じゅういちわめ。
スロープを
「それじゃあ、先に行って二人を見つけておいてね!」
ニシキアナゴとチンアナゴの水槽の前でずいぶんと長居してしまった。
一応、九重さんと西谷くんを観察するのが目的で水族館までやってきたのだ。
それなのに、すっかり見失ってしまった。
多分、スロープを下った先にあるお盆型の水槽の近くに、まだいると思うのだけど……。
「わかりました、探しておきます。でも、この水槽の近くには必ずいますから」
「二人を探さなきゃいけないのに、このあたりにいるって決めてたら意味ないでしょ」
「わかってます」
と、口では言っているけど、花が戻ってくるまでお盆型の水槽のそばを離れるつもりはないようだ。
にっこりと微笑む羽住くんからかたくなな意思を感じて、花はあきれ顔でため息をついた。
意図が通じたことを察したらしい。
羽住くんは満足げに微笑むとお盆型の水槽へと歩き出した。
人混みの中、ゆっくりと歩いて行く羽住くんの背中を見送ったあと。
花はぽりぽりと頬をかきながらトイレの列の最後尾に並んだ。
長蛇の列になっているけど、気まずさを解消する時間を稼ぐにはちょうどいいかもしれない。
人魚姫の、絵本……――。
そう低い声でつぶやいたかと思うと、みるみるうちに青ざめた羽住くんの横顔を思い出す。
ああいうとき、どうするのが正解なのだろう。
いつも大人びた微笑みを浮かべて、落ち着いた雰囲気の羽住くんがあんな表情をするなんて珍しい。
羽住くんのあんな表情、花は初めて見た。
理由も思い付かないけど、どうしたらいいのかも思い付かなかった。
と、――。
ポシェットに入れていたスマホがバイブした。
なんだろうと思って見てみると、羽住くんから大量の写真が送られてきていた。
ニシキアナゴとチンアナゴの写真。さっき撮ったものだ。
「はぁ、癒される……!」
次々と送られてくる写真に花はうっとりとため息をついた。
――最後です。ツーショット。
と、いう短いメッセージとともに送られてきたのは、水槽をのぞき込む花とチンアナゴのツーショット写真だった。
自分で言うのもなんだけど、なかなかに気味の悪い、にやけきった笑みを浮かべている。
「だから、なんでツーショットにしたのさ……」
小声でぼやきながら、その写真もひとまず保存した。
残念なことにチンアナゴがカメラ目線で写っているのだ。削除することなんてできない。
精神安定剤としては効果てきめんだった。
緩み切った頬を手でこねくりまわしているとトイレの列が動いた。前の人に続いて角を曲がろうとして――。
「いて……っ」
誰かとぶつかってよろめいた。
「す、すみません!」
「あ、いえ。こちらこそ……」
あわてふためいた様子であやまる相手に、花はうつむいたまま頭を下げた。
でも――。
「って、図書室のちびっ子……!」
相手の言葉に驚いて、いきおいよく顔を上げてしまった。
声の主は西谷くん――花と羽住くんが尾行している二人のうちの一人だった。
尾行相手と鉢合わせて、花はもちろんパニックで凍り付いた。
でも、なぜか西谷くんの方も驚いている。
目を丸くしていたかと思うと、花と目が合った瞬間、しまったと言わんばかりに口を押さえた。
完全にあとの祭りだけど。
図書室のちびっ子と認識されてるのか……と、思いはしたけど声には出せなかった。
西谷くんとは話したこともないし、ほとんど面識もない。羽住くんに対してみたいに気安くツッコミを入れることはできないのだ。
〝図書室のちびっ子〟程度でも西谷くんに認識されていたことに花自身、ちょっと驚いているくらいだ。
それに、そもそも花は九重さんと西谷くんを尾行していたのだ。もし、バレたら怒られるかもしれない。
花は西谷くんをじっと見つめて、野良猫のように低い姿勢で身構えた。
その西谷くんはと言えば――。
「あ、ど、どうしよ……こ、これは……どうしよう……!」
おろおろ、わたわたとすっかりパニックになっている。
いっそ気の毒になるほどに。
「こ、ここでのことは……え~えっと、その、内緒で……!」
「こ、ここでのことって……?」
「ほ、ほら……九重と……!」
「……デートしてること、ですか?」
「で、でででデート!?」
西谷くんの素っ頓狂な声にトイレの列に並んでいた人たちがくすくすと笑い出した。
でも、まわりの人たちに笑われていることにも、妙に優しい目で見守られていることにも西谷くんは全く気が付かない。
「で、デートじゃない! ……けど、九重のことも、ここで俺と会ったことも……だ、誰にも言うなよ!」
パニックを起こしている人を見ると、一周まわって冷静になるというのは本当らしい。
腕をジタバタさせている西谷くんを見上げて、花は苦笑いになった。
「そんなに内緒にしておきたいなら、教室で友達に話したりもしない方がいいと思うよ」
教室で友達に話すなんて、誰が聞いているかわかったものじゃない。
と、いうか羽住くんが聞いている。
――ちょっと聞こえてしまっただけです。
そう言って、にっこりと微笑む羽住くんを思い出して、花はジト目になった。
九重さんと西谷くんが水族館に行くという情報は、羽住くんが盗み聞きして得た情報だ。そう羽住くんからは聞いている。
よくよく考えると、いろいろと入手経路に問題のある情報だ。
なんで友達に話したことを知ってるんだ、なんて西谷くんに聞かれたら誤魔化しきれる気がしない。
もし問い詰められたら羽住くんを売り飛ばそうと心に決めて、花は西谷くんににっこりと全力の笑みを向けた。
だけど――。
「教室で? 友達に? こ、九重と水族館に行くことを!? 言うわけないだろ! そんなことあいつらに言ったら、からかわれるし、尾行されるし、邪魔されるし……言うわけない!」
西谷くんは手をばたばた、首をぶんぶんと横に振って全力で否定した。
「とにかく、誰にも話すなよ! 羽住にも内緒だからな!」
花が羽住くんといっしょだということは知っているらしい。
花たちが西谷くんたちを尾行していることには気付いているのかどうか……。
そんなことを考えながら、花はコクコクとうなずいた。
尾行していたという負い目もあるし、西谷くんのあわてっぷりを見ていると素直にうなずくしかない。
「わかった、誰にも言わない。羽住くんにも内緒にする」
花がそう答えた瞬間――。
「や、約束だからな! うっしゃ、よかったぁ~!」
西谷くんはガシッ! と、拳をにぎりしめたかと思うと無邪気な笑顔を浮かべた。
「じゃあな、ちびっ子! また、学校で!」
トイレの列が動くのを見て、西谷くんは大きく手を振って去っていった。
西谷くんの大きな声と大きな身振りに、まわりの人たちから再び、くすくすと笑い声があがった。
まわりの反応には気が付かないまま。
あっという間に駆けて行ってしまった西谷くんの背中を苦笑いで見送って――。
花は首を傾げた。
九重さんと水族館に行くことを友達に話したりはしていないと、西谷くんはそう言っていた。
うそではないだろう。上手にうそをつけるようなタイプには見えない。
なら、羽住くんは誰から今日の水族館デートのことを〝ちょっと聞いた〟のだろうか。
「〝あのバカ〟……だろうなぁ」
上手にうそをつけそうな羽住くんのうさんくさい笑顔を思い浮かべて、花は腕組みをした。
駅の改札で乱暴な口調で、でも親しみのこもった声でつぶやいていた言葉を思い出す。
同時に、入学式の日に図書室で見た光景も浮かんだ。
あれから一年ちょっと。
入学式の日のできごとをきっかけに、羽住くんと九重さんがなにかしらの交流を持っていてもおかしくはない。
心がざわりとして、花はそっと胸を押さえて首をかしげた。
〝あのバカ〟なら〝人魚姫の、絵本……〟と、つぶやいて青ざめる羽住くんになんと声をかけたのだろう。
トイレから出てお盆型の水槽に向かうと、羽住くんは水槽の右奥にひっそりと置かれた等身大の皇帝ペンギン型募金箱の前にいた。
そこだけぽっかりと人がいないから、すぐに羽住くんを見つけることができた。
背中を向けていたのに、花が見つけたのと同時に羽住くんも振り返った。
「背中に目がついてる……いや、やっぱり人の心を読める……?」
ひらひらと手を振って微笑む羽住くんを見つめて、ぼそりとつぶやいたあと。
花は小走りに羽住くんの元へと駆け寄った。
「おかえりなさい、真隅さん」
そう言いながら羽住くんは歩き出す。花も並んで歩き出した。
「お待たせ。今さ……!」
西谷くんにばったり会っちゃって焦ったんだよ、と言いそうになって、花はあわてて口を手で押さえた。
早速、西谷くんとの約束を破ってしまうところだった。
「……どうしたんですか?」
「なんでもない。……なんでもない!」
いきおいよく首を横に振る花を羽住くんはじーっと見つめた。
完全にあやしまれている。
でも、誰にも、羽住くんにも言わないと西谷くんと約束したのだ。早速、破るわけにはいかない。
例え、あやしまれても、無言の圧力に屈しそうになっても、西谷くんのことは黙っているつもりだ。
物理的に口をふさいで何とかこらえていると――。
「……そうですか」
羽住くんがそう言って、にっこりと微笑んだ。
なんだか、また心を読まれていそうだ。それこそ〝マリオネット冒険記〟に出てくる魔法使いみたいに――。
「……二人は?」
「見つけましたよ。あそこのカフェにさっきまでいたんですが、屋上に行ってしまいました」
花が首をすくめながら話をそらすと、羽住くんはあっさりと答えた。
羽住くんが指さしたのはお盆型の水槽が眺められる位置にあるカフェだった。
「ちらっと聞こえたんですが、ペリカンのえさやりに行って、そのままイルカショーを見るようですよ」
「ちらっとねぇ……」
羽住くんが手に持っているスマホを花はジトリと見つめた。
「さ、俺たちも屋上に向かいましょうか。そろそろイルカショーが始まる時間ですよ」
花の白い目なんて気にしたようすもなく、羽住くんはいつも通りのうさんくさそうな微笑みを浮かべて歩き出したのだった。
イルカショーを見るために屋上に上がると、午前中にアシカショーを見たときよりもさらに日差しが強くなっていた。
屋上に出た瞬間、花は眩しさと暑さにため息をついた。基本、土日は引きこもっている人間にこの日差しはきつい。
顔をしかめていると、すっ……と影が差した。
見上げると羽住くんがパンフレットを広げてかさを作ってくれていた。
ありがとうとお礼を言おうとして、やっぱり女慣れしてないか? と、心の中でつぶやく。
「何度も言ってますけど、妹がいるからですよ?」
花がジトリと疑惑の目を向けると、羽住くんは苦笑いでそう言った。
やっぱり心を読まれている気がする。
イルカショーが終わると西谷くんと九重さんはお盆型の水槽がある階に戻った。
もちろん、花と羽住くんも二人のあとを追いかけた。
お盆型の水槽の、さらに奥のエリアには下の階まで使った巨大水槽があった。
大きなエイやサメ、マンタが悠々と泳ぎ回っている。
上の階から見下ろして、下の階からは見上げることができる作りになっていた。
下の階へと続く長く緩やかなスロープを下っているあいだも、さまざまな魚や海獣たちがいた。
寒い地域に住んでいるペンギンやオットセイ、アザラシ。それから、マンボウ。
スイスイと泳ぎ回るアザラシたちに比べて、のんびりと泳ぐマンボウは撮りやすい。
「サービス精神旺盛だよね」
「ポジティブな
「サービス精神だよ、こののんびりした泳ぎは。間違いない」
ブレたり見切れたりしているアザラシの写真と、まったくブレていないマンボウの写真を見比べて、花は真顔で言った。
「よく撮れてますね、マンボウは」
花が持つスマホを肩越しにのぞきこんで、羽住くんもくすりと笑った。
「にしても……」
花は顔をあげると、少し離れたところにあるアシカの水槽を眺めた。
正確には、アシカの動きにあわせて走り回っている西谷くんと九重さんを、だ。
「元気だよね」
「見てるだけで疲れてきますね」
ブレるのなら同じ速さで動いて撮影すればいいじゃない、という発想らしい。
「俺たちには出てこない発想ですよね」
「出てきてもやるだけの体力がないしね」
壁と水槽との段差に腰掛けて、ゆったりと泳ぐマンボウを見上げていたら眠たくなってきた。
水槽に頭を預けると、くすりと穏やかな笑い声が聞こえてきた。
でも、それだけ――。
ぽつりぽつりと続いていた会話も途切れた。
薄く目を開けたまま、心地よくまどろむ。
町内運動会に参加したくなくて羽住くんの誘いに乗ったのは本当だ。
でも、相手が羽住くんでなければ断っていただろう。
西谷くんとだったら、途中で挫折していたかもしれない。
マンボウを。ゆらゆらと揺れる海草を。きらきらと輝く水面を。
そして、それらを眺めている羽住くんの横顔をぼんやりと眺めながら、花はそう思った。
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