よんわめ。

 放課後――。


 図書室の扉に貼り出された〝お知らせ〟を前に昨日とほぼ同じやり取りをした花と羽住くんは、今日も体育館の裏に向かった。


 図書室が閉まっているなんて夢かもしれないと往生際悪く確かめに行く花も花だが、今日も悪あがきしているだろうと花のようすを確かめに来て、満足げに笑う羽住くんも羽住くんだ。


「今日も特になにも起こらなかったね」


 昨日と同じように体育館裏の階段に腰かけて、窓をのぞき込んでいた花は真顔で呟いた。

 体育館の利用時間が終わりに近づいているらしい。男子バスケ部も女子バレー部も片付けを始めていた。


「真隅さんから見た大事件は……ですけどね」


 花の反応に羽住くんは苦笑いで言った。


 昨日と同じく花が気付かなかっただけで、西谷くんと九重さん当人にとってはいろいろと事件が起こっていたらしい。

 羽住くんが一生懸命に説明してくれるのだけど、花は相変わらずピンと来ないままだ。


「英会話も一日、二日では上達しませんからね。反復練習です」


 妙に優しい微笑みでフォローを口にする羽住くんから、花はそろそろと目を逸らして胸を押さえた。

 なんだか胸が痛い。あと視線も痛い。


「羽住くんにベビーシッター代が支払われる日はやってくるのだろうか」


「なんの話ですか」


「こっちの話です」


 不思議そうな顔で首をかしげる羽住くんに、花は首を横に振った。

 羽住くんはしばらく探るような目で花を見つめていたけれど、あきらめたらしい。


「昨日今日と合わせて三時間ほどの研究でしたが、恋愛物の小説を読めそうな気はしてきましたか?」


 そう、微笑んで尋ねた。


「小説って展開や事件のある部分だけを書き出して、凝縮してあるものだからね。あの二人に起こっている大事件はさっぱりわからないけど、小説ならまだ読める気がしてきました!」


「なんだか元も子も、根拠すらもないことを言っているような……」


 羽住くんはくすくすと笑って立ち上がると、正門に向かって歩き出した。

 西谷くんと九重さんの体育館練習が終わったから帰るつもりなのだろう。


 花も今日は市立図書館には寄らず、真っ直ぐ家に帰るつもりだ。

 なにせカバンの中には前から気になっていたシリーズ物のファンタジー小説が入っている。母親がパートの日だから本を取り上げる心配もない。


「真隅さん、なんだかうれしそうですね」


 思い切り顔に出ていたらしい。

 羽住くんに言われて花は頬を手で押さえると、こくこくとうなずいた。


「今週末は何を読むつもりなんですか?」


「〝マリオネット冒険記〟っていうファンタジー物。前から気になってたんだ」


「恋愛物ではないんですね」


「……これを読み終えたら考えるよ」


 あからさまに目を逸らす花を見て、羽住くんはくすくすと楽し気な笑い声をあげた。


「ところで体育館では何もなかったようですが、俺たちが見ていないところでは何かあったようですよ」


「なんの話?」


「西谷くんと九重さんの話です」


 羽住くんは楽し気な表情のまま、正門の前で足を止めた。


「どこでそういう情報を仕入れてくるのさ」


「ちょっと聞こえてしまっただけです」


「それってつまり盗み聞き……」


「ちょっと聞こえてしまっただけ、ということにしておいてください」


「さいですか」


 否定はしないらしい。

 澄まし顔の羽住くんを、花はじとりと見上げた。


「それで、どんな展開が?」


「明日の土曜日、二人で水族館に行くそうですよ」


 羽住くんの言葉に花は目を丸くした。

 いくら恋愛ごとにうとくても、昨日今日と散々に西谷くんと九重さんが両片思いだと聞かされてきたのだ。

 そういう二人が二人きりで出かける意味くらいわかる。


「真隅さん、こういうのはデートって言っていいんですよ。ただ遊びに行くのとは別物……」


「わかってるよ! 懇切丁寧に説明しなくていいよ、失礼だな!」


 羽住くんには思い切り疑われているようだけど――わかっている!


 まあ、ここ二日で散々に恋愛偏差値の低さを見せつけたのだ。

 仕方がないと言えば仕方がない。


 花はゴホン、と咳払いした。


「もしかして告白も済んでる?」


「聞こえたかぎりでは告白はまだのようです」


「ちょっと聞こえちゃっただけのわりに、ずいぶんな情報量をつかんでいるような」


「でも明日、水族館では何かあるかもしれませんよ。真隅さん、行ってみる気は?」


 花のツッコミを澄ました笑顔でスルーする羽住くんに、


「ございません」


 花もにっこりと満面の笑顔を返した。


「ですよね」


「〝マリオネット冒険記〟ってシリーズ物で、完結物で、単行本で二十巻ちょっと出てるんだよ! 土日両方使ってもギリギリ読み切れるかどうか……!」


 学校の図書室で借りたのは六冊だけど、市立図書館にも全巻、置いてあるのは確認済みだ。

 古いシリーズだから誰かに借りられてしまう心配もない。図書室で借りた分を読み終わり次第、市立図書館で借りてきて一気読みする気満々だった。


「準備万端ですね。わかりました」


 鼻息荒く両手をにぎりしめる花にくすりと笑って、羽住くんはうなずいた。


「あまり成果はありませんでしたが、今回の研究はこれで終了にしましょうか。……ところで真隅さん。連絡先を聞いてもいいですか」


 羽住くんからの唐突な申し出に花は目を丸くした。

 そこそこ仲良くなって一年近く経つけれど、そういえば連絡先を交換していなかった。


 図書室で会ったときに本の話をするだけ。

 いっしょにどこかに行くにしても放課後に寄り道する程度だ。

 特に交換する必要も連絡する必要もなかったのだ。


「いいけど……?」


 なんで、このタイミング? とも思うけど、断る理由もない。


 花がスマホを取り出すのを見て、羽住くんもYシャツの胸ポケットからスマホを取り出した。

 操作に手間取る花からスマホを受け取って、羽住くんは慣れたようすで互いの連絡先を登録した。


「ありがとうございます。それじゃあ、また」


 花にスマホを返すと、羽住くんはにこりと笑って手を振った。


「うん、またね」


 うさん臭いほどのいい笑顔に花は思わず首をかしげた。


 花と羽住くんの家は正門を出て逆方向だ。

 羽住くんに背中を向けて数歩、歩くと花の頭の中は小説のことでいっぱいになった。


 家に帰ったらすぐにでも読み始めるつもりだ。

 自然と足取りも軽くなる。


「水族館の件、気が変わったら連絡ください!」


「うん? う~ん、うん!」


 だから羽住くんの言葉に適当に返事したことも、足も止めずにひらひらと手を振っただけだったことも、仕方がないといえば仕方がないことなのだ。


 振り返って羽住くんの顔を見たら、何か企んでいると気付けたかもしれないけれど。

 このときの花が気付かなかったのも、仕方がないといえば仕方がないことなのだ。


「夕飯できたわよ。下りてきなさい!」


 家に帰るなり〝マリオネット冒険記〟の一巻を読み始めた花は、母親の声に天井を仰ぎ見てため息をついた。


 壁にかかっている時計を見ると、いつもより早めの夕飯だ。

 きっと明日、父親が早めに家を出るのだろう。ゴルフだろうか、釣りだろうか。


 手にした一巻はあと十ページほどで終わるというところまで来ていた。

 その巻のクライマックスともいえるところだ。


 貧民街に生まれた主人公と幼馴染――二人の少年は生き延びるため、幼い兄弟や仲間を守るため、盗みを繰り返していた。

 命の危険に何度もさらされるが、その度にこつ然と現れては消える少女に救われた。


 青年になった二人は生きていくために傭兵となった。

 不思議な少女は昔と変わらない姿のまま、戦場に立つ主人公の前に時折、姿を現した。


 そんなある日――。

 今日は戦場に出てはいけないと、主人公の前に現れた少女が警告する。


 しかし、雇われ傭兵の身で雇い主の命令に逆らうことはできない。

 主人公は少女の警告を無視して戦場へと出た。そして、主人公を敵からかばおうとして幼馴染が命に関わる大ケガを負ってしまうのだ。


 幼馴染の治療費を用意するため、主人公は敵に情報を売ろうとするが雇い主にバレてしまう。


 投獄された主人公の前に再び、少女が現れた。

 少女は幼馴染が死んだこと、自身が魔法使いであること、幼馴染を生き返らせることができることを告げる。

 そして、少女――魔法使いは幼馴染の命を助ける代わりに契約を求めるのだった。


 と、いうところまで読んだのだが、肝心の契約内容がこれからなのだ。


「もう少し……もう少し待って! て、いうか先に食べてて!」


「何、言ってんの! ご飯が冷めちゃうでしょ!」


 母親がガンガン! と部屋のドアをノックする音に花は悲鳴をあげた。


 契約内容がなんなのか、そこまで読んでしまいたかった。

 じゃないと気になって夕飯どころじゃない――!


「もう少し……もう少しだから……!」


「また本を読んでるんでしょ! いいかげんにしなさい、花!」


 五分ほど立てこもった花だったが、母親の猛攻撃にあえなく部屋から引きずり出された。

 一階に下りると先にテーブルについていた父親と兄が花を白い目で見た。

 美味しそうな麻婆豆腐を前に〝待て〟をさせられて、だいぶ機嫌が悪くなっている。


「夕飯の手伝いもしないで、あんたは本を読んでばっかり……!」


 手を合わせて食べ始めると早速、母親の小言が始まった。


 こういうときは反論しないのが得策だ。

 聞いているフリだけして聞き流すに限る。


「花、ちょっとは味わって食べなさいよ」


 さっさと食べ終えて一巻の続きを読みたいという気持ちがダダ洩れていたらしい。

 黙々とご飯をかきこむ花を見て、母親の眉間のしわが深くなる。


 これはちょっと長めにグチグチ言われるかもしれないと首をすくめた花だったけど、


「まぁ、いいわ」


 母親はあっさりそう言って、にっこりと微笑んだ。


 経験則でわかっている。

 怒鳴られるよりも、こういう表情をしているときの方が怖い。


 本を取り上げられるとか、強制的に明日の予定を入れられるとか。

 実力行使に打って出るパターンだ。


 ごくりと唾を飲み込んで、花は背筋を伸ばした。


「花。あんた、明日も家に一日いるつもりなのよね?」


 母親の質問の真意が読みとれない。

 でも、読み始めたばかりの〝マリオネット冒険記〟を一気読みするためにも、できるなら家にいたい。


「う、う~ん……?」


 とりあえず取れる策は、肯定とも否定とも取れる曖昧な返事をしておくことだ。

 ただ――。


「へぇ、そうなの」


 娘の小賢しい策なんて母親にはお見通しだ。

 さらに笑みを深くする。口元は笑っているけど目は笑っていないタイプの笑みだ。

 かなり怖い。


「え、っと……明日、何かあるんだっけ?」


「あるわよ。家にいるつもりなら、あんたも参加しなさい」


 花が錆びた人形みたいにぎこちない動きで首を傾げると、母親は笑顔のまま言った。


「町内会の運動会……」


「明日、クラスの子と水族館に行く約束してるんだ! ごめん、無理だわ!!」


 食い気味に大声で言う娘の顔を、母親は疑惑のまなざしで見つめた。


 動揺する必要はない。

 まだ行くと返事をしていないだけだ。嘘をついているわけじゃない。


「出不精のお前が水族館? 本当かよ?」


「久しぶりだなぁ、水族館。すっごく楽しみだなぁ!」


 兄と母親の疑惑の視線から目を逸らして、花は白々しいくらい明るい声で言ったのだった。


 ***


 部屋に戻って一巻を読み終えると、花はスマホを取り出して電話をかけた。

 相手はもちろん羽住くんだ。


『気が変わりましたか?』


 開口一番、そう言う羽住くんに花は引きつった笑みを浮かべた。


「つまり知ってたわけね、羽住くんは」


『このあたりの町内会が合同で行う運動会ですからね。母親の反応も似たようなものではないかと推測しました』


 悪びれた様子のない羽住くんに、花は深々とため息をついた。


『運動会に出るよりは、休日で人の多い水族館の方がマシだと思いませんか?』


「マシだよ、大いにマシだよ! でもそこまで読まれてることに若干、腹が立つ!!」


『自分に当てはめて考えただけで、真隅さんの行動を読んだわけではないですよ。だから、そんなに怒らないでください。むしろ感謝してほしいくらいです。逃げる口実を作ってあげたんですから』


「はいはい、ありがとうございますぅ!」


 電話口の向こうからくすくすと笑う声が聞こえた。

 一見すると人が良さそうだけど、よく見るとうさんくさそうな羽住くんの笑顔が簡単に思い浮かぶ。


「それで、明日は何時にどこ!? 制服で行くから! 行ってやるから!」


『八時五十分に駅の改札前で。制服はやめてくださいね、目立ちますから』


 ですよね……と思いながら花は額を押さえた。

 何を着ていくか考えないといけない。


『ため息をつかないでください』


「おっと、聞こえちゃった? 失礼」


 わざとらしく言うと、また電話口の向こうから笑い声が聞こえてきた。


「……それにしても中途半端な時間だね」


『西谷くんと九重さんが九時に改札前で待ち合わせなんです。隠れて、二人が来るのを待とうと思っています』


 どこからそんな情報を……とは、もう聞かない。

 どうせ、ちょっと聞こえたとしか答えないだろうから。


『それじゃあ、明日。楽しみにしてますね』


「はいはい、私も楽しみにしてますよ~」


 花はおざなりな返事をして電話を切った。

 スマホをベッドに放り投げて腕組みする。


 中学に上がってからは制服と部屋着で大体、済ませられてきた。


「……何、着てこう」


 制服のありがたみをしみじみと噛みしめながら、花は洋服タンスを開けた。

 ニシキアナゴとチンアナゴのシールがペタペタと貼られた洋服タンスだ。


「本気で……何、着てこう」


 タンスの中身を見た瞬間、花は深々とため息をついたのだった。

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