じゅうさんわめ。

 水族館の外に出た花は目を丸くした。

 歩いている人たちがみんな、かさをさしていた。


 空を見上げるとどんよりとした灰色の雨雲が広がっていた。

 イルカショーを見ていたときはあんなに晴れていたのに――。


 さて、どうしようかと思っていると羽住くんがカバンをごそごそと探り出した。


「小さいですけど、どうぞ」


 羽住くんはそう言って、紺色の折りたたみかさを広げると手招きした。

 小雨だし、風が強いわけでもない。二人で入っても十分な大きさだ。


「ありがと。準備がいいね、羽住くん」


「天気予報で降るかもと言ってたので持ってきただけです。魔法使いでも予知能力でもないですからね?」


「だから、心を読まないでってば」


「だから、真隅さんが顔に出過ぎなんですよ」


 ジト目で見上げる花を見返して、羽住くんはにこりと微笑んだ。

 予知能力と心を読む能力を持っているなんて、やっぱり魔法使いな気がする。


 なんて、思いながら九重さんと西谷くんに目を向けると、九重さんが水玉模様の可愛らしい折りたたみかさを広げたところだった。


 九重さんも九重さんで準備がいい。

 花が感心しているうちに、九重さんと西谷くんは一つのかさに入って雨の中を歩き始めた。


 西谷くんが九重さんの手からかさの柄を取り上げた。

 照れたように鼻の頭をかく西谷くんをじっと見つめたあと、九重さんはあわてたようすでうつむいた。

 ちらりと見えた九重さんの顔は真っ赤になっていた。


「さ、真隅さん。行きましょう」


 羽住くんが広げたかさをもう一度、差し出してきた。

 紺色のかさを見上げ、羽住くんの微笑みを見上げ、花はかさの下に入った。


「……躊躇ちゅうちょないですね」 


「ん?」


 並んで歩き出すと、なぜか羽住くんは渋い顔になった。

 花が首をかしげるのを見て、羽住くんはますます渋い顔になった。口をつぐんだまま、前を歩く九重さんと西谷くんの背中を見つめている。

 疑問の答えは返ってこなさそうだ。


 花はかさの端からどんよりとした空を見上げた。


「やっぱり現実と小説は違うね。雨って小説だと、悲しいシーンや辛いシーンで降ることが多いでしょ」


 大切な人が死んだときや裏切られたと知って呆然としているとき。

 あるいは嘆き叫んでいるとき。

 登場人物たちは雨に打たれていることが多い。


 今、読んでいる小説――〝マリオネット冒険記〟もそうだ。


 一巻の最後で魔法使いから幼なじみの死を告げられたとき、外は土砂降りの雨だった。

 主人公が捕らえられている地下牢にまで雷の音が届くほどの激しい雷雨だった。


「確かに、そういうシーンは多いですね」


「でも、あれは悲しくも辛くもないでしょ」


 少し先を並んで歩く九重さんと西谷くんは、一つかさの下で楽しそうに話している。

 水族館の中にいたときよりも、二人の距離はまた少しだけ近付いているように見えた。


「恋愛小説で降る雨は、また違う役割があるんじゃないかと……俺はそう思ってます」


「違う役割?」


 それはかなり興味深い。

 目を輝かせて首をかしげる花に苦笑いして、羽住くんは前を歩く二人の後ろ姿は見つめた。


「強制的に二人を同じ空間に閉じ込めるための柔らかな檻、とか……」


 そう言う声も、二人の後ろ姿を見つめる目も優しい。

 花は羽住くんの横顔を見つめ、九重さんと西谷くんの後ろ姿を見つめた。


 小さな一つのかさに閉じ込められた九重さんと西谷くんの表情はうれしそうだ。


 なるほど、とうなずいたあと――。


「なら、このタイミングで雨が降ってくるのは、あの二人的にも、恋愛小説的にもばっちりってことか」


 一つ賢くなったと言わんばかりに目を輝かせ、花は羽住くんを見上げた。

 羽住くんは目を丸くして花を見返したかと思うと――。


「……」


 黙って、困り顔で微笑んだ。

 花と羽住くんの頭上で、紺色のかさが二人の歩みに合わせて小さく揺れた。


「どうしたんだろう?」


「さぁ、どうしたんでしょうね」


 横断歩道を渡れば水族館の最寄り駅――と、いうところまできて、九重さんと西谷くんが足を止めた。

 花と羽住くんもあわてて足を止める。


 何か言葉を交わしたあと、西谷くんがどこかを指さした。九重さんが満面の笑顔でうなずいて、二人はまた歩き出した。

 ただし――。


「……駅とは別方向ですね」


 横断歩道を渡らず左に曲がった。さっき西谷くんが指さした方向だ。

 羽住くんは二人を視界の端に入れながら、スマホを取り出してちらっと画面を確認した。


 〝あのバカ〟との話にはなかった、予定外の行動なのかもしれない。

 眉間にしわを寄せる羽住くんを見上げて、花は思った。


「どうしましょう。どこに行くのかも、どこまで行くつもりなのかもわからないですし、雨も降っています。九重さんと西谷くんを尾行するのはここまでにして、帰りましょうか」


 羽住くんは短く息を吐いて尋ねた。体力のない花を気遣っているのだろう。

 花は少し考えて、にやりと笑った。


「もしかしたら告白かもよ。恋愛物を読むための研究としてここまで来たんだもの。もしそうなら見逃すわけにはいかないでしょ」


 羽住くんは花の笑みに目を丸くしたあと、目を細めてうなずいた。

 意地の悪い笑みが浮かんでいる。


「それもそうですね。あまり歩くようだったら適当なところで引き返せばいいですし」


 行きましょう、と言って歩き出してすぐに羽住くんに腕を引かれた。

 花はよろめいて羽住くんの胸に倒れ込んだ。


「急にすみません。人とぶつかりそうだったので」


 何かを見送ったあと、羽住くんは心配そうな表情で花の顔をのぞきこんだ。

 見ると信号が青に変わった横断歩道は人でごった返していた。歩き出した人たちにぶつかりそうになっていたのをかばってくれたらしい。


「ありがと」


 いいえ、と首を横に振って、羽住くんは目を細めて微笑んだ。


 むずむずしてくる目。

 でも、同時に胸が温かくなって、いつまででも見ていたいと思う目だ。


「そのまま……それくらいの距離でいてください。ぬれてしまいますから」


 羽住くんに言われて〝それくらいの距離〟を確認して、花は黙ってそーっと一歩下がった。

 そんな花を見て、羽住くんは眉を八の字に下げた。優しい微笑みが、困っているようにも寂しげにも見える微笑みに変わった。


「……通り雨だったみたいですね」


 そう言って羽住くんはかさを傾けて、花から目をそらした。

 空は灰色の雲が流れて青空が見え始めていた。


「さ、行きましょうか」


 かさを閉じる羽住くんの横顔を見ながら、花は自身の胸に手を当てて首をかしげた。


 雨が止んでがっかりしている自分がいる、気がした。


 ***


 家の最寄り駅の改札を出ると空は暗くなり始めていた。

 灰色の雲はまだ空に残っている。明日も快晴とはいかなそうだ。


 九重さんと西谷くんは線路沿いの歩道を並んで歩いていた。


「まさか部活の必勝祈願とは」


 二人の背中を陸橋の上のフェンス越しに見下ろしながら、花はぽつりと呟いた。


「そういえば、そろそろ夏の大会の予選が始まるんでしたね」


 羽住くんが苦笑いで言った。


 水族館を出たあと、九重さんと西谷くんが寄ったのは神社だった。

 帰りの電車で調べたらスポーツの必勝祈願で有名な神社らしい。二人は手を合わせ終えると、あっさりと駅に引き返した。


 西谷くんが真剣な表情で、ずいぶんと長いあいだ手をあわせていたけれど――それだけ。

 告白なんて、その気配すらなかった。


「大会って参加することに意義があるんじゃないの?」


「それは運動音痴のいいわけですから。本気でやっている人たちはやっぱり勝ちたいんでしょう」


 角を曲がって、九重さんと西谷くんの姿が見えなくなった。

 さて……と、フェンスから離れて羽住くんは歩き始めた。


「遅いですし送っていきますよ」


「方向、逆でしょ。それに自転車で来てるから大丈夫」


 花が陸橋下の駐輪場を指さすと羽住くんが目を丸くした。


「自転車、乗れるんですか」


「失礼な」


 乗れるようになったのは小二とちょっと遅めだけど。

 そこは黙っておくことにした。


「さーて、帰ったら小説読みまくるぞー!」


 階段を下りながら、花は思い切り伸びをした。


「性悪な魔法使いが出てくる話ですか。魔法使いがどうなったか気になるので、今度、続きを聞かせてください」


 主人公は魔法使いじゃないし、性悪でもないのだけど。

 羽住くんの中ではすっかり魔法使いが話のメインで、性悪という設定になってしまっているようだ。


「続きが気になるなら羽住くんも読んだら?」


「魔法使いがどうなるか次第です」


 性悪なんて言っているくせに、ずいぶんと魔法使いのことを気にかけているようだ。

 階段を下りきって、花と羽住くんはそろって足を止めた。


「それじゃあ、また月曜に図書室で」


「うん、またね!」


 羽住くんは右手――九重さんと西谷くんが歩いて行ったのと同じ方向に。

 花は左手にある駐輪場に向かう。


 ここで解散だ。


 微笑んで手を振り、歩き出す羽住くんに手を振り返そうとして――花は手を止めた。


 花に背中を向ける瞬間――。

 ちらっと見えた羽住くんはうつむいて、何かを考え込んでいるようだった。


 人魚姫の、絵本……――。


 ニシキアナゴとチンアナゴの水槽の前で、そう低い声でつぶやいたときと同じ。

 羽住くんの顔は青ざめて、強張っていた。

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