じゅうはちわ。

 水曜日――。


 週の真ん中はちょっと憂鬱だ。今日は体育があるから余計に。

 花はとぼとぼと登校した。


 学校に着くと、昇降口で上履きに履き替えている羽住くんを見かけた。

 羽住くんは花に気が付かないまま。大きなあくびをしながら階段を上がっていってしまった。


 昨日、借りた小説を読んでいて夜更かしでもしたのだろうか。


 魔法使いが最後どうなったか、花に聞いてから読むかどうか決めると言っていたのに。

 花は面白くない気持ちで羽住くんの丸まった背中を見送った。


 と、――。


「……?」


 花はあたりを見まわした。

 同じ学年の女の子たちが花を見ながら、こそこそ、ひそひそと話しているような気がしたのだ。


 この時間帯、朝練が終わった生徒と登校してきた生徒とが入り乱れて混み合っている。

 花の近くにいる誰かを見ていたのかもしれないし、ただの自意識過剰かもしれない。


 いや、多分、きっとそうだ。


 納得して、花は上履きに履き替えると教室へと向かったのだった。


 ***


 昼休み開始のチャイムが鳴った。


 今日は昼休みに図書室に行くつもりはなかった。

 〝マリオネット冒険記〟も残り二巻でおしまい。まだ大丈夫だと思うけど、羽住くんが追い付く前に最終巻まで読み終えて返却したい。

 だから、昼休みも教室で本を読んでいるつもりだった。


 お弁当箱を広げて一口目を食べたところで――。


「だから友達が来るのを待てんのかと」


 このみがコンビニ袋片手にやってきた。

 仁王立ちで睨みつけられて、花は亀のように首をすくめた。


 花の前の席に座って、このみはたまご蒸しパンの袋を勢いよく開けた。

 なんだか表情が固い。


「……どしたの?」


 尋ねると、このみが顔を寄せた。


「花。あんた、西谷となんかあった?」


「なんか……?」


「正直に話しな。ブツは上がってるんだ」


 このみはスッと目を細めて低い声で言った。

 完全に取り調べの雰囲気だ。特に悪いことをした覚えはないけれど、花は慌てて背筋を伸ばした。


 とは言え、特段、話すようなこともないのだけれど。


「正直にって……」


 口ごもる花を追い詰めるように、このみはさらに顔を寄せた。


「昨日の朝、西谷がうちのクラスに来たらしいじゃん」


 ニシキアナゴのしおりを届けてくれたときの話だろう。

 そういえば男子バスケ部も朝練があったから、このみはまだ教室にいなかった。


「花って、下の名前で呼ばれてたってのはどういうことだい、お嬢ちゃん」


「西谷くんちで飼ってる犬と私の名前が同じなんだって。鼻水模様のハナちゃん」


「ん? え? 鼻水……?」


「鼻水」


 動揺するこのみに、花は深々と頷いた。


「じゃ、じゃあ……西谷にほっぺたをふにふにされてたってのはどういうことだい、お嬢ちゃん!」


「ん~、よくわからないけど……たぶん鼻水模様のハナちゃんや、弟や妹にするのと同じやつ?」


「だから、鼻水模様のハナちゃんって何……?」


 きょとんと首を傾げる花を見つめて、このみは脱力し切ったあきれ顔でぼやいた。

 それでもすぐにいかつい顔を作り直すと、ぐいっと顔を寄せて花の目をのぞきこんだ。


「告白……されちゃったんだろ、お嬢ちゃん」


「ううん、されてない」


 あっけらかんと首を横に振る花を見た瞬間――。


「ですよねー」


 このみは今度こそ脱力して崩れ落ちた。


「いやぁ、ないとは思ったけどさ。結構なうわさになってるから確認しとかないとって思って」


 ようやく笑顔を見せて、このみがそう言った。

 うわさの内容が全く想像できない。


 花はもごもごと卵焼きを食べながら無言で首を傾げた。

 質問を声に出さない横着者の花に苦笑いして、このみはたまご蒸しパンにかぶりついた。


「花と西谷が仲良さそうに喋ってたとか。花が西谷からプレゼントだか手紙だかを貰ってうれしそうにしてたとか。下の名前で呼びあうくらいの仲になってるとか。二人が付き合ってるとかとか」


 このみが教えてくれた〝うわさの内容〟に花は吹き出した。


 多分、西谷くんがニシキアナゴのしおりを届けにきてくれたときのことが、盛大に尾ひれがついて広まってしまったのだろう。

 花と西谷くんという接点のない、珍しい組み合わせだったものだから、余計に憶測が憶測を呼んで面白おかしく広まってしまったに違いない。


「火のないところに煙は立たないって言うけど……ずいぶんと小さな火種だったみたいだね」


「そうだねぇ」


 あっさりとした花の反応に、このみはがっくりと肩を落とした。


「お子ちゃまな花と、ついに恋愛話ができるかとちょっと期待してたのに……」


「ご期待に添えず申し訳ございません」


「私の惚気話も聞いてよ!」


「聞くだけなら、いくらでも聞きますとも」


「今の花の経験値じゃ、話しててもただただ恥ずかしくなるだけなんだよ! ギャグを懇切丁寧に解説させられる芸人みたいな気持ちなんだよ!」


 このみがバシバシと机を叩くのを見て、花はふむ、と頷いた。


「それはひどい話だね」


「全くだよ。……全くだよ、じゃないよ! あんただよ、ひどいのは!」


 拳を振り上げて、座ったまま地団駄を踏むこのみに、花はけらけらと笑った。

 ひとしきり暴れて落ち着いたこのみは、また声をひそめた。


「ま、ないとは思ってたけど。でも、ないとは思ってない人たちもいるみたいだよ」


 このみに促されて振り返ると、女子バレー部の子たちがにらむように花を見つめていた。


 女子バレー部の中でも、このみや花と仲のいい大人しめのグループの子じゃない。

 九重さんといつもいっしょにいる派手めな子たちだ。

 朝からちらちらと見られている気がしていたけど、気のせいではなかったらしい。


 九重さんの耳にも入っているのだろうか。

 花は三列挟んで斜め前の席に座っている九重さんに目を向けた。


 頬杖をついていた九重さんと目があった。こちらをずっと見ていたらしい。

 驚いたように目を見開いたかと思うと露骨に顔を背けられてしまった。


 どうやら九重さんの耳にも入っているようだ。


 九重さんは考え込むようにうつむいたあと、席を立って大股で教室を出ていってしまった。

 助けを求めてこのみの方を見ると、このみも困り顔で肩をすくめた。


「まぁ、根も葉もないうわさなんてすぐに立ち消えるよ」


 そうかもしれない。

 でも、九重さんに誤解されたままでは西谷くんに申し訳なさすぎる。


 花は腕組みしてうなり声をあげたあと――。


「……仕方ない」


 そうつぶやいて、お弁当箱をカバンにしまうと席を立った。


「このみ、図書室に行ってくるね」


「はいよ、いってらっしゃい」


 ひらひらと手を振るこのみに見送られて、花は大急ぎで教室を出た。


 多分、羽住くんと九重さんは仲が良い。

 水族館の件からして、少なくとも協力関係ではあるはずだ。


 逆に、花は九重さんと話したことがほとんどない。

 西谷くんとのことは誤解だと、それだけを言うために九重さんに声をかけるのは不自然だし気まずいものがある。


 それなら、羽住くんから九重さんに、花と西谷くんのうわさは誤解だと話してもらえないだろうか。それとなく伝えてもらえないだろうかと思ったのだ。


 羽住くんは毎日、昼休みに図書室に来るわけじゃない。でも、隣の教室をのぞいたら羽住くんの姿は見当たらなかった。

 図書室に来ている可能性は高い。


 花は二階に下りると廊下の突き当りにある非常ドアに向かった。いつものように外階段から一階に下りて図書室に向かうつもりだった。

 少し重たいドアを腕だけじゃなく体重も使って押し開けて、踊り場に出ようとして――。


「俺もうわさは聞いたけど……西谷くんは否定してた」


 羽住くんの声に足を止めた。

 声は下の方から聞こえてきた。そっとドアを閉めて、階段の影に隠れながらのぞきこむ。


 案の定――。

 二階と一階の途中の踊り場に羽住くんが立っているのが見えた。


 羽住くんが話しかけている相手の顔は、後ろを向いているせいで見えない。

 でも、水族館で散々、見た後ろ姿だからわかる。


「まだ、内緒にしてるだけかもしれない」


 やっぱり九重さんの声だった。

 いつもは元気いっぱいの声が今はか細く力ない。


「水族館でも真隅さんのこと、西谷にいろいろと聞かれたんだよ。いつの間に仲良くなったんだろう。いつから、そんな風に……」


 花は首を傾げて、あ……と声が出そうになって慌てて口を押えた。

 多分、トイレの前で鉢合わせたあとだ。


 花と鉢合わせたことに西谷くんは本気で動揺したのだろう。

 それでついつい花の話題を出してしまったのだろう。


 気持ちはわかるけど、疑惑の種を自ら撒いてまわってどうするのだろうか。

 あわてふためく西谷くんの姿を思い浮かべて、花はこっそりため息をついた。


「水族館で真隅さんと鉢合わせたからじゃないかな。真隅さんがトイレに入ったあと、西谷くんが出てきたけど焦ったようすだったから。そのあと、真隅さんも何かを隠してるみたいだったし」


 ご名答だ。

 羽住くんの推理に花はがっくりと肩を落とした。


 鉢合わせたことも含めて誰にも、羽住くんたちにも話さないと西谷くんと約束した。

 その約束を花はきちんと守ったのだけど――。


「そもそも私や西谷くんの隠し事なんて、羽住くんに通用するわけないか」


 やっぱり羽住くんは心が読める魔法使いだ。

 見透かされ過ぎていて、悔しいを通り過ぎて悲しい。


 と、――。


「そんなことどうでもいいの! 西谷が真隅さんを気にしていたってことが、下の名前で呼ぶくらい仲良くなってたってことが問題なの!」


 九重さんの金切り声に、花はびくりと肩を震わせた。

 気のせいだろうか。声が震えている気がする。


「わかった、わかったから。とりあえず俺から真隅さんに聞いてみるよ」


「でも……でも……!」


 鼻をすする音がした。泣いているらしい。


「なんで……?」


 花は思わず呟いていた。


 花と西谷くんが話したことなんて、内容も時間も大したことない


 鼻水模様のハナちゃんとニシキアナゴのしおりの話。

 水族館デートの件を少しと、それから――西谷くんが九重さんのことを好きだという話。


 それくらいだ。


 九重さんが泣く必要なんて少しもない。

 羽住くんに探りを入れられる必要もない。


「今、私から九重さんに話せば済む話だよ」


 西谷くんと約束したのだ。

 西谷くんが九重さんを好きだということは秘密にする、と。


 でも、うわさは全部、誤解だと伝えるだけなら約束を破ることにはならない。


 花は深呼吸して覚悟を決めると、手すり壁の影から出て行こうとして――。


「だから、落ち付けって」


 踊り場の真ん中で立ちすくんだ。


 なだめるように、子供に言い聞かせるように。

 低く、優しく、落ち着いた声で言って、羽住くんは九重さんの頭を自身の肩に引き寄せた。


 あまりにも自然な、流れるような動作に、いつもこんなことをしているんじゃないかと思ってしまうほど。


 背の高い九重さんに寄り添う羽住くんを眺めて、花はぼんやりと思った。

 猫背で歩くからわかりにくいけど、やっぱり羽住くんは背が高い。

 

 西谷くんは男子の中では平均的な身長で、九重さんは女子の中では飛び抜けて背が高い。

 水族館で並んで歩く二人は同じか、ちょっと九重さんの方が高いように見えた。

 

 でも、羽住くんは九重さんと並んでも十センチくらい高い。

 九重さんを抱きしめても、ちょうどいい高さに肩がある。


 風が吹いた。

 羽住くんの髪がさらりと揺れて、長めの前髪とメガネで隠している顔がのぞいた。


 いつもは隠している整った顔立ち。

 学年のほとんどの子は知らないだろうけど、仲の良い九重さんならきっと知っている。


 たぶん花よりも、ずっと――。


 二人がそうしている姿はすごくしっくり来た。

 近視感のようなものを感じて記憶を辿った花は、ゆっくりと目を見開いた。


 そうだ、人魚姫の絵本だ。最後の一ページ。

 人魚姫が泡となって消えたあと、それを知らないはずの王子さまとお姫さまは、それでも涙を流して抱き合うのだ。


 花は微笑んで一歩下がった。

 西谷くんには申し訳ないけれど、今は誤解を解くよりもこの場を離れた方が良さそうだ。


 非常ドアへときびすを返そうとして――。


「……っ」


 ふと顔をあげた羽住くんと目が合った。


 まるでスローモーションだ。羽住くんがゆっくりと目を見開いた。

 大きく見開かれた羽住くんの目に見つめられて、花は動けなくなった。


 のぞき見していたという負い目からだろうか。

 心臓がバクバクと鳴って痛い。息苦しさに花は唇を噛んだ。


 と、――。


 羽住くんが大きく息を吸い込んで口を開こうとする気配に、体の呪縛がパッと解けた。

 花は慌てて、人差し指を唇に押し当てる。息と言葉を飲み込んだ羽住くんに向かって、それでいいとうなずいてみせた。


 九重さんの背中を指差して、もう一度、唇に人差し指を添えて。

 花はゆっくりと後ずさった。


 羽住くんに意図が伝わったかどうかはわからない。

 でも、足音がしないようにそーっときびすを返す花を呼び止めたり、追いかけてくることはなかった。


 ドアを閉めて、ほっと息をついて――。


「……なんだ、そっか」


 花は非常ドアに背中を預けて、しゃがみ込んだ。


「人魚姫の物語と同じ。……やっぱり、王子さまとお姫さまは結ばれる運命なんだ」

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