第7話 藤、薫る
職員室から出てきた私と
今朝のホームルームが終わる寸前に放課後職員室まで来るようにと平井先生から申し入れがあった。私と琴葉さんだけ呼ばれたということは、新入生に近い私たちだけに伝達事項があるということだ。
その予想は当たっていたのだけれど、伝えられた話は意外なことに私と琴葉さんの中間試験が免除になるということだった。二人とも出席日数が少なく、中間試験の受験要件を満たさないのだそうだ。「免除」は聞こえはいいけれど、正確にいうと「資格なし」だ。
たとえ免除だろうが資格なしだろうが、中間試験を受けなくてよいという知らせは朗報だった。
しかし、世の中それほど甘くはないもので、案の定、代わりに課題提出が課せられた。各教科の小テストのプリントに、補習用のプリントに、過去の中間試験の出題プリントに、学習ノート。平井先生から渡された盛り沢山の課題プリントをかばんに詰めて、職員室を出てきた。
「志津さん、なんだか嬉しそう」
「琴葉さんこそ」
私と琴葉さんはお互いに牽制し合った。試験から逃れることができたことを大っぴらに喜ぶのはお嬢様としてはどうかという思いがあったので、気持ちを抑えようとしたのだけれど、やっぱり顔に出てしまった。琴葉さんも嬉しさで顔が緩んでいるように見えた。
***
中間試験まであと四日と迫り学園全体はすっかり試験モードに入っていた。周りは妙に静かで、それでいて慌しさがあった。
私は課題を図書館と自宅でしようと決めていた。放課後は図書館で少し課題をし、自宅に帰ってからもできるだけ課題をする。琴葉さんと図書館で一緒にできればと淡い期待を抱いていたのに、琴葉さんは自宅でするからといって断られてしまった。
課題の提出期限までそれほど時間があるわけではないのでゆっくりしている場合ではないけれど、試験勉強をすることと比べれば、いくらか気持ちに余裕があった。
放課後。
図書館で課題をするとしたのには理由があって、息抜きに学園内の探索や部活見学などをしようと、よこしまなことを考えていたのだ。でも部活見学は無理だということはまもなくわかった。水澄ヶ丘女学園では中間試験の五日前から最終日まで部活は休みになるのだそうだ。
部活見学ができないのなら、ちょっとだけ学園を散策しよう。
私は
***
手書きのような字体で『美山生花園』と書かれたプレートのついたアーチ状の門をくぐると綺麗な植物の景色があった。森で囲まれた学園の敷地には元々草木が多い。それと同じくらい雑草も多い。けれど、ここには雑草は一切なく手入れが行き届いていることが一目でわかるほど整備されていた。
どこからだろう。ほんのりと心地よい花の匂いがする。
私は花の匂いが強くなる方向を探しながら奥へと進んだ。それほど歩いていないところにその花はあった。
どこかの本で見たことがある、藤棚と呼ばれるものだ。
支柱に巻きつきながら格子状の天井を覆った藤の木々から数多くの
私は躊躇なく花の絨毯に座ったあと、思い切り寝そべって藤の天井を拝んだ。
藤の花が薫ってくる。
「藤の花ってこんなにいい匂いなんだ」
私は誰でもなく自分自身に話しかけるように呟いた。
人の気配がまったくしない静かな空間に私だけがここにいる。聞こえてくるのは時々吹く風の音。風が吹く度、藤の花びらが上から降ってくる。花びらを掴もうとするけれど、花びらは私の手を避けて、顔や体に落ちた。
天井の青空が透けて見えるところに垂れ下がっている藤の花の近くに蜜蜂が飛んできた。蜜の採れる花を探しているのだろうか。
「あなたも花の匂いに惹きつけられてやってきたのかな?」
心の中で蜂に呼びかけた。そうだったらいいなと漠然と願った。
届かないのはわかっているのに蜂に向かって手を伸ばしてみた。手の届く位まで近づけばきっと蜂の羽音が聞こえるのではないだろうか。いや、そうまでしなくても集中すればここからでも聞こえるかもしれない。
***
私はそっと目を閉じて耳を澄ました。しばらく粘ったけれど羽音らしい音を聞くことはできなかった。目を開くとちょうど蜂がひとつの花にとまった。蜂は花に体を突っ込んで足をバタつかせはじめた。
なぜだか近い。
先程と違って、手を伸ばせば届きそうなくらいの距離に蜂がいた。どういうことだろう。蜂がとまっている花はさっき見た天井からぶら下がっている花序と同じものだ。
藤棚の長い花序が突風を浴び、激しい音を立てて揺れた。花びらがもぎ取られ散っていく。
何かおかしくない?
「は…」
私は目を見開いた。
蜜蜂の姿はなかった。
居眠りしてた?
私は目をパチクリさせて、自分が藤棚の天井の下で仰向けで寝ていることをしっかりと確認した。
よかった。倒れていたわけじゃない。記憶もある。
幸いあまり時間は過ぎていないようだった。長い時間眠ってしまったらただの息抜きではすまなくなってしまう。
もう少ししたら戻ろう。
私はもう一度藤の花の匂いを愉しんだら教室に戻ろうと思った。
***
「こんなところで寝るなんてお行儀が悪いわ」
私はすぐ近くから声をかけられた。私はまだ花の絨毯の上で仰向けで寝ていたけれど、お行儀が悪いというお叱りを受けたので、ものすごい速さでとび起きた。
声の主は雰囲気としては上級生に違いないだろう。風でたなびく長い髪を片手でおさえながら私の顔を見下ろしている。一目見て端正な顔立ちでとても綺麗な人だと思った。そして髪が乱れないように押さえている立ち姿はどこか品があった。私は彼女から感じた印象のせいで頬が熱くなった。
「申し訳ありません。蜂を観賞していたらつい」
変なこと言っちゃった。蜂を観賞してたら寝るのか? と自分に問いたくなった。
「蜂? 花ではなくて?」
「花の周りを蜜蜂が飛んでいたんです」
「どこ?」
「え?」
「だから、蜂はどこにいるのかしら」
彼女はなぜか蜂の話に食いついた。
「あそこです」
私は天井の青空が透けて見えるところに垂れ下がっている藤の花序の方を指し示した。彼女は私の示した天井を見上げて蜂を探しはじめたようだった。
「って…、あれ? いませんね」と私が申し訳なさそうにしていうと彼女は探すのをやめてこちらを見た。蜂はいなかった。そういえば、目覚めたときにはすでに蜂はいなくなっていたのだった。
「あと一週間早かったら満開の見事な光景が見られたのに。この木はノダフジといって少し前まで鮮やかな青紫の花が咲いてたの。よく見てごらんなさい、花が茶色っぽくくすんできているでしょう」
「ああ確かに。ちょっと茶色くなっています。花にお詳しいんですね」
彼女が説明したように一週間前はもっと綺麗な花だったのだろう。私は少しの時間藤の花を眺めてから言った。私は決してお世辞のつもりで言ったわけではなかったけれど、彼女は何も答えなかった。
「そんなことより、早く立ちなさい」
彼女は私を立たせようと手を差し伸べてきた。この手をとって立てというつもりだろうか。それとも寝ていたことを咎めるために私を捕まえようとしているのだろうか。私はウッドデッキに座っているだけなので補助がなくても自分で立ち上がることができる。
どんな理由にしろ善意で手を差し出されたのだとしたら取らないのは礼儀に欠けるだろう。少しためらったけれど、そう考えて私は彼女の手を取った。ひんやりと冷たく柔らかい感触が手に伝わってきた。そしてこのタイミングで私が一番知りたかったことを尋ねた。
「あの、ご無礼をお許しください。あなた様は一体」
彼女は私の手をゆっくり引いて立ち上がらせた。
「私はあなたのお姉さまよ」
「はい?」
「わかりきっているでしょう。後ろを向きなさい」
「はい?」
「そんな気の抜けた返事をしない」
彼女は両手で私の肩を掴み、私をくるりと回して後ろを向かせた。
いま、お姉さまって言いました? 言いましたよね? 後ろを向けってどういうことですか?
でも、ここでいうお姉さまってなんだっけ? なんの話だっけ? なんで後ろ向かされたんだっけ?
私は二、三秒前に起こった出来事が何なのか理解できずにいた。彼女はとんでもないことをさも当たり前のように平然と言った気がする。
ウッドデッキの花の絨毯に、私が寝そべったときにできた人型の跡が残っていた。
「あっ!」
不意に背中を叩かれて声が出た。力はそんなに強くない。どちらかというと弱くて優しい。でも前触れもなく叩かれたので驚いた。
「動かないで。藤の花びらを落としてあげてるの。身だしなみはいつもキチンとしなさい。そもそもこんなところに寝ないことね」
「はい」
私は小さい声で返事した。小さい子供がお世話されているみたいで恥ずかしくなった。
お姉さまというのは優しい先輩のお姉さんという意味だ。私はそう理解した。
花びらを振り払う手が背中から腰の辺りまで降りたところで離れていった。
私はゆっくり振り返って彼女の目を見た。さっきは気が付かなかったけれど、彼女の身長は私より10センチメートルくらい高かった。
透き通るような肌、艶やかでサラサラしていそうな髪、くっきりとした目元、淡いピンクの唇、華奢な体つき。彼女はどこをとっても人が羨むくらい整っている。近くで見るとそれがよくわかる。
「ありがとうございます」
私は恥ずかしさのあまりお礼を述べるくらいしかできず、彼女から視線を外して下を向いた。一瞬だけ見えた彼女の胸元の花柄のアクセサリーが妙に印象に残った。
「それじゃあ一緒に来なさい」
「ちょっ…」
彼女は私の手を引っ張りどこかに向かい始めた。
手を強く握られて痛い。
「待って下さい」
私は引っ張られる手を引っ張り返し、彼女の動きを止めた。
「何?」
「一体どこに向かっているのでしょうか」
「わからないかしら。生徒会室にアコールの届け出に行くの」
「それはつまり」
「私とあなたが姉妹の契りを結んだことを届け出るということね」
「いやいやいや、意味がわからないです。契りを結んだっていうところが、その…、わからないです」
私はようやく正気に戻った。
「今更何を言っているの。あなたが入学式の日に私にお姉さまになってほしいと言ったのよ」
「ええぇっ!?」
「だからあなたが来るのをずっと待っていたのに。ほんと、あなたって薄情な子ね。登校したのなら真っ先に私に会いに来るのが筋でしょう」
「待って下さい。あの、大変申し上げにくいのですが、入学式の日のことは全く覚えていないんです」
「覚えていないってどういうことかしら?」
「私の病気のせいだと思うのです。それか、倒れたショックで記憶が飛んでしまったのかもしれません」
「病気? ええと…、あなたの事情は理解したわ。つまり、あの日の記憶がないと?」
「はい。ですから…」
「待って。記憶がないからといってあなたの言動や行動がなかったことにはならないわ。覚えてないから取り消しなんてことは道理に合わないでしょう?」
「おっしゃる通りですが…」
私も、そして彼女も、困ってしまった。
私が『お姉さまになってほしい』だなんて本当に言ったのだろうか。あの時はまだアコールという制度のことも知らなかったはずなのに。何より、目の前の彼女のこともわからないのに。
「お姉さまになってほしいと言った証拠はあるのでしょうか」
「まさか私が嘘をついているとでも言うの?」
「そんなつもりはないんです。でも、私が行ったことの確証がほしいんです」
「あの場に私たち以外、人はいなかった。証明できる人は誰もいない。その事実は曲げられないの。だったら私はどうやって証明したらいいかしら?」
彼女の表情にはどこか哀愁が漂っていた。
私は無茶なことを要求しているのかもしれない。言った言わない論争で、私の記憶がないことを棚に上げて、相手に証拠の提示を求めているのだ。
生徒会長の
彼女を不毛な争いにまきこむことは申し訳ないと思った。すべては何も覚えていない私がいけないのだ。
「わかりました。証明はいりません。あの…」
「
「はい」
「私はあなたの名前くらいちゃんと知ってるわ。それが証拠よ」
「はい」
「まさかとは思うけど私の名前も覚えてないのかしら」
「そのまさかです」
「病気だったのなら今回は大目にみてあげる。
彼女、つまり藤ノ宮さまは随分と穏やかな顔だった。
私は何度も何度も『藤ノ宮紫』を頭の中で復唱した。絶対に忘れないように。
この場は一見丸く収まったけれど、私はまだ半信半疑だった。未だに私が『お姉さまになってほしい』と言った理由がわからないし、見当もつかなかったから。
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