じゅうななわめ。

 帰りのホームルームが終わるのと同時に花は足早に教室を出た。

 早めに出ないと廊下も階段もすぐに人だらけになってしまう。


 他のクラスの友達を迎えに行こうとする帰宅部。

 上の階にある音楽室や美術室に行こうとする文化部。

 反対側の棟の一階にある更衣室や、昇降口から外に出て部室棟に行こうとする運動部。


 人は多いし、行く方向もバラバラだから歩きにくいし、トロくさい花はしょっちゅう人にぶつかってしまう。

 だから人がまばらなうちに早足で廊下を抜けて、階段を下り、二階の廊下の突き当りにある非常ドアに向かうのだ。


 非常階段を下りると一階の踊り場で名前を呼ばれた。


「よう、ハナ!」


 ずいぶんと遠くから、大声で。

 振り返ると――。


「また図書室?」


 白い手すり壁から顔だけをのぞかせて、西谷くんがにかりと笑っていた。

 思っていた以上の近さに、花はぎょっとして後ずさった。


「……い、いつからそこに!?」


「今。見つけてダッシュしてきた!」


 飼い主に駆け寄る犬みたいだ。

 にこにこと邪気のない西谷くんの笑顔に、花は苦笑いした。


「本当に本が好きなのな。俺、じっとしてんの苦手だから尊敬するわ」


「運動が苦手な私からすると体育以外でも運動しようっていう西谷くんのが尊敬するよ。……部活、だよね?」


 聞くと、体操服姿の西谷くんは勢いよく首を横に振った。


「今日は部活はなし。クラスの連中と裏庭でフットサルやるんだよ!」


 体育の授業だけじゃなく、部活だけじゃなく、遊びでまで運動。

 あっけらかんと笑っている西谷くんを見つめ、花は心の底から感心した。真似をしたいとは少しも思わないし、できないけれど。


 と、――。


 西谷くんは花の耳に顔を近付けて、ひそひそと話し始めた。


「なぁなぁ、なんで喋っちゃダメだったんだよ。……ほら、今日の朝。羽住に聞かれたとき」


 一瞬、何のことだろうと思ったけど西谷くんの補足でわかった。

 西谷くんにニシキアナゴのしおりを返してもらったあと、廊下で羽住くんと鉢合わせたときの話だ。


「だって、もらったものを三日かそこらで失くしそうになったって言ったら……ねぇ」


 眉間にしわを寄せる花を見つめて西谷くんは大きく頷いた。

 確かに、と言わんばかりの顔だ。


「じゃあ、このことはハナと俺の秘密だな」


 シーッと人差し指を立てる西谷くんに、花も人差し指を立てて笑った。


「代わりに西谷くんが九重さんのことを好きなことも、フリでも水族館デートしたかったことも秘密にしておくから」


「そ、それは絶対に秘密だからな!!」


 必死の表情で訴える西谷くんにくすくすと笑って、花はこくりと頷いた。

 それを見るなり西谷くんはほっと頬を緩めた。


「西谷ー! そろそろ始めるぞ!」


「ほーい、今、行く! またな、ハナ!」


 友達に呼ばれて大声で答えると、西谷くんは花の返事も聞かずに駆けて行ってしまった。

 あっという間に遠ざかる背中を花は呆然と見送った。

 明るくて元気で邪気がなくて、すごくいい人なんだけど何せ忙しない。


 苦笑いして、一階の非常ドアを開けると――図書室の前の廊下に羽住くんが立っていた。


 窓の外を見つめていたらしい羽住くんが、非常ドアの閉まる音に振り向いた。

 花の顔を見た瞬間、表情を固くした。


 どうしたのかと尋ねようとして、花は結局、口を噤んだ。

 そういうことを聞くのは〝あのバカ〟の役割。そう思ったのだ。


 なら、羽住くんの強張った表情には気付かないフリをして、いつもどおりに話しかけるべきだ。

 そう思ったのだけど――。


「……」


 花は思わず目をそらしてしまった。

 それに気が付いて羽住くんはますます表情を固くした。


「西谷くんといつの間に仲良くなったんですか」


「話、聞いてたの?」


「西谷くんの大きな声は窓越しでも聞こえますから」


 羽住くんが窓の方を指さした。

 振り返って見ると、非常階段の白い手すり壁が少し見えた。


「でも、西谷くんの大声以外は全く聞こえませんでした。真隅さんと西谷くんが話す内容って、全然、想像がつかないです」


 口調こそ笑みを含んでいるけれど、羽住くんの目は鋭い。


「昨日、図書室に来なかったのも西谷くんといっしょに職員室で採点していたからなんですってね。……聞こえたんですよ。西谷くんが友達に話しているのが」


 下手なことを言うと、あっという間に口をすべらせてしまいそうだ。


 例えば、ニシキアナゴのしおりを失くしかけたこととか。

 例えば、西谷くん本人から九重さんのことが好きだと聞いたこととか。


 花は羽住くんからそーっと目をそらすと――。


「……秘密、かな」


 なんとか一言だけ絞り出した。

 途端に羽住くんの目が鋭くなった。


 重苦しくて、息苦しくなるような沈黙。我慢の限界だ。

 もういっそ、しおりの件だけは白状してしまうおうか。


 そう思い始めた頃――。


「そうですか」


 ようやく羽住くんが声を発した。

 図書室へと入っていく羽住くんにほっと安堵の息をついて、花もあとを追いかける。


「来た来た! 真隅さん、羽住くん。戻ってくるまで貸出カウンター、任せていい?」


「はい」


「わかりました!」


 入れ替わりで図書館司書の小林さんがノートパソコンを抱えて出て行ってしまった。

 職員会議か、授業の資料についての打ち合わせがあるのだろう。


 図書館司書の小林さんの足音が遠退くのを待って、羽住くんが横目に花を見た。


「そういえば、あの魔法使いはどうなりましたか?」


 羽住くんは窓際の背の低い本棚へとゆったりとした歩調で向かっている。次に借りる本を物色するつもりなのだろう。

 花もそのままついていく。


 魔法使いが出てくる話――〝マリオネット冒険記〟のことなら、花も羽住くんに色々と話したいことがある。


「最近、魔法使いはあんまり出てこないんだよね。でも、主人公の恋に進展がなかったわけじゃないんだ」


「そうなんですか?」


 羽住くんが目を丸くした。心なしか、その目が輝いているように見えた。

 主人公は魔法使いに恋する心をあげてしまっている。主人公の恋に進展があったというのは意外だったのだろう。


「中盤で出てきた女盗賊のことを主人公が目で追ったり、じーっと見つめて不審がられたりするシーンがあるんだ。主人公に自覚はないし、まわりに指摘されても全然、理解できてないんだけどね」


 花が笑顔で話すのを聞いて、羽住くんはきょとんとした顔になった。

 かと思うと、そのうちに肩を落としてため息をついた。


「魔法使いの自業自得な呪いは健在、ということですね。残念」


 自嘲気味に笑う羽住くんに、花は苦笑いした。

 どうも羽住くんは魔法使いに対して手厳しい。


 魔法使いはどうなったのかと花に何度も聞くほど気にしているのに。

 主人公に魔法使い以外の好きな相手ができたと知って落ち込むほどお気に入りなのに。


「でも、研究の成果が出たかもしれないよ。恋愛物を読むための研究の!」


「研究の成果、ですか?」


「幼なじみが主人公に女盗賊のことが好きなんだろって言うよりも前に、私もそうなんじゃないかって思ったんだから!」


 魔法使いの件でがっかりしているようすの羽住くんを元気付けたくて、花は胸を張って言った。

 まぁ、魔法使いのことがなくても羽住くんに自慢しようとは思っていたのだけれど。 


「主人公が女盗賊を目で追うようすが水族館で九重さんを見てるときの西谷くんに似てるなって……これは研究の成果でしょ!」


 そのくらいで胸を張らないでください、とか。

 よかったですね……と、にっこり微笑まれて子供扱いされる、とか。


 そういう反応が返ってくるのだろうと思っていたのに――。


「また、西谷くん……ですか。……そう、ですね」


 羽住くんは上の空だ。

 背の低い本棚を離れ、真後ろにある背の高い本棚の前にしゃがみ込んだ。


 羽住くんの背中を花はじっと見つめた。

 いつもとは違う雰囲気にタイミングを逃してしまったけど、いい加減、羽住くんに聞かないといけない。

 できるだけ早く聞くと西谷くんとも約束したのだ。


 羽住くんと九重さんが協力関係だったんじゃないかということ。

 どこからどこまでが羽住くんと九重さんの計画だったのかということ。


 花や西谷くんを巻き込んで水族館デートに誘って、何がしたかったのか。

 何が目的だったのか。


「ねぇ、羽住くん。水族館に行ったときのことなんだけど……」


 ちゃんと羽住くんに聞こう。

 そう思ったのに――。


「真隅さんが水族館で言っていた人魚姫の絵本ってこれですよね。見ず知らずの子供に意地悪を言われたっていう絵本」


 羽住くんは花の言葉をさえぎって、背の高い本棚にあった大判の絵本を花に差し出した。


 多分、羽住くんに花の話をさえぎったつもりはない。

 いつもならさえぎったことに気が付いて、すぐにあやまってくれる。でも、今の羽住くんはいつもの羽住くんではないみたいだ。


 人魚姫の、絵本……――。


 ニシキアナゴとチンアナゴの水槽の前で、そう低い声でつぶやいたときと同じ。

 羽住くんは青ざめて、強張った顔をしていた。


 見ず知らずの子供に意地悪を言われた――と、言われるとちょっと違う。

 びっくりはしたけど意地悪だとは、あのときも今も思っていない。


 でも――。


 花が子供の頃に好きだったのも。

 市立図書館で同い年くらいの子に人魚姫は悲恋のお話なのだと教えられたときに見ていたのも、この絵本だ。


 水族館で花が羽住くんに話した人魚姫の絵本は間違いなく、この絵本だ。


「やっぱり、これだったんですね」


 花がうなずくのを見て、羽住くんはそっと絵本の表紙をなでた。


「人魚姫の絵本は何冊も出ていますし、他の物かと期待したんですが……残念、あっていましたか」


 羽住くんはそう言いながら、静かに目を伏せた。

 固い声と引っ掛かる言い方を不思議に思いながら、花は黙って羽住くんの横顔を見つめた。


「水族館で真隅さんが言っていた、現実的でマセてて性悪な子供は俺だったみたいです」 


 自嘲気味に笑う羽住くんをまじまじと見つめ、右に左にと首を傾げて――。


「あぁ、こう育ったか!」


 花はポンと手を叩いていた。


 性別すら覚えていなかったくらいだ。外見も声も、あの頃と変わったかどうかもわからない。

 でも、雰囲気や言葉の端々に面影が残っている気がする。


 くすくすと思わず笑い出した花に反して、羽住くんの表情は暗いままだ。


「自業自得なんで甘んじて受けますが……その反応、すごく傷付きます」


 羽住くんは片手で額を押さえてため息をついた。


「まさか、あのときのあの子が真隅さんだったなんて……」


「まさかはこっちだよ。あの子が羽住くんだったなんて。……びっくりした。よく覚えてたね」


 言われた本人にとってはショックなことでも、言った相手はなんとも思っていないことなんていくらでもある。

 今回にいたっては言われた本人の花ですら早々に忘れてしまっていたのだ。


「よく覚えてます。言った瞬間、あのときのあの子は……真隅さんはすごい顔になってましたから」


 一体、当時の自分はどんな顔をしていたのだろう。


 想像するとちょっと……かなり恥ずかしい。

 でも、強張った表情の羽住くんにいつもの調子で聞くのもためらわれた。


 花が困っているのを察したのか、羽住くんは口元に微笑みを浮かべた。

 その笑い方は少しぎこちなかった。


「きついことを言って妹や幼なじみを泣かせてしまうことはよくあったんです。でも、あのときの真隅さんは人形みたいに表情がすっと消えたんです」


 〝すごい顔〟とは、そういうことだったらしい。


「本気で、まずいことを言ってしまったんだと子どもながらに怖くなりました。あれから言葉には気を付けるようにしてたんですが……納得ですか」


「色々と意地の悪さがにじみ出てるからね」


 重い空気をどうにかしたくて軽口を叩いてみたけど、すぐに後悔した。


「すみません。あのときも、すみませんでした」


「ごめん、冗談だよ! そんなに本気で落ち込まないでよ!」


 羽住くんに深々と頭を下げられてしまった。

 あわててバタバタと手を振って、花は苦笑いで頬をかいた。


「全然、気にしてないから。あの子に……羽住くんに言われて初めて人魚姫が恋の、それも悲恋の話だって気が付いてびっくりしただけだから」


「……小さい頃の真隅さんは、人魚姫をどんな話だと思ってたんですか」


 頭を上げながらため息混じりに呟く羽住くんに、〝冒険物〟だと素直に言うのはためらわれた。盛大に呆れられそうだ。

 花はあいまいに笑って、羽住くんの手から絵本を取り上げた。


「大丈夫。そんなに心配しなくても、今でもこの人魚姫の絵本は大好きだから。だって、ほら。小林さんに頼んで、この絵本を図書室に入れてもらったのは私なんだもの!」

 

 ニシキアナゴとチンアナゴが描かれているページを開いて胸を張る。

 王子さまを助けたあと、人魚姫が海の底で踊るシーンだ。


 羽住くんは目を丸くして、すぐにくすりと笑った。


「ニシキアナゴとチンアナゴ、結構、小さく描かれていたんですね」


 ようやく見れたいつも通りの羽住くんの微笑みに、花も頬を緩ませた。


「この挿絵が好きで、ずーっと見てたんだ。小さい色とりどりの魚とか、人魚姫の長い髪もきれいだし」


「ニシキアナゴとチンアナゴも描いてありますしね」


 花は絵本を抱え直して、挿絵に目を落とした。


 そこに描かれている人魚姫の笑顔はキラキラと眩しい。

 この眩しい笑顔は海の外の、未知の世界への期待や好奇心から浮かんだものだと幼い頃の花は思っていた。


 でも――。


 幼い頃の羽住くんだったらしい〝あの子〟に、この物語は悲恋なんだと言われて。

 初めて、人魚姫の笑顔が王子さまに向けられたものなのだと気が付いた。


 花は挿絵を見つめたまま、苦笑いした。


「あの頃からずっと、人魚姫の王子さまへの気持ちはよくわからないままなんだけどね」


 あの頃も、今も――王子さまに恋をした人魚姫の気持ちはわからないまま。


 本当に恋愛物に疎いんですね、と笑ってくれると思ったのに。

 顔をあげると、羽住くんは呆然とした顔で花を見つめていた。


「本当に魔法使いだったんですね、俺は」


 花に言ったわけではないらしい。

 羽住くんは床の一点を見つめて、ぽつりとつぶやいた。


「羽住くん……?」


 花が声をかけると、羽住くんはハッと顔をあげた。

 かと思うと、すぐにぎこちない微笑みを浮かべた。


 それ以上の追求を拒むように、にこりと。


 その微笑みに花は思わず口を噤んだ。


「あの魔法使いの話、図書室にも置いてあるんでしたよね」


「〝マリオネット冒険記〟? そこの文庫本の棚の、一番下の段だよ」


「ありがとうございます。最大で何冊まで借りられるんでしたっけ」


「六冊だけど……」


 口早に尋ねる羽住くんにつられて、花も早口で答えた。

 羽住くんは本を手に取ると、さっさと貸出カウンターに向かってしまう。花も小走りにカウンターの中に入った。


 本を貸し出すときの手続きは二つある。


 一つは本の裏表紙に貼られた紙のポケットから貸出カードを取り出して、そこに借りる人の名前を書くこと。

 もう一つはクラスと氏名が書いてある図書カードに本のタイトルを書くこと。


 羽住くんはそれぞれの本から貸出カードを抜き出して、自分の名前を書いた。

 花は羽住くんの図書カードを見つけると、六冊分の本のタイトルを書いた。


「それじゃあ、お願いします」


 羽住くんは六枚の貸出カードを花に差し出して、本をカバンにしまうとドアへと歩き出した。


「も、もう帰るの? 今日は早いんだね!」


「真隅さんの話を聞いていたら、一気に読みたくなったんです。家で集中して読もうと思います。魔法使いがどうなるのか、最後が気になるので。……それじゃあ」


 そう言ってにこりと笑って、羽住くんはさっさと図書室を出て行ってしまった。


 いつもは一冊ずつ借りていくのに、今日は六冊まとめて借りていった。

 いつもは図書館司書の小林さんに追い出されるまで花とあれこれ本の話をしていくのに、今日はすぐに帰ってしまった。


 昨日は花が図書室に来れなかったし――今週は珍しいことばかりだ。


「なんだか落ち着かないなぁ」


 ピタリと閉まったドアを眺めて、花はぽつりと呟いた。


 足下に置いたカバンをごそごそと探って、読みかけの本を取り出す。

 魔法使いが出てくるお話――〝マリオネット冒険記〟は、あと三巻で読み終わる。

 羽住くんが読み始めたのなら、明後日くらいまでには読み終えて返却しておいた方がいいだろうか。


 花は本のページを開いてニシキアナゴのしおりを取り出そうとして――。


「……」


 結局、そのまま本を閉じてしまった。

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