じゅうきゅうわめ。

 帰りのホームルームが終わっても、花はすぐに席を立とうとはしなかった。


 あと数ページで〝マリオネット冒険記〟の最終巻が読み終わる。

 読み終えてから図書室に向かうつもりだった。


 最後の一行を読み終えて、短く息を吐いて――。


 花はしおりをカバンにしまうと本を抱えて教室を出た。


 いつものように二階の非常ドアから外階段を下りて図書館に向かおうとして――やめた。

 昼休みに羽住くんと九重さんを見かけた踊り場を通るのが、なんとなく気まずかった。


 帰りのホームルームが終わってからずいぶんと経っている。校舎内の階段も、図書室前の廊下もガランとしていた。


 図書室のドアを開けると、中はしん……としていた。

 羽住くんは来ていないようだ。


「あら、いらっしゃい。遅かったのね。今日は来ないかと思った」


 図書館司書の小林さんののんびりとした口調に、花は頬を緩ませた。


「今日も本を読んでく? ちょっと職員室に戻りたいんだけど、しばらく席を外しても大丈夫? ……じゃあ、よろしくね」


 花がこくりとうなずくのを見て、小林さんは書類を抱えて図書室を出て行った。

 貸出カウンターのイスに座った花は本の返却作業をしようとして――。


「……?」


 バタバタと近づいてくる賑やかな足音に顔を上げた。


 羽住くんの足音ではない。

 羽住くんならもっと静かに歩いてくる。それこそ気付かないうちに背後にいたりするくらい、静かに。


 小林さんの足音でもない。

 図書室の前でやんだ足音に、花はドアをじっと見つめた。


「いるか、ハナ!」


 ドアをいきおいよく開けて現れたのは西谷くんだった。

 西谷くんは賑やかな声と足音を響かせて貸出カウンターへと駆け寄ってきた。


「本当に毎日、図書室にいるのな、お前!」


「部活はどうしたの?」


 Tシャツに短パン姿だから、あるにはあるようだけど。


「中休み! 部活始まる前にも来たけど、いないんだもん! 帰ったかと思ったじゃん! それよりも……悪い!」


 花の目の前にやってきた西谷くんは、パン! と手を打ち合わせるといきなり頭を下げた。


「な、何……?」


「変なうわさが流れてんだろ、俺との!」


 西谷くんの大声といきおいに目を丸くしていた花だったけど、あぁ……と、つぶやいて苦笑いを漏らした。


 花と西谷くんが仲良さそうに喋ってたとか。

 花が西谷くんからプレゼントだか手紙だかを貰ってうれしそうにしてたとか。

 下の名前で呼びあうくらいの仲になってるとか。

 二人が付き合ってるとかとか――。


 そんなうわさが流れていると、今日の昼休みに花もこのみから聞いた。

 そのうわさが西谷くんの耳にも入ったらしい。


「いろいろと馴れ馴れしかったかもって。それで変なうわさが立っちゃったかもって。ハナにも迷惑かけちゃったかもって反省したんだよ。……本当にごめん!」


「気にしなくていいよ。こんな根も葉もないうわさ、すぐに立ち消えるだろうし」


「でも……!」


「西谷くんが悪いってことになると、私も悪いってことになっちゃうと思うんだけど?」


 食い下がろうとする西谷くんの目をのぞき込んで、花はにひっと歯を見せて笑った。


 下の名前で呼ぶことも、西谷くんが言うところの馴れ馴れしいコミュニケーションも、花は気にもしていなかったし、嫌がったりも止めたりもしなかった。

 周りからどういう風に見られるかなんて全然、考えていなかった。


 これも恋愛ごとが疎いことによる弊害かもしれない。

 花は乾いた笑い声を漏らした。


 それに、花には誤解されて困るような相手もいない。

 そういう意味でなら花の方こそ西谷くんに謝るべきだ。


 昼休みに見た九重さんの泣き顔を思い出してこっそりため息をついた。

 結局、誤解も解かないままにだ。


 うつむく花をよそに、西谷くんはパッと笑顔を浮かべると花の肩をバシバシと叩いた。


「ハナ! お前って、本当にいいやつだな! そうだよな! こんな根も葉もない噂、長続きしないよな!」


 花は痛さと申し訳なさにあいまいな微笑みを浮かべた。


「花には話したらなんかすっきりした! じゃあ、部活に戻るから! またな、ハナ!」


 ぶんぶんと手を振りながら図書室を出て行く西谷くんに、花は苦笑いで手を振り返した。

 ドアが閉まって西谷くんの足音が遠のくと、ようやく図書室にいつもの静けさが戻って来た。


「……にぎやかだなぁ」


 しん……と静まり返った図書室に花はふとため息をもらした。

 昼休みの光景を――羽住くんと九重さんの関係を西谷くんが知ったらどう思うのだろう。


 貸出カウンターを出て窓際の背の高い本棚に向かう。

 しゃがみこんで人魚姫の絵本を取り出すと、ひざの上に乗せて最後のページを開いた。


 この絵本が大好きだった小さな頃には滅多に開かなかったページだ。


 人魚姫が海の泡となって消えたあと。

 そのことを知らないはずの王子さまとお姫さまが泣きながら抱き合っているシーンだ。


 でも、王子さまとお姫さまだけじゃなくて、そこには人魚姫の姿も描かれているのだ。

 泣くのではなく微笑んで、抱き合う二人の額に祝福のキスを落としている。


 絵本の中の人魚姫は優しい微笑みを浮かべていた。

 大切な人も、命すらも失ったというのに、それでも穏やかで見惚れるくらいきれいな微笑みを浮かべていた。


 人魚姫の微笑みにつられて頬を緩ませていた花は、


「あ……」


 絵本を取り上げられて声をあげた。


「何を読んでいるかと思えば……一応、恋愛物ですね」


 いつの間にやってきたのか。

 振り向くと、そこにいたのは羽住くんだった。


「こんにちは、真隅さん」


 羽住くんはいつも通りの微笑みでそう言って、またすぐに絵本に目を落とした。


「恋をすると恋に関する曲を聞きたくなったり、物語を読みたくなったりするそうですが……どんな心境の変化ですか。研究の成果でしょうか。それとも……」


 最後まで言い切らず、羽住くんは絵本を閉じた。

 花の手に絵本を返すと、羽住くんは窓際の背の低い本棚へと足を向けた。


 昼休みに九重さんを抱き寄せていたことも、それを花が見ていたことも、まるで何もなかったみたいな態度だ。

 きっと触れられたくないのだろう。


 嘘をつかれるのも秘密にされるのもさみしいけど、それなら聞かないでおこう。

 そう心に決めて、花は一人、小さくうなずいた。


 と、――。


「図書室の前で西谷くんに会いました。西谷くんとずいぶんと仲良くなったんですね」


 羽住くんは言いながら低い本棚の前にしゃがみこんだ。

 手に取ったのは、あの魔法使いが出てくるシリーズ――〝マリオネット冒険記〟だ。


「昨日の朝も廊下で話をしていたでしょう? それもすごく楽しそうに。どんな話をしていたんですか」


「どんなって……」


 ニシキアナゴのしおりを失くしかけたこと。

 西谷くん本人から九重さんのことが好きだと聞いたこと。

 それから、水族館の一件は羽住くんと九重さんの計画だったこと。


 花と西谷くんが話した内容はそれくらいだ。


 しおりは無事に見つかった。

 西谷くんが九重さんを好きなことは羽住くんも知っている。

 水族館の一件は羽住くんに直接、聞くつもりだ。 


 どれもこれも大した内容じゃない。

 花が苦笑いしていると羽住くんが口元にだけ笑みを浮かべた。


「真隅さんと西谷くん、二人だけの秘密……ですか? ……そういえば、恋愛物では秘密の共有が恋愛感情を抱くきっかけや二人の仲を進展させるきっかけになったりするんですよ」


「どういうこと?」


「いいえ、ただ西谷くんと仲良くなったきっかけを邪推してみただけです」


 冷ややかに笑う羽住くんを花はじっと見つめた。

 西谷くんから水族館の一件を聞いてからずっと疑問に思っていた。


 いっしょに水族館に行きたいだけなら、ただ素直に誘えばいい。

 それなのに九重さんと二人で計画を立てて、西谷くんを巻き込んで、花に嘘をついて。

 そんなまわりくどいことをして水族館デートを決行した。


 羽住くんはどうしてそんなまわりくどいことをしたんだろうと、ずっと疑問に思っていた。

 でも――。


「秘密の……共有」


 それが答えなのかもしれない。

 羽住くんは秘密を共有することで、二人の仲を進展させたかったのかもしれない。

 その答えにたどり着いた瞬間、花はパッと顔をあげた。


「九重さんと水族館に行くって、西谷くんが友達に話してるのを聞いたって言ってたの、嘘だよね?」


 花の言葉に羽住くんは目を丸くした。


「西谷くんから聞いたんだ。あ、西谷くんを怒らないでよ?」


「えぇ、怒りません。……はい、水族館のことは最初から知ってました。と、いうか、ほのかに頼まれて、ほのかと俺で立てた計画です。嘘をついていました、すみません」


 そう言って、羽住くんはあっさりと頭を下げた。

 羽住くんのつむじを見つめて、〝ほのか〟って呼んだな……と、花はぼんやりと思った。


 羽住くんは花と話すとき、〝九重さん〟と名字で呼んでいた。

 でも、九重さんと話すときには〝ほのか〟と下の名前で呼んでいた。


 呼び方も二人の秘密――の、一つだったのかもしれない。

 そして、もう、その秘密を秘密にしておく必要がなくなったのかもしれない。


「なんで、そんな嘘を? って、西谷くんに聞いてからずっと思ってた。……秘密の共有。そっか。恋愛物にはそういうのもあるんだ。なんだか探偵物とかスパイ物っぽいね。そういうのなら私も読めるかも!」


 お道化て笑ってみたけど羽住くんは黙って微笑んだまま、何も言おうとしない。

 花はおずおずと首をすくめた。


「……計画は、うまくいったの?」


「どうでしょう。水族館に行くまでは、おおむね上手く行っていたんですが。西谷くんと真隅さんが鉢合わせてしまったのは想定外でした」


 自嘲気味に微笑む羽住くんを見上げて、花は首を傾げた。


 今日の昼休み、非常階段の踊り場で見た羽住くんと九重さんの姿を思い出す。

 九重さんのことが好きな西谷くんにとってはつらい展開だ。


 でも、九重さんにとっては?

 九重さんは西谷くんのことが好きなのだと、このみや羽住くんから聞いていたけど――本当に?


 そして、羽住くんにとっては?


 花は手に持ったままの人魚姫の絵本に視線を落とした。


 入学式の日――。

 どんな本が置いてあるのだろうかとわくわくしながら訪れた中学校の図書室。


 そこで見た光景は、まるで人魚姫の絵本の一ページのようだった。


 床に倒れている羽住くんと、羽住くんの顔を心配そうにのぞきこんでいる九重さん。

 二人のようすは人魚姫に嵐の海から助け出されて浜辺で気を失っている王子さまと、彼を介抱する隣国のお姫さまそのものだった。


 人魚姫の物語で最終的に王子さまと結ばれるのは隣国のお姫さまだ。

 きっと、二人は末永く幸せに暮らしたはずだ。


 なら、羽住くんと九重さんも――。


「西谷くんと私が鉢合わせちゃったのは想定外だったかもしれないけど……きっと、それでよかったんだよ」


 花が微笑んで顔をあげた瞬間――。


 今まで自嘲にしろなんにしろ微笑みを保っていた羽住くんの表情が一変した。

 すっと真顔に戻ったかと思うと眉間にしわを寄せ、みるみるうちに険しい表情になった。


「……どういう意味でしょうか」


 羽住くんの低い声に、花の心臓がドクンと跳ねた。

 なんだか怒っているみたいだ。


「だって、西谷くんと私が仲良くなったって噂が流れたから、九重さんは勘違いして、二人の仲も進展して……今日の昼休みだって……」


 そこまで言って、花は慌てて口を噤んだ。

 羽住くんの鋭い目が、メガネのレンズ越しに花を睨むように見つめていたからだ。


「なるほど。そういうこと、ですか」


 羽住くんは静かに言い放つと、ふいと花から目を逸らして黙り込んだ。

 長い、長い、沈黙――。


「……告白したり、するの?」


 沈黙に耐え切れなくなって、へら……と笑いながら尋ねた花は、すぐに後悔した。

 もっと当たり障りのないことを言えばよかった。

 案の定――。


「念のために聞きますが、誰が、誰にですか?」


 羽住くんはにこりと――しかし、冷たい微笑みを浮かべた。

 羽住くんの鋭い視線に花は首をすくめて唇を引き結んだ。


 九重さん――なんて答えられる雰囲気では、とてもじゃないけどなかった。

 羽住くんは鼻で笑うと、あごをあげて花を見下ろした。


「いい推理でしたが残念です。肝心なところが間違っています」


「肝心なところ?」


 花が聞き返すと羽住くんは乱暴にメガネを外して、苛立たしげに前髪をかき上げた。


 額を手で押さえてうつむいている。

 噛みしめた唇が震えていた。


 口を開いて何か言いかけて、飲み込んで、また開いて――。

 何度か繰り返したあと、羽住くんはようやく顔をあげた。


「もし、俺とほのかが付き合うことになったら……真隅さんはどうしますか」


 絞り出すような声でそう言って、羽住くんは微笑んだ。

 心臓がトクンと跳ねた。


 どうするだろう――?


 花はうつむいて、手に持っている人魚姫の絵本の表紙をそっとなでた。


 そうだ、まずは西谷くんをなぐさめないといけない。

 それから。それから――。


 このみは男子バスケ部の先輩と付き合うようになってから、花にメッセージを送ってくる頻度が減った。

 きっと九重さんと付き合いだしたら、羽住くんも図書室に来る頻度が減るだろう。


 本の話をする機会も減るかもしれない。

 それは少し寂しい。寂しいけど――。


 絵本をぎゅっと抱きしめて、最後のページを思い浮かべた。

 人魚姫は、王子さまとお姫さまに微笑んで祝福のキスを贈った。

 日本人の花には額でも、キスはちょっとハードルが高そうだ。


 花なら――。


「微笑んで、おめでとうって祝福すると思う」


 それぐらいが精一杯だろう。

 にこりと笑って見せて、花は言った。


「そう、ですか」


 羽住くんはさっきよりも深くうつむいて、前髪をくしゃくしゃと掻きむしった。

 そして、ふと手を止めたかと思うと――。


「少しは期待したのに」


 ぽつりと。

 吐き捨てるように呟いた。


「昼休みに俺とほのかがいっしょにいるのを見た真隅さんは泣き出しそうな顔をしてた。だから、もしかしたらって……期待してたのに」


 苛立たしげに言ったかと思うと、羽住くんは顔を上げて花を睨みつけた。


「馬鹿みたいだ」


 羽住くんの冷ややかな声がやけに近くで聞こえた。

 目を閉じているわけでもないのに視界が暗い。


 唇に触れた冷たい感触。


 それが羽住くんの唇なのだと。

 キスされたのだと気が付いて――。


 ゆっくりと遠のく羽住くんの顔を花は呆然と見上げた。


「……っ」


 羽住くん自身も自分の行動に驚いたようだ。

 メガネのレンズ越しじゃなく、直接、見える目が大きく見開かれていた。


 かと思うと、羽住くんは本を――あの魔法使いが出てくる〝マリオネット冒険記〟を抱えたまま。

 花が止める間もなく、走って図書室を出て行ってしまった。


「貸出手続き……」


 ドアが乱暴に閉まる音にぽつりと呟いてみたけど、出て行ってしまったあとの羽住くんに聞こえるはずもない。


 花は唇にそっと触れてみた。まだ感触が残っている。


「どうして……」


 羽住くんはあんなことをしたんだろう。

 考えてみてもわからない。


 でも、考えているうちに一つ、思い出した。


 冒険物を読むようにうきうきした気持ちで人魚姫の絵本を読んでいた花に、その話は悲しい恋の物語なのだと言い放ったあの子。

 驚いて、顔を見上げた花と目が合った瞬間――。


 あの子も――あのときの羽住くんも、ポロポロと大粒の涙をこぼして泣いていた。


 つい今さっきの羽住くんと同じように――。

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