じゅうわめ。

 次の部屋は内装や照明によって海の底を思わせるマリンブルーに染まっていた。


 緩やかな弧を描いて下るスロープの先には、お盆型の大きな水槽が設置されていた。

 水槽は二層構造になっていて、手前には小さな色とりどりの魚たちが。

 中央の水槽には小ぶりのサメやエイが白い砂の上を悠々と泳ぎ回っていた。


 九重さんと西谷くんはスロープを下りて、お盆型の水槽のまわりを歩いていた。

 花は二人を横目に、スロープを下りずに脇の小さなスペースへと早足で向かった。


 お盆型の水槽の方が目を引くのだろう。

 目的の水槽のまわりには小さな子供連れの家族が一組いるだけだった。


「……」


 花は目的の水槽に駆け寄ると、無言でガラスにへばりついた。

 後ろでくすりと笑う羽住くんの声が聞こえたけど、笑うなと文句を返す余裕もない。


 真っ白な砂粒が敷き詰められた水槽を、眩しいくらいの白いライトが照らしていた。


 体の下部分を砂の中に隠して、見えている上部分はピンと伸ばしている。

 丸い目であたりをキョロキョロ見まわしながら、ゆらゆらと細い体を揺らしている。


「ニシキアナゴさん、ずっと好きでした……!」


「ずいぶんと心のこもった告白ですね。落ち着いてください。まわりの目があります」


「短くて透明な背びれがひらひらしてるところとか……大好きです!」


「真隅さん、床に膝をつくのはやめましょうか。小さな子供じゃないんですから」


 床に膝をついて水槽をのぞきこみ始めた花の後頭部を、羽住くんがこつりと小突いた。


 水槽の底から水草のように生えている魚たちだ。

 水槽全体を見渡すには――ニシキアナゴとチンアナゴを群れとして眺めるなら立って見た方がいい。

 でも、一匹を真横から見るならしゃがんだ方が見やすいのだ。


「そこのイスに座りましょう。よそ見してると転びますよ」


「わかってる」


「わかってるなら水槽から目を離してください。進行方向に顔を向けてください。……全然、聞いてませんね」


 肩を震わせて笑う羽住くんに手を引かれ、花は片時も水槽から目を離さないままイスに腰掛けた。

 T字の簡易のイスだ。


 花は座ると同時に水槽と台の段差に腕を乗せ、さらにその上にあごを乗せた体勢で固まった。

 水槽に鼻先がつきそうなほどの近さだ。


「そんなに近くで見ると目が悪くなりますよ」


 母親みたいな羽住くんの小言に、テレビじゃないんだから! と、花はツッコミを入れた。

 心の中で、だ。


「写真、撮らないんですか?」


 笑みを含んだ羽住くんの声に、撮りたいけど撮れないんだよ! 絶対、わかってて聞いてるでしょ! と、花はツッコミを入れた。

 これまた心の中で、だ。


 とんでもない近さでじーっと見つめる花を警戒しているのだろう。

 一番近くにいるチンアナゴはぽかんと口を開けて、花をじーっと見つめている。


 小心者で繊細な性格の魚だ。

 あんまり見続けているとストレスになるかもしれない。嫌われてしまうかもしれない。

 そう思いながらもじーっと見つめ返すようすがかわいくて目を離せない。


 スマホを取り出しているうちに隠れてしまうかもしれない。

 写真を撮っている余裕も、あれこれと話し掛けてくる羽住くんに返事をする余裕もない。


 だというのに――。


「はいはい。スマホを取り出してるうちに隠れてしまうかもしれませんもんね。好きなだけ見ていてください。俺が撮ったやつをあとで送りますから」


「いや、だから……心を読むの、やめてってば」


 実は声に出ていたんじゃないかと思うほど。

 当然のように花の心を読んでスマホを構える羽住くんに、花は思わず振り返ってツッコミを入れた。


 ……入れてしまった。


 羽住くんがあ……と、小さな声をあげた。

 水槽に視線を戻すとさっきまで見つめ合っていたチンアナゴがすっかり砂の中に隠れてしまっていた。


「残念、隠れちゃいましたね」


「……隠れちゃいました」


「一応、写真は撮れましたよ。チンアナゴと真隅さんのツーショット」


「なんでツーショットにしたの。チンアナゴだけでよかったのに」


 がっくりと肩を落とした花だったけど、すぐに顔をあげた。

 ちょっと残念だけど、ちょうどよかったかもしれない。


 黒斑点のチンアナゴだけじゃなく、シマシマ模様のニシキアナゴも見たい。

 花は立ち上がると水槽を挟んで反対側のイスに小走りに向かった。

 羽住くんもゆっくりとした歩調でついてきた。


 場所を変えて、また動かなくなってしまった花に羽住くんは苦笑いした。


「いくらでも見てられそうですね」


「今の私には西谷くんの気持ちがよくわかる。見てられる。好きな相手のことならいくらでも、ずーっと見てられる!」


「たぶん少しもわかってないと思いますよ」


 ニシキアナゴを見つめて鼻息荒く答える花に、羽住くんは苦笑いで首を横に振った。


「九重さんと西谷くんは? もう行っちゃった?」


 花はスマホをニシキアナゴたちに向けながら尋ねた。


 九重さんと西谷くんを観察するという目的は覚えている。

 忘れかけていたけど一応、覚えている。


 でも、羽住くんは水槽と台の段差にひじをつき、足を組んで、すっかりリラックスしている。


「いいですよ、好きなだけ見ていて」


 急いで追いかけようという気はなさそうだ。


「だめでしょ。あの二人を見失ったら元も子もないでしょ」


 てっきり笑って、そうですね……と、答えるかと思ったのに――。


「そんなことないですよ」


 羽住くんは見慣れた微笑みよりもずっと柔らかな微笑みを浮かべて、また水槽に目を向けた。

 何が嬉しいのか、楽しいのか。

 すごく幸せそうな表情をしている。


 花が知らない羽住くんの表情だ。

 だけど、どこかで見たことがある表情だった。


 それも、つい最近――。


 羽住くんの横顔を見ていると、胸のあたりがむずむずしてくる。

 でも、同時に胸が温かくなって、いつまででも見ていたい気持ちになった。


 花はそっと胸を押さえて水槽に目を向けた。


 白い砂の下に隠れてしまっていたチンアナゴがそろそろと出てきた。

 あたりをきょろきょろと見まわしたあと、仲間たちと同じ方向を向いて口を開けた。


 花はチンアナゴにスマホを向けて撮影ボタンを押した。


「本当に好きなんですね」


 撮った写真を確認しようとして、花は羽住くんの言葉に首を傾げた。


「この魚ですよ」


 あぁ……と、つぶやいて微笑む。


「小さい頃、好きだった絵本の挿絵に描いてあったんだ。すみっこにちょろっと描いてあるだけだったんだけど、すごく可愛くて……」


「へぇ、絵本ですか」


「そう、絵本。人魚姫の、絵本」


 水の流れにゆらゆらと体を揺らすニシキアナゴとチンアナゴたちを見つめて、花は絵本の記憶をたどった。


 色とりどりの小さな魚。

 海藻が揺れて、白い砂粒からニシキアナゴとチンアナゴが顔を出していた。

 かわいらしい魚たちが見つめる先では、美しい金の髪をなびかせた人魚姫が楽し気に踊っていた。


「市立図書館にあったんだけど、今もあるのかな。うちの図書室にも置いてあるんだよ」


 花が図書館司書の小林さんにお願いして入れてもらった。


 家にも人魚姫の絵本はあったけど、花が好きな挿絵のものではなかったのだ。

 母親にねだって何度、市立図書館まで連れて行ってもらったことか。

 時間も忘れてずーっと眺めていた。


「ちょっと意外です。真隅さんも恋愛物を好んで読んでいた時期があったんですね」


「絵が好きだったんだ」


 それに人魚姫の物語を恋愛物と思っていなかったというのもある。


 ピーターパンやシンドバッドの冒険といった冒険物を読んだときと同じ。

 ワクワクとした高揚感こうようかんを思い出して、花は目を細めた。


「王子さまを助けたあと、人魚姫が海の底を泳ぐシーンが大好きだったんだ」


 そのシーンの挿絵にニシキアナゴとチンアナゴも描かれていた。


 初めて海の外を見て、王子さまに出会って、未知の感情を知って。

 浮足立つ人魚姫が緩やかにうねる髪をドレスのスカートのように広げて踊るように泳ぎ回るのだ。


「かなり意外です。人魚姫と王子さまの恋にうっとりしていた女の子が、どうしてこんなに恋愛ごとにうとくなっちゃったんでしょうね」


 羽住くんのからかい口調に花は唇をとがらせた。


 そこまで言われるほど疎いだろうか……とも、思う。

 いや、このみや羽住くんの反応を見ていると相当に疎いんだろうけど。


 それに、どうして恋愛ごとに疎くなったのかなんて理由もわからない。

 でも――。


「あれだけ大好きだった人魚姫の物語を読まなくなった理由ははっきりと覚えてるかな」


 花はぽつりとつぶやいて、水槽の台にほおづえをついた。


「いつものように絵本を読んでたら、どっかの子に言われたんだよね。でも、王子さまは人魚姫とは別の人を好きになって結婚してしまうんでしょ、って……」


 幼い花にとって、その子の言葉は横っ面を引っ叩かれたような衝撃だった。


 花にとって人魚姫は未知の世界に果敢に飛び込んでいく冒険者だった。

 人魚姫という物語は冒険物だった。


 でも、その子の言葉で気が付いた。

 人魚姫の物語は恋物語。それも悲しい恋物語だ。


 幼い花は途端に人魚姫のことがわからなくなってしまった。


 未知の世界に果敢に飛び込んでいく冒険者の人魚姫には、憧れに似たキラキラした気持ちを抱いたのに。

 愛する王子さまと結ばれることなく泡になって消えてしまった人魚姫には、どんな感情を抱いたらいいのかわからなくなってしまった。


 人魚姫のことが、わからなくなってしまった――。


 それから長い間、人魚姫の絵本を開くことはなかった。

 久々に開いてみたいと思ったのは、中学の入学式の日のことだ。


 図書室で、床に倒れている羽住くんと、羽住くんの顔を心配そうにのぞきこんでいる九重さんを見たとき。

 まるで人魚姫に嵐の海から助け出されて浜辺で気を失っている王子さまと、彼を介抱する隣国のお姫さまのようだと思ったとき。


 久々に人魚姫の絵本を開いてみたいと思ったのだ。


 ***


「あの子……多分、幼稚園児だよ。現実的って言うか、マセてるって言うか。どんな子に育ってるんだろう、あの子」


 花と同い年くらいの子だったとは思う。男の子か女の子かも覚えていないけれど。

 でも、あのときの言葉ははっきりと覚えている。


 花はくすくすと笑いながら水槽を指でなぞった。

 指の動きを追い掛けるようにチンアナゴが顔を動かす。


 ずいぶんとのんびりしてしまった。

 好きなだけ見ていていいとは言われたけれど、水族館に来た目的は九重さんと西谷くんの尾行だ。

 やっぱり、ここに長居し続けるというのは気が引ける。


「そういえば……九重さんたちって、まだ下にいる?」


 尋ねてみたけど、いつまで待っても羽住くんからの返事がない。

 いつもなら言葉じゃなくても笑い声や、それこそ気配で反応があるのに。


 どうしたんだろうと顔をあげると、羽住くんは無表情で正面を見つめていた。

 水槽の底にいる魚ではなく、なにもない宙をぼんやりと見つめていた。


「羽住くん……?」


 もう一度、声を掛けたけれど反応はない。


 何かを考えているのか。

 体はぴくりとも動かないのに、目だけは忙しなく揺れている。


「人魚姫の、絵本……」


 低い声でつぶやいたかと思うと、羽住くんはみるみるうちに青ざめた。


 肩を揺らして、どうしたのかと聞いた方がいいのか。

 黙って気付かないふりをした方がいいのか。


 口元を押さえてうつむく羽住くんの目は、怒っているかのようにつり上がっていく。


 どうしたらいいかわからなくて――。


「……真隅さん?」


 花はガタッ! と、大きな音を立てていきおいよく立ち上がった。


 大きな音に目を丸くしている羽住くんに、花はほっとした。

 怒ったような表情も、強張った顔つきもどこかにいったようだ。


「どうかしましたか?」


 どうもしない。

 ただ羽住くんの強張った表情と重たい空気に耐えられなくなっただけだ。


 でも、正直にそれを告げるのも気が引けて――。


「そろそろ行こうよ! 私、お手洗いにも行きたいし!」


 目についたトイレのマークをビシリ! と、指さした。

 指さしたあとで、花は内心でげんなりした。


 いくらとっさのこととはいえ、もう少し、女の子らしくて可愛らしい言い訳はなかったのだろうか。


 羽住くんは目を丸くした。

 そして――。


「……わかりました。行きましょうか」


 すべてを見透かしたような優しい、でも困ったような微笑みを浮かべたのだった。

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