にわめ。

 羽住くんに手招きされて、花は体育館裏へと向かった。


 体育館の外にはストレッチやウォームアップをしている生徒たちがいた。体育館の中からはボールが弾む音が聞こえてきている。


「恋愛もよくわからないけど、授業以外で運動しようって人の気持ちもよくわからないな」


「そういえば真隅さん、部活物やスポーツ物もあまり読まないですよね」


「何か一つのことに情熱を燃やすっていう点にはギリギリ共感できるんだけど……授業以外で運動しようって人の気持ちはよくわからないからね!」


「二回も言うなんて大事なことなんですね。好きなものは人それぞれですよ。……まあ、俺も真隅さんと同意見ですが」


 少しの沈黙のあと、揃って乾いた声で笑った。


 花も羽住くんも体育の成績は壊滅的だ。

 恋愛物の研究はしても、スポーツ物の研究をする日は一生、来ないだろう。


 なんて、話しているうちに体育館裏に到着した。


「で、何をどうするわけ?」


 恋愛の研究をするなんて言われたけど、具体的に何をするかは聞いていない。

 恋愛にうとい花に想像がつくわけもない。

 また子供扱いされそうでしゃくだけど、大人しく羽住くんに尋ねるしかない。


 仏頂面で尋ねる花を見て、羽住くんはくすりと笑みをもらした。


「実例を挙げて、そのときの感情と行動の意味を説明をする。それを繰り返してパターンを覚えることで、感情的には理解できなくても恋愛小説を読み解くことはできるようになる……かもしれません。真隅さん、読解力はあるようですから」


 ほめられているのか、けなされているのか。多分、けなされているのだろう。

 花は大人しく口をつぐんでおくことにした。


「すでに付き合っている二人でもいいですが、初心者の真隅さんには難し過ぎるかもしれません」


「お、ケンカ売ってる?」


 秒で前言撤回。大人しく口をつぐんではおけなかった。

 でも、羽住くんは動じない。


「ただベタベタされても恋愛物を読むための研究としては不十分です。かと言って、他に好きな人ができたんじゃないかとか、二股かけてるんじゃないかとか。ましてや別れ話なんて気まずいシーンに遭遇したいですか?」


 羽住くんはにっこりと笑って、なかなかにひどい例をあげた。


 確かに。そんな場面に現実で遭遇したくはない。

 花は首を横に振った。


「と、いうわけで、ちょうどいい感じに両片思いと噂の二人がいるので、その二人を例に研究をしてみましょう」


「なんだか張り込みみたいだね!」


「早速、恋愛物から探偵物か刑事物になってますね。恋愛小説を読むための、恋の研究ですよ。戻って来てください」


「そこはちょうどいい二人とセンセー次第でしょ。私が興味を持てるよう、面白い授業をしてください」


「……責任重大ですね」


 苦笑いして、羽住くんは階段に腰かけた。

 体育館裏にある両開きの扉から外へと出るための、コンクリートでできた三段の階段。その二段目に腰かけたのだ。


 両開きの扉はピタリと閉まっている。

 これでは体育館の中をのぞくことはできない。


 と、――。


「ここ、カーテンが破けてて中がのぞけるんですよ」


 体育館の足元にある横長の窓を指さして羽住くんが言った。


 他の窓には目隠しの暗幕が掛かっている。

 でも、羽住くんが指さした窓の暗幕だけは下の方が盛大に破けていた。全然、目隠しとしての役割を果たせていない。


 羽住くんに手招きされて階段の一番上の段に腰かけた花は、その窓から体育館の中をのぞきこんだ。


 中で練習しているのは男子バスケ部と女子バレー部のようだ。

 男子バスケ部も女子バレー部も練習試合をしている。試合に出ていない生徒たちはステージの段差に腰掛けたり、体育館を二つに仕切るために天井から下がっている緑色のネットの足下で体育座りしたりしている。


 男子バスケ部の得点ボードの横には友達のこのみが立っていた。

 このみは男子バスケ部のマネージャーなのだ。


 手を振ってみたけど、このみは花に全く気付かない。

 他の部員たちも練習試合に集中していて、窓からのぞいている花と羽住くんには全く気が付いていないようだ。


「そういえば、その〝ちょうどいい二人〟ってのは誰?」


「俺のクラスの西谷くんと、真隅さんのクラスの九重さんです。……知ってますか?」


「西谷くんと、九重さん……?」


 花はオウム返しに尋ねた。

 羽住くんの口から九重さんの名前が出たことに、花の心臓はトク……と小さく跳ねた。


 西谷にしたに ゆう

 九重ここのえ ほのか。


 二人とも運動神経が良くて、明るくて、学年の中心的存在だ。

 本ばかりに気を取られて、二クラスしかない同級生の四分の一も覚えられていない花でもさすがに知っている。

 特に九重さんのことは――。


 窓をのぞきこんで二人を探すと、西谷くんと九重さんは緑色のネット越しに背中合わせで座っていた。


 西谷くんはスポーツ刈りの元気いっぱいの男の子だ。

 ただでさえ垂れている目尻をさらに下げて陽気に笑う、明るくてムードメーカー的な存在。


 九重さんは黙っていたら美人だけど、明るい笑顔の方が印象の強い可愛らしい女の子だ。

 教室では下ろしている髪を、今は高い位置で一つに結っている。教室にいるときも背が高くて大人びて見えたけど、今はもっと凛とした印象だ。


「見ての通り、二人は男子バスケ部と女子バレー部に所属しているんですが、二つの部活は体育館を使用する日が同じなんです」


 羽住くんの言葉に花は窓をのぞくのを止めて背筋を伸ばした。

 センセーの話は真面目に聞かないといけない。


 羽住くんはやけに真面目な顔をしている花を見て首をかしげたけど、そのうちに苦笑いをもらした。

 この状況を面白がっているだけだと気が付いたのだ。


「九重さんが西谷くんのことを好きらしい……と、いうのは以前から女バレの人たちが話しているのを耳にして知っていたんです」


 そう言って、羽住くんは体育館の窓をのぞきこんだ。


「でも最近、西谷くんも九重さんのことが好きらしい……と、クラスの男子たちが話しているのを聞きまして」


「なるほど。羽住くんが人の話を盗み聞きしまくっているっていう話だね」


「そこはスルーしておいてください」


 否定はしないらしい。

 にっこりと笑う羽住くんに、花はあきれ顔でため息をついた。


「あきれてないで、ちゃんと見ていてくださいね。真隅さんのための研究なんですから」


「はいはい」


 羽住くんにうながされて、花は再び窓をのぞきこんだ。


 西谷くんと九重さんはそれぞれに自分の部の練習試合を見つめている。でも、ときどき言葉を交わしているようだ。

 西谷くんが何かからかうようなことを言ったのだろう。九重さんがひじ鉄を食らわせている。


「羽住くん、展開があったらちゃんと教えてね」


「当人たちからしてみたら今、この瞬間も恋愛物が展開し続けてるんですが」


「……そんなバカな」


 思わず窓から目を離して、花は羽住くんを凝視した。


「真隅さんが恋愛物が苦手なのは、わかりやすくて大きな事件が起こらないせいもあるかもしれませんね」


 花を見下ろして、羽住くんは困り顔で微笑んだ。


 と、――。


「真隅さんにもわかりやすい事件が起こるかもしれませんよ」


 羽住くんが窓を指さした。

 花があわててのぞきこむと、緑色のネットのそばに体育座りしていた西谷くんがいなくなっていた。


「コートです」


 羽住くんに言われて男子バスケ部のコートを見ると、西谷くんが走り回っていた。


 中学二年生としては平均的な体つきだ。

 ただ、周りにいる男子バスケ部や女子バレー部の部員がみんな背が高いせいで、どうしても小柄に見えてしまう。


 それでも身軽な動きでボールを奪い取ると、運動音痴の花でもわかるくらいきれいなフォームでシュートを決めた。

 ずいぶん離れた位置から放ったのにガシャン! と音を立てることもなく、ボールは静かにネットに吸い込まれた。


 一瞬の静寂のあと、ホイッスルが響いた。

 どうやら試合が終わったらしい。


 西谷くんのシュートを見ていたのだろう。

 男子バスケ部だけでなく、女子バレー部のコートからも歓声があがった。


「スリーポイントで逆転勝利……ですね」


「練習なのに頑張るね。私なら試合でも頑張りたくない……!」


「真隅さん、恋愛の研究をしにきたってわかってますか? 今、思い浮かべるべき感想はそういうことではないです」


 身震いする花を見て、羽住くんは真顔で首を横に振った。

 諭すような目に花は首をすくめると、そそくさと窓をのぞき込んだ。


 西谷くんは自分よりも背の高い部員たちに頭を撫で回され、もみくちゃにされていた。

 顔をくしゃくしゃにして笑っていた西谷くんは、緑色のネットの方に目をやるとはにかんだ笑みを浮かべた。


 花は西谷くんの視線を追いかけた。


「そりゃあ、まぁ……」


 花の背中越しに窓をのぞきこんでいた羽住くんが、ため息の混じった声で言った。


「好きな人が見てるんです。練習試合でも頑張ってしまいますよ」


 西谷くんの視線の先には九重さんがいた。


 西谷くんと目が合った瞬間――。

 手を叩いていた九重さんが顔を赤くして目をそらした。


 男子バスケ部の人たちがからかうようなことを言ったらしい。

 西谷くんは顔を真っ赤にしたかと思うと誤魔化すように笑って、すきをついて部員たちの腕から逃げ出した。


「西谷くんと九重さんは、お互いがお互いのことを好きだって気付いてないのかな」


「さあ、どうでしょう。当人たちよりもまわりから見ていた方がわかるということは多いですからね」


 鬼ごっこを始めてしまった男子バスケ部員たちを、女子バレー部員たちは緑色のネット越しに応援したり怒鳴ったりしている。

 声援を送る九重さんの目はコート内を走り回る西谷くんを追いかけていた。


「二人が直接、話をしたらすぐに解決しそうな事件なのに」


「全く気が付いてないわけでもないと思うんですが、尻込みしているというのはあるかもしれませんね」


 ふーん、と呟いて羽住くんを見上げた花は目を丸くした。


「一度、口にしてしまえばなかったことにはできません。今の関係が壊れてしまう可能性もありますから」


 羽住くんは窓をのぞいて眉間にしわを寄せていた。

 困っているようにも、辛そうにも見える表情だ。


 どうして、そんな表情をしているのだろう。

 花はもう一度、窓をのぞきこんだ。


 と、――。


「……っ」


 九重さんと目があった、気がした。


 九重さんは驚いたように目を見開いたあと、すぐに視線を逸らした。

 でも、その一瞬前。

 花の視線に気付く直前は笑みを浮かべていたように見えた。


 西谷くんに向けていたはにかんだ笑顔とは違う。

 なにか含みのある笑み。


 九重さんの目は花の方を見ていた。

 でも、花が窓をのぞきこむよりも前からこちらを見ていたような気がした。


「好きな子と目があって、微笑み合うような大事件。羽住くんも遭遇したことがあるの?」


 花はちらっとと羽住くんを見上げて尋ねた。

 羽住くんは目を丸くして花を見返した。


 でも――。


「さぁ、どうでしょう」


 そう言って、すぐににっこりと笑った。


 羽住くんのうさんくさい笑顔に花はそれ以上、聞くのは諦めた。

 今の花の恋愛経験値では聞き出せる気がしない。全くしない。


「真隅さんはないんですか、そういう大事件に遭遇したことは」


「さぁ、どうでしょう」


 うさんくさい笑顔のまま尋ねる羽住くんに、花は真似をしてにっこりと笑顔を返した。


 でも――。


「……」


「どうして、そんな見え透いたうそをついたんですか」


 耐えきれずにすぐさま顔を両手でおおってうつむいた。

 そんな花を見下ろして羽住くんは楽し気な笑い声をあげた。


 〝そういう大事件〟に遭遇した記憶があるなら、恋の研究なんてしたりしていないのだ。

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