鼠
その時、初めて口が布で縛られていることに気が付いた。オレはそっと、女の人の口に手を伸ばした。布はこちらの心が痛むほどに、きつくきつく縛られていた。オレはそれをなんとかして解いた。
ずっと……縛られていたのか……?
女の人の口角には痛そうな痕が付いていた。
オレは口を開いた。
「マ、ママなの……?」
人生で初めて言った言葉。ママだと思う人に、初めて発した言葉。ずっと……言いたかった言葉。
「……あ、っ」
「え……?」
予想していた言葉は出てこなかった。女の人は必死に声を出そうとしていた。でも出なかった。本人も驚いているようで、その顔には絶望が混ざっていた。
声が出なくなるくらい、ずっと……縛られていたのか……?
それとも、助けを求めて、ずっと叫んでいたのか……?
女の人の目尻に涙が溜まっていた。
声が出ないと分かった女の人は、その代わりに何回もうなづいた。溜まっていた涙が目尻から溢れて、零れ落ちた。その顔には嬉しさが混じっていた。
この人が、オレのママ……この人はオレのママなんだ……っ!
その顔はひどく痩せこけていた。ママの目は記憶の中の写真よりずっと大きかった。顔のラインが細かった。
「マ、マ、ママ……ママああああ……!!!!」
膝から崩れるようにして、オレはママを抱きしめた。目から大粒の涙が溢れた。ママの手首は頑丈な太い手錠のようなもので拘束されていた。回した腕で、手で触れたママの腕は、手首は細かった。足も細かった。
「マ、ママ!! な、なんで、こんなところにいるの!?」
こんな話、ドラマの、小説の、映画の中だけのもの、だと思っていた。繋がれた鎖をどう解くのかなんて、分からなかった。
「もしかして、ち、父にされた、」
「あ、あぁあ!!!」
「!?!?!? あぐ……っ!!!」
作戦や計画のない、助けなければいけない、というそんなちっぽけにも思えるような正義がいけなかったのか。
少しでもママとの再会に喜んで、涙を流していたのがいけなかったのか。
オレはこの時、自分が袋の鼠になっていることに気づいていなかった。ママがこうなった経緯、助け出す方法を考えるのに夢中で、今、自分がどんなに危険な状態にいるかを分かっていなかった。
父はすぐに帰ってくると言っていたのに。
なのに、隠し部屋を見つけてしまったから、死んだと聞かされていたママを見つけてしまったから。
オレはそのことをすっかり忘れていた。
ママの、もう声の出ない、喉を潰した痛そうな声が聞こえて、それに驚いて、その視界がオレの後ろを見ていることに気が付いて……でも、それは既に遅くて。
振り返りざまに、オレは頭に強い衝撃を受けて、地面に倒れてしまった。
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