・クスクス、そしてあのお方。
「そうだ、恐れるものなどない。ふん、馬庭篤哉も今頃みじめな姿になっているかな」
ヘラの事だから、きっと胸がすくような扱いをしている違いない。その話を土産に一杯やるのが楽しみだ。
酒の事を考えたら、喉が渇いてきた。今は独酌で楽しむとしよう。
ロベルトは窓際から身を離し、隣の部屋へ向かった。
この部屋が涼しいのは隣室の冷気を常時送っているためだ。隣室は、空冷魔法の札が等間隔に貼られている貯蔵室になっている。ヒルウィレムは冷酒が好きなので、ボゥ・ズレベシャの郊外に別荘を建てる時にわざわざ作らせた。
「折角の総監代理だ。役得を精一杯享しむとしよう」
きんと冷えた室内で酒の目利き。
流石にヒルウィレム様、いい酒を揃えている。喉にやさしめの、泡の少ないやつを選んだ。保冷布に包んで、氷もいくらか運ぶ。氷はカヴィネシア湖から汲んできたものだ。神聖な湖らしいが、確かに雑味のない水だ。
「美味そうだ……あくせく働く虫けらを肴に、一献。ふふ、風流風流」
キロスケルとは、また違ったベクトルにあるロベルトの嗜好だ。
貯蔵室を出ると、生暖かい空気が入り込んでいる。
「窓が……何者!」
窓際に、少年が佇んでいた。
咄嗟に腰に手を伸ばすが、鉄の竹はもうない。
廊下への扉の前には牙のような短刀を逆手に構えた少女が逃げ場を塞いでいる。
「い、生きて姿をみせるとは……ヘラは」
「……今頃地獄で亡者の復讐を受けてるだろうな。ヘラがそんな目に遭って、お前がのうのうと酒を楽しんでるのは間尺が合わないだろ」
「馬鹿な……俺に手を出す気か。誰に雇われた虫けらか知らないが、俺に刃を向けるのはヒルウィレム様に刃を向けるということだ。王権すら発動できるお方を害するは国家反逆とも取れるぞ」
脂汗を浮かべながら、それでも恫喝する。
篤哉にとって、この男の言い分なんて知った事じゃない。
篤哉はいきり立つロベルトから目を離し、窓の外を眺める。桟に手をかけて半身を乗り出す。
真夏の猛暑の中、働き蟻が汗水流して防壁を築いている。
ロベルトに完全に背中を向けて外を眺める篤哉に、馬鹿にされたと我を忘れる。
「死ねええぇ」
壁の手槍を掴んで我武者羅に突きかかる。勢いと憤りまかせの、素人攻撃だ。
篤哉は動いた。窓からゆるりと吹く風のような、自然な動きだ。
刀を抜く音もない。
だが確かな手ごたえがあった。
手槍の穂は窓枠横の壁を削り、手が柄から離れた。
ロベルトは自分の腹部を信じられないような目で見ている。
傲岸の絶壁が崩落し、水道管が破裂したように割れ目から溢れだす。
「き、さぁま……」
「万丈の絶壁は蟻の一穴で崩れ去る………虫けらを舐め過ぎだ」
口からも血反吐を吐く。
そのまま体がゆっくりと傾ぎ、窓縁に膝がぶつかった。
重心が崩れ、ロベルトは蟻が這う地面へ落下していった。
血振りを済ませて納刀。
ロベルト・フィレンツを屠った。
王都では今頃、カルテとバニリスがヒルウィレムの相手をしているはずだ。
もう一匹、糸を引いていた黒幕がいるらしいが、そちらもいずれ決着がつくだろう。
「おつかれ、あつや。………帰れるね」
「ああ。長かったな」
「うん。帰ったら一緒にお祭り行こう」
「ああ、そういえばそんな話があったな」
帰る前に、一度天慈館に寄らねばなるまい。クルガウへの報告を済ませたいし、クロナ達とももう一度会っておきたい。
ここ一番の爽やかな顔で、館を出る二人であった。
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