さんびきめ。
じゅうよんわめ。
水族館の帰りに少しだけ降った雨は前触れだったらしい。
日曜は朝から土砂降りの雨だった。
おかげで、部屋でずっと本を読んでいても誰にも文句を言われることはなかった。
お昼を過ぎても雨は止んでいなかったけれど、ずいぶんと小振りになっていた。
学校の図書室で借りた〝マリオネット冒険記〟六冊は読み終わってしまった。
買い物に行くという母親の車に乗せてもらって、市立図書館で続きを借りてくると再び、本の世界に没頭した。
物語は明るい冒険物のまま進んでいく。
主人公と幼なじみは冒険の中で心も体もどんどん成長していく。共に旅をする仲間も増えた。
でも、魔法使いの恋だけは一向に進まない。主人公への想いが空回りしてトラブルの種になるばかりだ。
羽住くんが気にするから、花も魔法使いのことが気になってきてしまった。
魔法使いの恋はサイドストーリーだから、ほとんど触れられることはないのに。
次の巻では、次のページでは、少しは魔法使いの恋も進展しているかもしれない。
そんなことを思ってずるずると読み進めているうちに、花はうっかり夜更かしをしてしまった。
***
お弁当を食べながら、くわーっと大きなあくびをした。
月曜と言うだけでも億劫なのに、この眠気。
午前の授業中も、このみといっしょにお昼ご飯を食べている今も、布団が恋しくて仕方がない。
「本読んでて寝るのが遅くなったんでしょ、また」
「あがっ! ちょっと……やめてよ」
くわっと再び大きなあくびをした瞬間、このみに頬を突かれた。
指が食い込んでちょっと痛い。
眠気もあって思わず不機嫌な声で言うと――。
「いつも本ばっかり読んでて構ってくれないくせに、たまに私といるときにもあくびするなんて……しかも、その態度……どうしてくれようか」
このみにジトリとにらみつけられた。
これは分が悪い。
「本を読んでて寝るのが遅くなりました。大変もうしわけありません」
平身低頭してあやまると、このみは満足気にうなずいた。
「ま、花の場合はいつものことだけど。……今はどんな話を読んでるの?」
「〝マリオネット冒険記〟。ファンタジー……冒険物かな?」
花はトマトを頬張りながら、読み途中の本をこのみに差し出した。
このみはペラペラとめくって、しおりがはさまっているページで手を止めた。
「シマシマヘビグッズ、また買ったんだ」
しおりに描かれた黄色と白色のシマシマ模様のニシキアナゴを見て、このみは苦笑いを浮かべた。
自分で買ったわけじゃない。
水族館に行ったときに羽住くんからもらったしおりだ。
羽住くんと水族館に行ったことも、しおりをもらったことも、このみに秘密にする必要はない。
必要はないのだけど――。
「ニシキアナゴだってば。いくつあってもいいんだよ、可愛いんだから」
わざわざ言うことでもない気がして、そうとだけ答えた。
「それにしても、花も成長したねぇ。こんなに本が好きなのにしおりには全然、こだわりなかったじゃん。割れた古い定規を挟んでるって、女の子としてどうなのよって心配してたんだから」
水族館でニシキアナゴのしおりをもらったとき、羽住くんにも似たようなことを言われた。
古い定規をしおり代わりにしてるなんて、本好きとしてはいただけません――と。
しおりは本のあいだに挟んで目印にするための物だ。目印にさえなれば古い定規でもレシートでも何でもいいと、花自身は全く気にしてなかったのだけど。
急に恥ずかしくなって、ぽりぽりと頬をかいた。
と、――。
くわっと、また勝手にあくびが出てしまった。あわてて口を押さえて上目遣いにこのみの顔色をうかがう。
このみは唇を尖らせたかと思うと、すぐに苦笑いを浮かべた。
「食べ終わったらまた図書室に行くの? 次は体育だし、少し寝ておいた方がいいんじゃない?」
「うーん、そうだねぇ。……やっぱり行ってくる。ごちそうさま!」
カバンにお弁当箱をしまうと、花は読み終えた本を抱えて立ち上がった。花を見上げて、このみはけらけらと笑った。
「眠気よりも本か。本当に好きだね。着替える時間もあるから早めに帰って来るんだよ」
「は~い」
ひらひらと手を振るこのみに手を振り返して、花は小走りに教室を出た。
学校の図書室で借りた本の返却期限はまだ一週間以上ある。日曜に市立図書館で借りた本もあるから、読む本がないというわけでもない。
昼休みに急いで図書室に行く理由なんてない。
でも、今日は久々に図書館司書の小林さんが来ている。もしかしたら新しい本が入っているかもしれない。
それに羽住くんも図書室に来ているかもしれない。
昨夜、寝落ちする寸前に読んだページで主人公と魔法使いの恋に進展があった――気がするのだ。
新たに女盗賊が登場したのだけど、主人公の反応が他の女キャラや魔法使いへの反応と違う気がするのだ。
女盗賊のことを目で追いかけたり、不審がられるほどじっと見つめたり。
いっしょにいないときでも女盗賊のことを考えたり。
でも、主人公の恋心は魔法使いに奪われたままだ。主人公が自分自身の気持ちや変化に気付いているようすはない。
ただ、魔法使いが苦しそうに、悲しそうにしているだけ。
主人公は女盗賊のことが好きなんだと思う。
羽住くんと話して花の勘が当たっているか確かめたかった。もし当たっているなら木曜からの研究の成果が出たと胸を張れる。
花はにんまりと笑みを浮かべて階段を駆け降りた。
花のクラスがある三階から一つ下の階に降りて、廊下のつきあたりにある非常ドアへと向かうつもりだった。
外に作られた非常階段を下りて行くと図書室の入口まで近いのだ。
二階の廊下を歩きながら窓の外を見ると、どんよりとした灰色の空が広がっていた。
ふと、廊下の途中で足を止めた。
話し声が聞こえた気がしたのだ。
二階にある二部屋はどちらも空き教室になっている。
入ってはいけないことになっているけど、ドアにカギが掛かっているわけでもない。
天気の悪い日に男子たちが忍び込んでサッカーをしたり、女子たちが額を突き合わせて内緒話したりするのに使われている。
空き教室で誰々が誰々に告白していた――なんて話もこのみからしょっちゅう聞く。
内緒話にしろ、告白にしろ、盗み聞くのはよろしくない。
――ちょっと聞こえてしまっただけです。
そう言って、にっこりと微笑む羽住くんを思い出して、花はにんまりと笑った。
「私は羽住くんと違ってお行儀が良いからね」
早足で廊下を抜けて、非常ドアを開けようとして――。
「夜、メールくれてありがと! 助かったー!」
「うまくいったみたいで何より」
教室から聞こえてきた男女の声に、またもや足を止めてしまった。
女子の声は自信がないけど、男子の声はすぐに誰の声だかわかった。
図書室でほとんど毎日のように聞く声。
その声はまちがいなく羽住くんの声だった。
「ほんと折りたたみかさ、持って行っておいてよかった。前日に天気予報を確認しとくとかマメ過ぎんでしょ、さすが!」
「それくらいはやるだろ」
「またまたぁ! カフェのメニューだの展示の位置だのショーの時間だの、事細かに調べてたじゃん。細かくてうざいね!」
「
「だから、ごめんってば。もう散々、謝ったじゃん。水族館に入る直前にまで恨み言送ってくるとか、どんだけ執念深いのさ」
男子の声は羽住くんだろうと思っていたけど、話の内容で確信した。
相手は九重さんだ。
「悪かったな、性格の悪さは生まれつきだ。そのおかげで西谷と出掛けられたんだから、むしろ感謝しろよ」
花と話すときとは全然違う、乱暴でくだけた口調で羽住くんが言う。
〝あのバカ〟と呟いたときと同じ。
でも仲が悪い感じではない。むしろ、すごく仲が良いように感じた。
入学式の日に図書室で見た光景は、まるで人魚姫の絵本の一ページのようだった。
床に倒れている羽住くんと、羽住くんの顔を心配そうにのぞきこんでいる九重さん。
二人のようすは人魚姫に嵐の海から助け出されて浜辺で気を失っている王子さまと、彼を介抱する隣国のお姫さまそのものだった。
あの日から一年ちょっと。
羽住くんと九重さんはいつのまにか、ずいぶんと仲良くなっていたらしい。
花と図書室で話しているときも、水族館に誘ったときも、九重さんとこんな風に話す仲だなんて羽住くんはおくびにも出さなかったけれど。
「大体、あんな大切な日に寝坊するか? おかげでかなり計画が狂ったんだぞ」
「服が決められなくて、寝るの遅くなっちゃったんだからしかたないじゃん」
「それ、俺も付き合わされたんだけど。おかげで行きの電車で居眠りしちゃっただろうが。服ぐらい、ちゃっちゃか決めろよ」
「見た、見た! となりの車両見たら熟睡してるんだもん。びっくりしたよ。……そっちの服も選んであげたんだからいいでしょ。むしろ感謝しなさいよ!」
水族館に向かう途中、羽住くんが眠たそうにしていたのはそういう理由だったらしい。
小説を読んでいて夜更かししてしまったわけではなかったようだ。
けらけらと楽し気に笑う九重さんの声を聞きながら、花はため息をついた。
「そっか。あの服、九重さんが選んだんだ」
水族館に行った日、羽住くんが着ていた私服を思い出して。
金曜の夜に一人でおろおろしながら服を選んだ自分を思い出して。
花は苦い笑みを浮かべた。なんだか惨めな気持ちだ。
と、――。
「ところでさ、なんか暗くない?」
九重さんの言葉に花はハッとした。
羽住くんの返事は聞こえなかった。何も言わずに身振りで答えたのか、話すのをためらっているのか。
「何かあったでしょ。とりあえず話せ」
きっぱりとした九重さんの口調に花はうつむいた。
〝あのバカ〟はこんな風に聞くらしい。
きっとニシキアナゴとチンアナゴの水槽を見つめて青ざめる羽住くんにも、九重さんなら今みたいにさらっと声をかけたのだろう。
花は足音を立てないように非常ドアへと向かった。そーっとドアノブをまわして体重をかけて重いドアを開ける。
外階段の踊り場に出てほっとした瞬間――。
背後でドアが閉まる大きな音がして心臓が止まりそうになった。
うっかり二人に気付かれて、うっかり二人と鉢合わせてしまったら気まずい。
大慌てで一階まで降りた花はほっと息をついた。
ほっと息をついて、首を傾げた。
階段を大慌てで駆け下りたせいだろうか。
マラソンのあとみたいに心臓がすごく苦しかった。
***
図書室から教室に戻ると、このみが体操服入れを抱えて仁王立ちで待っていた。
そういえば、次の授業は体育だった。
「何、のんびりしてんの! 昼休み、終わるよ!」
このみはずかずかと大股で歩み寄ってくると、ガシリ! と花の襟首をつかんだ。
どうやらのんびりし過ぎたらしい。
「もう! 次は体育だから早く帰ってきなって言ったのに! 花、花! ちょっと聞いて!?」
女子更衣室に到着しても、着替えを始めても、ぼんやりとしていて返事もしない花に、このみはついにふくれっ面になった。
かと思うと――。
「花、よく聞いて。今日の朝練でゴリ男とゴリ美が話してるのを聞いちゃったの」
急に声をひそめ、真剣な表情になった。
ぼんやりとしながらも花はこのみに顔を向けて首を傾げた。
ゴリ男とゴリ美は男子担当の体育教師と女子担当の体育教師のあだ名だ。
二人ともゴリラ並みの筋肉の持ち主なのだ。
「今日のマラソン、ビリになると……なんかあるらしいよ」
囁くように告げられた言葉を噛み砕いて、飲み込んで――。
「なんかって……何!」
花は一気に青ざめた。
このみはと言えば、意地の悪い笑みを浮かべるばかりでそれ以上、何も言おうとしない。
〝なんか〟について知ってはいるけれど、花に教える気はないらしい。
チーム戦なら他のメンバーがなんとかしてくれるかもしれない。
でも、今日はマラソン。
個人競技。
どうにもならない。
このみも花の運動神経と体力のなさをわかったうえでからかっているのだ。
ぼんやりして生返事ばかりしていた花への罰だ。
「このみ、ひどい!」
「ひどくなーい。決めたのはゴリ男とゴリ美だもの。それにビリにならなきゃいいんだし」
がっくりと肩を落とす花の背中を、このみは大笑いでバシバシと叩いた。
でも、つられて笑う余裕も痛いと文句を言う余裕もない。
「ビリにならなきゃって……なるに決まってるでしょ、なめないでよ!」
花の力強く、自信に満ちあふれた返事に、このみは背中を叩く手を止めると――。
「そ、そっか。なんか、すまん……」
引きつった笑みを浮かべてあとずさったのだった。
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