第77話 神臓破りの血陣
ヘラの拍手は巻き上げるような風の音に流されることなく乾いて響く。
痩せ鴉が意地悪く鳴いた。
「お見事。アーシャウモが、かくもあっけなく絶えるとはな」
余裕綽々、自身に危険が及ぶとは欠片も考えていない。
貫く篤哉の視線を鼻で笑い、ヘラは拍手をやめた。
「何だ、何かがおかしいな……」
「ふん。気づかぬか。気づかぬだろうな。別に恥じることはない」
「ああ?」
篤哉はヘラに近づこうと一歩進む。
足が地面に触れるのと同時に、風がやんだ。笛のような音も、肌を刺す神々しさも消え去った。
「な…」
そこで、篤哉は初めて気づいた。
ヘラが用意した戦場に仕掛けられていた罠を。
まるで毛管に吸われるように、地面に禍々しい紋様が描かれている。薔薇の真紅より紅いその色はアーシャウモが流した血液に他ならない。
紋様は既に完成していた。風を遮っているのは円陣の縁からドーム状に覆う邪悪な赤い膜だ。半透明で、色眼鏡のように透けて見える。
篤哉から見る空は、精神がおかしくなるような赤色だ。召喚初日に連絡橋の上からみた斜暉を思い出せば、何物も状況によって美麗にも醜悪にも見えるのだと実感する。無間地獄から見る空はこんな色だろうか。
「これは、【神臓破りの血陣】と呼ばれる禁術だ。くふふ、何物であろうとこの陣にとらわれた者は生に縋ること能わず、だ」
赤い防壁の外からの情報は完全に遮断されている。
ヘラもそれを知りながら、自己満足のために説明し始めた。
篤哉は聞こえないながらも、自身の迂闊さを悔いていた。
陣が敷かれていることに気づかなかったのは仕方がない。牧草地で地面には草が茂り裸の地面はほぼ見えない。魔法のことなどほぼ知らない篤哉に見抜けというのは酷すぎる。
問題なのは、牧草地であるのに草が一分の隙も無く繁茂していることだ。丸々太った家畜がいるという牧場の牧草地の草が少しも食べられていないということをもう少し早く怪しむべきだった。
家畜の臭いがしないというのもヒントになるはずだったが、血の臭いすら吹き飛ばす強風のせいで気づけなかった。
なによりヘラが用意した舞台にもう少し警戒して立つべきだった。
今更歯噛みしても遅い。術中にはまったのは篤哉だ。捕食者はヘラ。間違いない。
「神臓……お宅がどんな加護を受けているか知らないがな、神の加護というのは心臓に宿る」
実際スキルやステータスを確認するためには利き手を左胸にあてて、情報を引き出す。利き手は神に触れられる手、加護は心臓に宿る。
神臓破りの血陣は、その加護を器ごと破壊する秘術だ。
あらゆる邪法、呪術、禁断の魔法を生み出した第二代魔王、【邪術の権化】スフィア・フィリウナイルが生み出したものである。勇者に対抗すべく、その加護を打ち砕かんと発明した禁術。戦争には数限りない駆け引き、攻防、逸話が付随して、説明すれば数冊の本になってしまう。詳細は省くが、結果としてスフィアは敗れ、禁術の秘伝はどこかへ消えてしまった。
その秘伝は現魔王フィルグリアが他象限に世界を指定した際に、第五象限のとある廃城に飛ばされていた。
それを当時がまだ工作隊長であったアーシャウモが任務遂行中に発見したのだ。
血陣を完成させるには、稀少な材料が必要であった。ヘラが今まで築いた闇ルートと、アーシャウモがわざわざ他象限に移動することで、どうにか材料はそろった。一番入手困難なはずの【中鬼の邪角】二本が、アーシャウモの角で補えたことも幸いだった。アーシャウモはもともと三本角だったのだ。鬼は自身の角に誇りを持っているものが多く、不用意に触れば同族や格上が相手でも我を忘れて攻撃するほどだ。アーシャウモがそういった矜持をすでに捨てていたこともまた幸いだった。
幸運も要領も加わり、強敵を屠る血陣を作り上げることができた。
後は起動要因………魔族の血が血陣に触れれば、幕が上がる。
アーシャウモの死はヘラにとって衝撃ではなく、篤哉の心臓が破砕する笑劇の前座に過ぎない。
アーシャウモもまた、それを知って篤哉と一戦を交えた。
「しかし、若いのによくやった。奇策を用いるわけでもなく、単純なフェイントで吊り鬼を討ち取った。誇れ、俺に喰らいついたことを。誇れ、俺の背筋をわずかながら冷たくしたことを」
地面に刺さった篤哉の刀の、柄頭を人差し指でとんとん叩きながら、赤い壁越しに篤哉の左胸を凝視する。
「誇れ、ヘラ・クスクスの娯楽になることを。お宅はそこらに棒立ちになっているモノとは違う、真の強者だ。……くふふ、勇者に匹敵するかもな」
そんな強者を今から殺す。どうだ、有象無象の奴隷共。俺に歯向かうとはつまりこういう事だ。
赤い壁の面上に、目のような二重丸がいくつも浮かび出た。内側の円から紙縒のような光の筋が伸びて篤哉の心臓に結び付く。
その数、十。十の紙縒が、死神の手が、篤哉の心臓を爆砕せんと嗜虐的に光る。
篤哉は目を閉じた。死の恐怖からではない。穢れた空を見たくなかったのだ。
紅い光は激しさを増す。やがて篤哉の左胸から青紫色の鮮烈な光が放たれ始めた。
「……?なんだ、あれは」
ヘラは首を捻った。秘伝にはあのような光の記載はなかった。紙縒に結ばれた心臓は体内で破裂し、口から鼻から尻から臍から、体中の孔全てから血汁を吹き出して死ぬはずだ。
おかしい。おかしい。神を涜するはずの光が、あんな高貴な紫色なはずがない。
ヘラは初めて、予想を超える事態が起きていると察した。柄を叩いていた人差し指は震え、汗が噴き出す。
「すううぅぅぅ」
篤哉は息を吸った。左胸に、温かく懐かしい温度を感じる。篤哉の瞼越しに、女性の顔が浮かんだ。
紫色の光は、邪悪な赤を圧倒している。
やがて血陣の内部を満たし、壁面の目玉が血走り始めた。
ぴしぴし、花粉症の目玉に走る血管のように罅が入り始める。違うのは、その罅から覗く青空だ。
ぱりん、と拍子抜けするような音と共に赤い壁は砕け散る。破片は薄氷が水に変化するように色を消して溶けた。
左胸の輝きが徐々に収まる。
篤哉は胸ポケットをまさぐって、残光清らかな二つの石をを取り出した。
出立前にセルビアに渡されたお守りだ。旅の途中、常に携帯していた。
篤哉はの背後から応援するようなカヴィネシアの風が吹く。迫るその姿は、ヘラにとって怒れる女神の化身を見るようだった。己の愛で培った山の麓を邪意で汚した不埒者への鉄槌。
ヒトの中で驕り高ぶっていても、神の怒りの前には抗いようもない。既に神臓破りの血陣は敗れたのだ。
ヘラは踵を返し逃走しようとする。
いつもは言わずとも道を開ける奴隷共が動かない。
「どけえぇぇ!俺の道を塞ぐなこの…ヒィッ」
首筋を冷たい風が流れた。地面に刺さっていた刀は篤哉の手に収まっている。
軽く振り下ろされた刃が、右耳を体から切り離した。
「ぬううあああああぁぁぁ」
血を撒いて地面を転がる。
篤哉は醒めた顔でそれを見下ろし、激情を凝縮した声で宣告する。
「ヘラ。生き物の優劣だのなんだの高尚なことをよくご存じらしいが、一つだけ基本的なことを忘れてるぜ。血が流れるのはな、痛いんだよ。ほら」
「あああああ」
「踏みつけるだけ踏みつけて、ただで済むと思うな。お前の苦しみは地獄に落ちてからだ。ほら、お前に殺された女と赤ん坊の声が聞こえないか?」
聞こえる。三途の川の淪が、対岸から押し寄せる怨嗟の声が、ヘラの心臓を掴んで引きずり込もうとしている。
「な、な、な」
「死ね、魔物」
一閃。ヘラの首が高く高く飛ぶ。
切断面から夥しい量の血飛沫が飛ぶ。
地面に転がった顔を見れば、ヘラとて所詮儚い生き物であることがわかる。
「はあああぁぁ」
長い息をした。カヴィネシアの風に乗り、青空から何かが降ってきた。
紙だ。燃えている。それは何枚も何枚も、ちらちら火を灯しながら牧場に舞い落ちた。
奴隷の一人が操られるように拾い、目を皿のようにする。
「う、う、うおぉぉ」
「こ、これ、これ、は」
驚きは、やがて感涙と歓声に変化した。
長らく流していない涙が地面を潤す。
久しく忘れていた笑いにつられて、女神の微笑みが浮かぶようだ。
篤哉は半分以上焦げたその一切れを拾い上げた。
「ふん」
ヘラが手を尽くして作った奴隷の偽造契約書。悪意は全て灰になればいい。灰は地に還り、女神の力で浄化されるだろう。世界から悪意が一つ減るのなら、神という存在の意義も確かにあるなと、不遜なことを考える篤哉だった。
風に乗って、火付け役のフウラの無邪気な笑い声も聞こえる。
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