第64話 静か鳥と紫陽花
じとじとした、蛞蝓や蝸牛が好みそうな雨が降っている。毛のような細く柔らかい雨だが、じっとり絡んでくるような熱気の中では鬱陶しくて仕方がない。黒髪を腰の高さまで伸ばしたみすぼらしい身なりの男が、緩やかな勾配の坂を上っていた。咲いていた紫陽花を、青とワイン色に分けて三つずつ摘む。花の匂いを嗅ごうと息をして、噎せ返る。
「うぇえへっ。くそ、ここにもか……」
紫陽花が咲いていたすぐ横の泥溜りに、裸の死体が打ち捨てられていた。旅人の無縁仏ではない。人攫いに捕まって、買い手がつかない間、働かされていた人間だ。ここ数日の熱波のせいで、酷い腐臭を放っている。ワイン色の紫陽花がこの仏の血を吸ったようにに思えて、投げ捨てた。
「くそっ。重たいな……」
痩せこけているが、肉が泥を含んでぐじゅぐじゅになり水を吸った雑巾のように嵩を増した。臭いに顔をしかめながら担ぎ上げる。これから寄る場所に、ついでに埋めてやろう。
「墓って言うほど立派なもんじゃないな……」
朽ち木の墓標に、掠れて読めない名前が彫ってある。皆、家畜以下の扱いを受けて死んでいった者だ。草原のくぐまった場所にあるこの墓所の一角を黙って掘り始めた。人が入る深さまで掘ったら、そっと仰向けに寝かせてやる。土をかぶせるから空を仰げるはずはないが、せめて上がった雨の後の虹を見せてやりたかった。
掘った土をかぶせ、墓所に生えている古木から皮を一枚剥いで小刀で名を刻む。名前なんて知らないから、適当に「アールウーサ」と書いた。「美しい虹」という意味だ。地面に突き刺して、手を合わせて拝む。その様子は使者の冥福を祈るというより、天主の許しを懇願する信徒のようで、その口からは懊悩が表れる。
「恨むなよ……いや、恨め。俺には恨まれるしか、償えることはないんだ……」
「誰も恨むものですか」
男が髪を揺らして振り向いた。土と同化するような、血色の悪い老人と、右足を引きずった青年が立っていた。
「俺たちが死んで、こうして花を添えてくださるのはあなただけですよ」
「恨むなんて、とんでも…」
「馬鹿な…誰でも享受できる、当たり前の権利だ。それを奪い続ける俺は、魔物だ」
顔を伝うのは、雨だけではない。両目から、後悔と絶望の苦い汁が垂れて口に入る。吐きそうだ。
「……戻る」
「戻って、仕舞うんですね」
「そうしなければ……たとえ悪鬼に堕ちて、この矢が全て無辜の血で染まろうとも……見捨てられはしない」
「……」
男はジグザグに進んで、賊が寝ずの宴で騒いでいるであろう本拠に戻っていった。少しでも雨の激しい場所を選んでいるように見えて、老爺は彼の名を口にした。
「【静か鳥】……フライト様、どうか自愛を……」
無駄な願いと思っても、止めることはできない。老爺は、青年の足を気にかけながら墓所を後にした。紫陽花が墓標の側で濡れそぼっている。
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うううぉぉぉぉ
狼が集団で遠吠えをしているような、人間離れした乱痴気騒ぎが、丈の高い葦や荻で囲まれた丘陵地帯にある賊の根城では日常茶飯事であった。相撲取りが使うような椀に、その茶飯が乗って運ばれ、その半分は宙を舞って地面に落ちるか壁を汚す。そのその飯の臭いと、酒、男たちの汗、敷いたままの布団の臭いなどが混ざって生物兵器級の毒ガスが充満している。ほぼすし詰め状態で男たちが汚い宴席を愉しむ中、少しだけ空いたスペースに座布団が敷かれていてその上で達磨のように巨大な眼球の男が鎮座している。
「酒がきれていますな。ありゃりゃ、こっちも」
「もってこい。はやく」
隣にいた狐目の参謀がへつらうように銚子を振るので、そう思うならさっさと動けと言う。その間巨大な眼球は一ミリも動いていない。視界が広すぎて、わざわざ動かす必要が無いのだ。体積もさることながら目玉に対する黒目の専有面積も半端ない。
その視界に、慌てて駆け込んでくる下っ端の姿が映った。宴席に参加する資格がない、雑用格だ。
「て、敵襲です!いあ、イラカの兵が千くらい押し寄せてきやがった!」
「せ、千!」
「落ち着け!……お頭、あの慌て者が言う数は十分の一にして聞かなきゃいけませんぜ」
ハン・スーフンの言葉に、大目玉の唇が馬鹿にしたように歪む。
「ふっ…たかが十人か」
「百人では」
「ああ?」
「あ、いや、」
「ゼロが一つ増えるだけじゃねえか!ゼロを足しても数は変わらん」
巨大な目玉に脳の居場所を大分割譲してしまった男に難しい演算を期待しても無駄だ。捕まって処刑されるまでに、足し算を覚えられるかどうか。ゼロを知っていただけいいと思うことにして、ハンは参謀として命令を出した。
「兵はどこに配置されている」
「へえ、マケイアに逃れる道はほぼ塞がれてまさあ」
「ふん、当たり前か。王領は」
「やっぱり、厳重で」
「イラカに誘いこもうとな。馬鹿が」
マケイアに逃げるのは難しそうだ。ここは一旦奴らの誘導にかかった振りをして、目にもの見せてやる。
「お頭、行きますよ……おい、誰か静か鳥を見なかったか」
「そういえば見やせんね」
「まああいつは宴嫌いだからな……わからなくはねえけど」
ハンとしても、この臭いには思うところがある。簡単な防具を身に着けて、外に出れば、新鮮な空気と確かな敵意が混ざり合った生温い気体が肺を満たして、狐目が凶星のように獰猛に光る。
「いいな、三手に分かれるぞ。本隊は一旦イラカへ逃げるふりをする。陽動隊がこの道から王領へ。殿隊は本体のケツを追いかけろ」
「へい!」
「わざわざ戦う必要はねえが、ここまでされちゃあ腹も立つ。できるようなら数人でもいい、ぶち殺してやれ」
「へい!」
二回目の返事と共に、賊が散った。囲んでいたイラカの討伐隊も、合わせて動き出す。叫び声をあげながらイラカへ逃げる奴らを四十ほどの兵が追う。熄み損ないの雨を浴びながら、篤哉の眇が満足げに動いていた。
「あれで陽動のつもりかよ…大目玉か……何を見てやがるんだろうな」
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