第14話 二人きりのレッスン
通路を通って再び校舎へ入る。上履きに履き替え、音楽室を目指した。
着くと音楽室の戸は開いていた。藤ノ宮さまは窓辺から外を見ていて私に気づいていなかった。私は藤ノ宮さまを驚かせないように小さな声で『ごきげんよう』と挨拶した。藤ノ宮さまは振り返り笑顔を見せた。
私が中に入り進むと「戸を閉めてちょうだい」と藤ノ宮さまが言った。私は入口まで引き返し戸を閉めた。
音楽室の黒板の付近にピアノが二台、向かい合わせで置かれている。そのピアノに一番近い机に藤ノ宮さまのカバンが置かれていたので、私は隣の机に自分の荷物を置いた。その瞬間、私のスマホからメッセージ着信の音が鳴った。私はすかさずカバンの中に手を突っ込んだ。
「集中したいから音を切っておきなさい」
と藤ノ宮さまから注意された。
「はい、申し訳ありません」
私はそう言いつつも、すでに握りしめて取り出そうとしていたスマホをそのまま取り出してメッセージを確認した。
『頑張って』と琴葉さんからメッセージが来ていた。私は『がんばる』とだけ打ち、拳を突き上げてポーズをとっているキャラクターのスタンプと一緒に、感謝の気持ちを込めて返信した。
「もういいかしら?」
「はい、申し訳ありません」
藤ノ宮さまの口調と態度から、不機嫌になったことが見て取れた。
私はスマホを取り出した時、連絡先交換のことを思い出したのだけれど、とても言える雰囲気ではなかった。仕方なくスマホをマナーモードにしてカバンにしまい込んだ。
「では始めましょう。ピアノに向かって座りなさい」
私は言われるがままピアノに向かって座った。
「まずはこの曲を弾いてみて」
藤ノ宮さまはピアノの傍に立ち、ピアノに楽譜をセットした。
ピアノの腕試しをされているんだと思い覚悟を決めて臨んだのだけれど、私は両手を鍵盤に置いた後、楽譜を見て愕然とした。
音符がたくさん並んでいる譜面は、一目で難易度の高い曲だとわかった。
こんなのを弾くの?
「この曲は…?」
「ベートーベンの『エリーゼのために』、簡単でしょう?」
藤ノ宮さまは真顔で答えた。
うわっ、無理。全然簡単じゃないです。
そんな想いは伝わらず、藤ノ宮さまは私が弾くのをじっと待っている。長い時間楽譜とにらめっこが続く。
ミレ♯ ミレ♯ミシレド ラ ドミラド
私はかろうじて右手で最初の3小節まで弾き、藤ノ宮さまの反応を待った。
「続けなさい」
「あの、ここまでしか弾けません」
「どうして?」
「楽譜が読めません」
「そう。もしかして左手も?」
「はい。両手で弾くこともできません」
藤ノ宮さまはうつむいて頭を抱えてしまった。
「あなた、本当に競争率千倍の受験を突破してきたの? 実技試験があったでしょう?」
「ありましたけど…、なんで受かったんでしょうね?」
私は愛想笑いでこの場を取り繕うとした。藤ノ宮さまは「そんなこと私に聞かれてもわからないわ」と首を傾げた。
「やっぱり、流石に千倍でそんな実力のはずないでしょう?」
藤ノ宮さまはやはり腑に落ちないようだ。
「千倍でも人より千倍上手いわけではないですし。あ、正確には千倍じゃなくて、千五倍なんです。あと受験は総合的な審査だと思いますので…」
私はつい口答えしてしまった。藤ノ宮さまは眉をひそめて私を睨んだ。
やっぱり怒らせてしまった?
「すみません」
私は恐縮して何か言われる前に謝罪した。余計なことをいうのはよそう。
藤ノ宮さまは大きなため息をついた。
「もう、それならどうして引き受けたのよ」
藤ノ宮さまは呆れた顔で言った。
ええ? 私はピアノ弾けないから無理って言ってたのに、藤ノ宮さまが勝手に引き受けたのではなかった? 私は言いたい気持ちを抑えた。
「ピアノの経験は?」
「小学六年生まで習っていました」
「六年生で辞めたの?」
「はい、ちょっと…事情がありまして」
「ふーん」
藤ノ宮さまは少しの間沈黙してしまった。
「しょうがないわね。運指は経験者のようにできてそうだから、練習すれば何とかなるかもしれないわね。でも少し易しい曲に変えましょう」
「はい、ありがとうございます」
私は簡単な曲になるならと喜んだ。
「じゃあ私が何曲か弾いてみせるから、志津が知ってる曲を教えて」
藤ノ宮さまはスペースの狭い私の隣に座ろうとしたので、とっさに横にずれた。藤ノ宮さまは私の右横にぴったり座り鍵盤に手を添えた。藤ノ宮さまの体からほんの僅か甘い花のような香りがした。
藤ノ宮さまはクラシック曲のサビの部分を弾き始めた。ピアノの優雅な調べが音楽室を漂いうっとりしそうになる。藤ノ宮さまの指の柔らかく鍵盤を打つリズムに合わせて私の首も自然と揺れた。藤ノ宮さまは楽譜もないのに五曲も弾いてくれた。
「藤ノ宮さま、凄いです!」
私は曲が終わるとすぐに賞賛の言葉を述べた。
「こんなの水澄ヶ丘女学園の生徒ならできて当然。中等部でピアノは必修なのだし」
「そうなのですね」
藤ノ宮さまは長い髪を右手でかき上げた。
いくら必修なのだとしてもこんなにピアノが弾ける生徒は他にいないのではないかと思った。
「この中で知ってる曲はあったかしら」
「二曲目と五曲目は聞いたことがあります」
「ゴセックのガヴォットとパッヘルベルのカノンね。そうね…じゃあガヴォットを試してみましょう」
藤ノ宮さまは楽譜のページをめくり、ガヴォットの譜面を広げた。
「私がプリモで高音部・メロディラインを弾くから、志津はセコンドで低音部・伴奏を弾いてみて」
藤ノ宮さまは大譜表の下段の五線譜を指でなぞってみせた。
「はい、やってみます。えーっと、押さえるところ多いですね」
私が鍵盤のどこを押さえるのか探していると、藤ノ宮さまが横で実演してくれた。
私は楽譜と藤ノ宮さまの実演する手を交互に見ながら手の形を覚えていく。4小節まで一通り教えてもらい、しばらく繰り返し練習した。
「ここまで通してみましょう、さん、はい」
藤ノ宮さまに合わせて私も自分のパートを弾いていく。4小節まで間違えずに弾くことができた。藤ノ宮さまの主旋律と私の副旋律が見事に揃った気がした。
「うまいじゃない。今のは良い演奏だったわ」
「ありがとうございます」
藤ノ宮さまから笑みがこぼれる。
「この調子でいけばなんとか間に合いそうね」
藤ノ宮さまは安堵の表情を浮かべた。
「昔の感覚を思い出したのかもしれません」と私は調子に乗って言った。
「そういえば、昨日、入学式の日のことを思い出したって言ったでしょう。あれは本当なの?」
「え? それは…、その…」
「やっぱり嘘をついていたのね」
「はい…」
「嘘をつくのはやめなさい。一度嘘をつくとずっと嘘をつき続けなければならなくなるわ」
「そうですね」
「そして嘘に嘘を重ねていけば、最後は取り返しのつかないことになる」
「はい」
「肝に銘じておくことね」
「わかりました」
「でも、ありがとう」
「はい?」
「あなたが言ってくれたからお姉さまにわかってもらえたの。それは感謝してる」
藤ノ宮さまは視線を逸らしてピアノの鍵盤をそっと触れながら言った。私は照れて軽く頷いた。
「今日はここまで。また来週ここで練習するわよ。いいわね?」
「はい」
私は名残惜しそうに音楽室を出た。出たというより、出されてしまった。藤ノ宮さまは私を先に帰し、自分はまだ残りたいらしかった。
一緒に帰ったり、おしゃべりしたり、そういうのに憧れてるんだけどな。
私は浅いため息をついて帰路についた。藤ノ宮さまのピアノの音が小さく廊下にまで聞こえていた。
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