さんわめ。

 昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴った。


 今日は金曜日。今日の放課後も図書室は開かない。

 急いでお弁当を食べ終えて急いで図書室に行かないと、土日に読む本を選んで借りるだけの時間がなくなってしまう。


 花は机の上にお弁当箱を広げると、せっせと食べ始めた。


「花、もう食べ始めてるの? 友達が来るのを待てんのかね」


 このみがコンビニ袋を片手にやってきた。

 同じクラスの、小学校時代からの友達だ。


 花の前の席に座ると、このみはカレーパンを取り出してほおばった。花をじーっと見つめてカレーパンを黙々とほおばる。

 このみからの無言の圧力に、花は首をすくめて愛想笑いを浮かべた。


「ごめん、急いで図書室に行きたくて」


「今日の放課後も開かないの?」


「うん、絶望感しかないよ……」


 幽霊みたいな花の声に、このみは苦笑いした。


「そんなこと言うなよ、俺がいるだけじゃダメなのかい? って、シマシマヘビのはしが泣いてるぞー」


 花が使っている箸をつついて、このみがニヤリと笑った。


「妙なアテレコしないでよ。それと、シマシマヘビじゃなくてニシキアナゴ!」


 このみの間違いを指摘して、花はふくれっ面になった。


 ニシキアナゴとチンアナゴは花のお気に入りの魚だ。


 白と黄色のシマシマ模様のニシキアナゴ。

 白地に黒の斑点はんてん模様のチンアナゴ。


 どちらもヘビみたいに細長い体をしていて、海の砂の中に体の下の方を隠して過ごしている。水の流れに合わせて海藻みたいにゆらゆらと揺れる姿が可愛くて大好きだ。

 幼稚園の頃からずっとグッズを集めている。


 このみとは小学校の頃から何度も同じやりとりをしている。ちゃんと覚えているはずなのにわざと言い間違えるのだ。

 花のふくらんだ頬をつついて満足げな顔をしていたこのみが、そういえば……と首をかしげた。


「ところで、花。昨日、羽住といっしょに体育館の裏にいた?」


 花は卵焼きを頬張りながらうなずいた。


 昨日、得点ボードの横に立っていたこのみは男子バスケ部の練習試合に集中していた。

 一時間ほどのぞき見してたけど、一度も花たちがのぞいている窓の方に顔を向けなかった。


 どうして知っているのだろうかと不思議に思っていると、


「練習が終わってから女バレの子に聞いたんだよ」


 あっさりと種明かしをしてくれた。


 このみは男子バスケ部のマネージャーをしている。

 練習時間が同じ女子バレー部の子たちとも仲が良い。


 花も授業でグループを作れと言われたときには、このみといっしょに女子バレー部の子たちと組んでいる。

 九重さんがいるのとは別の、女子バレー部でも大人し目の子たちのグループだ。


 本に夢中になりすぎて、ぼんやりしていることの多い花はあまり友達が多くない。

 それでもクラスで浮いたり仲間外れにされずに済んでいるのは、このみがクラスメイトと花の懸け橋になってくれているからだ。


「ついに羽住と付き合いだしたの!?」


 だから、このみの期待に応えたいところだけど――。


「恋愛小説に共感できない私のために、羽住センセーが観察対象の紹介と実例をあげながらの解説を少々」


 嘘をついても仕方がない。花は真面目ぶった口調で言った。

 花の表情にこのみはきょとんとしていたけれど、そのうちにけらけらと笑い出した。


「羽住に教わってたの? 恋愛について? それはそれで笑えるわ」


「笑えるんだ?」


「恋愛とか、キャラじゃなさそうだからね。まぁ、実際の恋愛じゃなくて恋愛小説を読むためだし、赤ちゃんレベルの花が相手なら羽住でも十分か。羽住にベビーシッター代を払わないといけないかなぁ。いつか花と好きな人の話したいなぁ」


 このみはひとしきり笑い転げたかと思うと、今度はにやにやと笑って花の目をのぞき込んだ。


「好きな人の話って……このみ、このあいだ彼氏できたって言ってたじゃん」


 付き合い始めたのに、まだ話したいことがあるの? と、言おうとして、花はあわてて飲み込んだ。

 多分、言ったらこのみに怒られる。

 その程度には恋愛にうとくない……と、いうか、すでに怒られた経験があった。


 へにゃ~っと頬を緩ませると、このみはコクコクと勢いよくうなずいた。


「そうなの、そうなの! 昨日の練習試合にも出てたんだけど、わかった?」


 このみから男子バスケ部の三年生だというのは聞いていた。

 昨日、練習試合を見ているときにそれらしい人を探してみたのだけど、正直、全然わからなかった。


「私、試合中ずーっと彼氏のこと見てたんだけどなぁ」


 無言で目を逸らしたのが答えになってしまったらしい。

 このみは盛大にため息をついて、やれやれと肩をすくめた。


「羽住に言っておいて。花をどうにかできたらベビーシッター代、本気で払うからって」


「絶対に言わない」


 ニシキアナゴの箸を握り締めて、花はつんとそっぽを向いた。

 ハハ……と乾いた声で笑って、このみはカレーパンに続いてコロッケパンの封を開けた。


「で、観察対象って……?」


「西谷くんと九重さん。ちょうどいい感じに両片思いと噂の二人」


「へぇ、羽住のやつ。恋愛なんて興味なさそうな顔してるわりに、しっかり情報を仕入れてるじゃん」


 それは九重さんの情報だからじゃないだろうか。

 花は口まで出かかった言葉をあわてて飲み込んだ。


「本当に西谷くんは九重さんのことが、九重さんは西谷くんのことが好きなの?」


「うん、好き好き、大好き。知らないのは本人たちだけだよ、あれは。二人の噂を知らない人なんて、うちの学年にはいないんじゃないかな。……あ、目の前にいた」


 このみは花にちらっと目配せして意地の悪い笑みを浮かべた。


 確かに全然、気付きもしなかった。聞いたこともなかった。

 でも、それは九重さんとほとんど喋ったことがないからだ。

 西谷くんとは違うクラスだからだ。


 花の耳に入らなくてもしかたがない……はずだ。


「よしよし。すねないで、花ちゃん」


 唇をとがらせていると、このみに頭をなでられた。

 完全に赤ちゃん扱いだ。

 さらに唇をとがらせたあと――。


「ねえ、羽住くんと九重さんのうわさを聞いたことはない?」


 花は上目遣いに尋ねた。

 このみは目を丸くしたかと思うと、すぐさま大笑いでオバサンみたいに手を振った。


「ない、ない! クラスも違うし、キャラも違うし。唯一の接点って言ったら小学校が同じだったことくらいじゃない?」


 初めて知った。

 羽住くんと九重さんは同じ小学校だったのか。


 満足げにうなずく花を、このみは不思議そうに見つめた。


「なになに? 花の恋愛センサーに引っかかったの? 大丈夫、それ、全くあってないから! 見事に外れてるから!」


「大丈夫ってなによ、全くってなによ」


「さぁ、どういう意味でしょ~」


 このみのニヤニヤ笑いに唇をとがらせたあと、花はお弁当箱を片づけると立ち上がった。


 反論したいところだけど残念ながら花の恋愛経験値では反論のしようがない。

 それに、のんびりしていたら図書室に行く時間がなくなってしまう。

 今日も放課後は開かないのだ。昼休みを逃すわけにはいかない。


「ごちそうさま。じゃあ、図書室に行ってくるね」


「はいはい、いってらっしゃい」


 このみもコンビニ袋にゴミを押し込んで立ち上がった。

 まだ、あれこれ話したそうな顔はしているけど、花が本好き、図書室好きなこともよく知っているのだ。

 苦笑いで手を振るこのみに手を振り返して、花は教室を小走りに出た。

 少しゆっくりし過ぎてしまった。


 花たちの教室がある三階から二階に下りて、廊下の突き当りにある非常ドアに向かった。

 非常階段を使って一階まで下りると、非常ドアを開けた目の前が図書室の入口だ。


 小走りで降りてきたせいで乱れた呼吸を整えてから、花はゆっくりと図書室のドアを開けた。

 貸出カウンターには国語担当の先生が座っていた。

 四十代くらいの細身の女性教師で、年齢が近いからか、図書館司書の小林さんと仲がいい。


「あと二十分くらいで閉めないといけないから、借りるなら急いでね」


 テストの採点をしていたようだ。

 先生は顔をあげると、目尻にしわを寄せて微笑んだ。


 花はうなずいて窓際の背の低い本棚に向かった。


 せっかく土日に読むならシリーズ物がいい。

 平日だと一気に読めないし、続きが気になって授業中も、このみと喋っているときも、そわそわしてしまう。


 図書室には先生と花の二人きりのようだ。

 羽住くんが来ていないのは珍しい。


 背の低い本棚の前にしゃがみ込んだ花は、ふと左横に目を向けた。


 ベランダに続くカギの掛かったガラス戸には本が日焼けしないように厚めのカーテンが掛かっている。

 その正面には背の高い本棚が置いてある。海外の古い小説が収まっている本棚だ。


 ガラス戸と背の高い本棚とのあいだは図書室の入口からも貸出カウンターからも死角になっていた。


 去年の入学式の日――。

 ホームルームを終えた花は部活見学に行くこのみと別れて、早速、図書室に向かった。


 中学校の図書室がどんなものか、どんな本が置いてあるのか。

 ワクワクしながら図書室のドアを開けた花の耳に聞こえてきたのは、男の子の声だった。


「本に臭いがつくと困るんで、ベランダか他のところで吸ってくれませんか」


 淡々とした口調に最初、その男の子は先生にでも話しかけているのだろうと思った。


 でも、違った。


 そーっと図書室のドアを閉めていると、いきなり何かが倒れるような大きな音がした。


 あわてて死角になっていた背の高い本棚の後ろをのぞき込むと、タバコを手にした三人組の先輩と、床に大の字にひっくり返っている男の子が見えた。

 廊下に飛び出した花がもしない先生を大声で呼ぶと、先輩たちは大慌てでベランダから逃げ出していった。


 先輩たちに突き飛ばされたときに頭を打ったのか。

 花が声をかけても男の子からの反応はなかった。


 図書室を飛び出して、通りがかった先輩に保健室の場所を教えてもらって。

 保健室の先生を連れて戻ってくると髪の長い女の子が心配そうに男の子の顔をのぞき込んでいた。

 男の子も、ちょうど目を覚ましたところだった。


 そのひっくり返っていた男の子が羽住くん。

 心配そうにのぞきこんでいた女の子が九重さんだった。


 翌日、九重さんが同じ教室にいるのを見てクラスメイトだったのだと気が付いた。

 名前を知ったのもそのときだ。


 羽住くんとは、それから毎日のように図書室で顔を合わせることになった。

 でも、名前を知ったのは入学してから一か月も二か月も経ってからだった。


 入学式の日にはかけていなかったメガネを、翌日から毎日のようにかけていた。

 それでも図書室で見かけたとき、すぐにあのときの男の子だとわかった。


 先輩たちは図書館司書の小林さんが職員会議で図書室を空けているすきに忍び込んで、本棚の死角でタバコを吸っていたらしい。

 それを注意して突き飛ばされた羽住くんは転んで気を失ってしまったそうだ。


 ……と、いうのはあとから図書館司書の小林さんに聞いた話だ。


 タバコを吸っていたことじゃなく、本に臭いがつくと困るからと注意したところが羽住くんらしい。

 本の話をするようになって、羽住くんのちょっと意地の悪い性格を知るようになって、花は妙に納得して笑ってしまった。


 あの場に花がいたことを羽住くんが覚えているのか、知っているのか。

 それはわからない。

 話に出たことがないから多分、覚えていないし、知らないのだろう。


 花は背の高い本棚の一番下の段に収まっている大判の絵本を見つめた。

 細い背表紙に書かれたタイトルは――〝人魚姫〟。


 幼稚園くらいの子が対象の本だけど、挿絵がきれいだからと図書館司書の小林さんにわがままを言って入れてもらったのだ。

 しばらく絵本のタイトルを眺めていた花は目を細めて微笑んだ。


 入学式の日に見た光景は、まるで人魚姫の絵本の一ページのようだった。


 床に倒れている羽住くんと、羽住くんの顔を心配そうにのぞきこんでいる九重さん。

 二人のようすは人魚姫に嵐の海から助け出されて浜辺で気を失っている王子さまと、彼を介抱する隣国のお姫さまそのものだった。


 それなら、あわてて呼んできた保健室の先生の後ろに隠れたまま。

 二人のようすをうかがっていた花は、海の波間から王子さまとお姫さまのようすをうかがっていた人魚姫だろうか。


 羽住くんが王子さまで、九重さんはお姫さま。

 花が人魚姫。


 だとしたら、西谷くんは何の役だろう。


 人魚姫の絵本の背表紙を見つめたまま、花は首をかしげた。


 と、――。


「真隅さん、そろそろ決まった?」


 先生の声に、花はびくりと肩を震わせた。


「はい! 今、行きます!」


 花は背の低い本棚に並んでいる単行本の背表紙を指でなぞった。前から気になっていたシリーズ物のファンタジー小説を手に取る。

 貸出上限目一杯の六冊の本を抱えて、花は貸出カウンターへと小走りに向かったのだった。

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