いっぴきめ。

いちわめ。

 図書室の扉に貼り出された〝お知らせ〟の紙ににぎりしめた拳を叩きつけて、真隅ますみ はなは膝から崩れ落ちた。


「やっぱり閉まってる……」


 この世の終わりみたいな声で呟いて、遥か頭上になった〝お知らせ〟の紙を見上げた。


 ――図書館司書不在のため、木・金曜日は昼休みのみ本の返却・貸出を受け付けます。


 〝お知らせ〟にはそう書いてあった。


 〝お知らせ〟は昨日の水曜日から貼り出されていた。

 花は数少ない図書室の常連さんだ。なんなら図書館司書の小林さんから直接、言われてもいた。

 放課後に来ても開いてないわよ、と――。


「なら、なんで確かめに来たんですか」


 崩れ落ちた花を見下ろして苦笑いしたのは、もう一人の常連さんの羽住くんだ。

 もう一人というか、あと一人と言うべきかもしれない。


 クラスは違うけど、同じ中学二年生。

 メガネをかけて、ちょっと長めの前髪で顔を隠した地味なタイプの男の子だ。

 学年で一番、背が高いらしいけど、猫背で歩いていることが多いからあんまり目立たない。


 学年で一番、背の低い花と並ぶと間違いなく巨人だけど。

 図書館司書の小林さんには、


「デコボココンビね~」


 と、定期的に笑われている。


「図書室が閉まっているなんて夢かもしれない、嘘かもしれない。もしかしたら開いてるかもしれないと一縷いちるの望みに賭けて確かめに来ました。……そう言う羽住くんはなんでいるのさ」


「図書室が閉まっているなんて夢かもしれない、嘘かもしれない。もしかしたら開いてるかもしれないと一縷いちるの望みに賭けて真隅さんが確かめに来てるんじゃないかと思い、確かめに来ました」


 当たっていましたね、と微笑む羽住くんを花は白い目で見上げた。


 見た目は地味だ。でも、中身はちょっと意地が悪い。

 羽住くん本人は自覚しているのか、いないのか。言葉や行動の端々に、ちょくちょく意地の悪さがにじみ出るのだ。


「いつまで廊下に座り込んでいるんですか。あきらめて、そろそろ行きましょう」


 差し出された手を花がつかむと、羽住くんが腕を引っ張った。


「ありがと」


 立ち上がった花はスカートの後ろを払いながら、小さな声でお礼を言った。


 羽住くんはちょっと意地が悪いけど、基本的には優しい。

 女の子の扱いに慣れ過ぎている感じもあるけれど。


「何度も言ってますけど、妹がいるからですよ?」


 ジト目で見上げる花を見返して、羽住くんはにこりと微笑んだ。

 あと、心を読む特殊能力保持者でもある……と、花は思っている。


「俺が特殊な能力を持っているんじゃなくて、真隅さんが顔に出過ぎなんですよ」


 また考えていることを見透かされてしまった。


 にこりと微笑む羽住くんを見上げて、花は仏頂面で唇を引き結んだ。

 友達のこのみにもよくからかわれるし顔に出やすい自覚もあるけど、それにしても羽住くんは見透かしすぎな気がする。


 図書室は一階の突き当りにある。

 いつもは下校時刻ギリギリまで図書室で本を読んでいるのだけど、仕方がない。

 羽住くんを追い掛けて、花も渋々、歩き出した。


「このあとはどうするんですか?」


「真っ直ぐ帰ると夕飯の手伝いしろとか言われるから、教室に戻って昼休みに借りた本を読んでく」


「教室、三者面談で使ってますよ」


「……そ、そうだった」


 羽住くんに指摘されて花は頭を抱えた。


 一学期も後半に差し掛かった六月のこの時期――。

 どこの学年、クラスでも三者面談が行われていた。


 花もつい二日ほど前に母親とともに受けてきた。

 中学二年になると高校受験の話もちらほらと出てくる。授業中も本を読んでいることがある、という先生からの指摘もあって、家に帰ってからこっぴどく叱られた。

 こんな早い時間に家に帰ったら勉強しろと怒鳴られ、間違いなく本を取り上げられてしまう。


 花は読みかけの本が入った学校カバンをぎゅっと抱きしめて、ぶるりと身震いした。


「じゃ、じゃあ……図書館に行く!」


 歩いて二十分ほどのところにある市立図書館のことだ。ちょっと歩くし花の家とは逆方向だけど背に腹は代えられない。

 ぐっと拳を握りしめる花を見て、羽住くんはくすくすと笑った。


 教室へと上がる階段の前を素通りして、昇降口へと向かう。


「今はどんな話を読んでいるんですか」


「コメディタッチの探偵もの。お嬢さま女子大生探偵が連続窃盗事件に挑む! ……って、お話。まだ四分の一くらいしか読み進めてないのに、もう第十七の事件が起こってるんだよ」


「事件、起こりすぎじゃないですか」


 羽住くんが苦笑いで言った。花も読んでいて思った。

 現実だったら堪ったものじゃない。


 でもテンポが早くて、文体もコミカルで、小説としてはすごく面白い。

 次は何が起こるのか。畳み掛けるようにまだまだ事件が起こるのなら、そろそろ笑いのツボに入って抜け出せなくなる気がする。


 昇降口にはずらりと靴箱が並んでいる。

 花のクラスは三列目の手前、羽住くんのクラスはその奥の靴箱が割り当てられていた。


「真隅さんって恋愛小説は読まないんですか?」


 靴箱越しに羽住くんが尋ねた。


「俺、真隅さんが図書室で借りて読んだ本のほとんどを読んでいると思うんです」


「ストーカーかと思うくらいにね」


 靴箱の影でニヤリと笑っていた花は、


「ファンと言ってください」


 動じるようすのない羽住くんの返しに唇をとがらせた。

 たまに花が意地悪や皮肉を言ってみても、羽住くんは少しも焦らない。花としてはちょっと面白くない。


 と、いう話はさておき――。


 確かに羽住くんは、花が図書室で借りて読んだ本のほとんどを読んでいる。


 羽住くんも毎日、図書室に通うほどの本好きだ。

 でも、ジャンルの雑食さと優柔不断な性格のせいでなかなか借りる本を決められないのだ。一時間も二時間も本棚のあいだをうろうろした挙げ句、花におすすめを聞いてきたりする。

 花が紹介すると自然、花が読んだことのある本になってしまうのだ。


 珍しく羽住くん自身で本を選んできたかと思えば、


「貸出カードに真隅さんの名前があったので、とりあえず安心かと思って」


 なんて言いながら持ってくる。

 そんな調子だから花の好きなジャンル、あまり読まないジャンルもバレてしまっていた。


 ノンフィクションや伝記物は好んで読まない。

 フィクションの中でも冒険物や騎士道物、現代が舞台だと警察や探偵が出てくるミステリー物が好きだ。


 ほとんど手を出さないのが――恋愛物。


「最近、ふと気が付いたんです。真隅さん、恋愛小説をほとんど読んでないですよね。貸出カードに名前があったとしても、絶対にすすめてこない。感想を聞いても微妙な顔をする。……もしかして、好きじゃないんですか?」


 靴を履き替えた羽住くんが靴箱の影から顔を出した。

 不思議そうな顔でじっと見つめる羽住くんに、花はぽりぽりと頬をかいて目をそらした。


「うーん、好きじゃないと言うか……得意じゃないというか……共感できないというか……まったく気持ちがわからないというか……」


 しどろもどろで答える花を見下ろして、羽住くんは首をかしげた。


「真隅さん、国語のテストの点数は悪くなかったですよね」


「読解問題の例文に恋愛小説が使われることってあんまりないからね!」


 助かってるよ! と、胸を張る花に羽住くんは苦笑いを浮かべた。呆れたとか、ちょっと小馬鹿にしたとか、お子さま扱いしているときの微笑みだ。

 花はふくれっ面になると昇降口を出た。


 グラウンドを走り回っている運動部たちの声が一際、大きく響いた。


「だって、両想いかどうかとか、浮気してるんじゃないかとか、他に好きな人ができたんじゃないかとか。そういうのって全部、本人に聞けば一発で解決しそうじゃん」


 のしのしと大股で正門へと向かう花のあとを羽住くんが追いかけてくる。


「それじゃあ、物語として成立しないじゃないですか。今の関係が壊れてしまうかもしれない、聞いても素直に答えてくれないかもしれない、うじうじと悩んでいる自分を知られたくない、嫉妬や独占欲といった醜い感情に気付かれたら嫌われてしまうかもしれない。そういう葛藤や不安が……」


「そんな葛藤や不安を覚えるような相手のこと、好きになるんじゃありません! お母さん、反対です!」


「……お母さん。竹を割ったように清々しくわかりやすい恋愛なんて、現実でもなかなかないと思いますよ?」


 にこりと笑う羽住くんの顔は、完全に幼稚園の先生が子供に向けるソレだ。

 文句を言いたいところだけど恋愛ごとに関しては全く言い返せない。


 花はグラウンド脇の道を歩きながら、砂煙を上げて走っている野球部たちを眺めた。


 同じクラスの野球部の男子とマネージャーが付き合っている。

 そう教えてくれたのは友達のこのみだ。

 二人はグラウンドのすみで、今もタオルを受け取ったりドリンクを渡したりと微笑み合っている。


 付き合っているとわかっていて見ればそれらしく見えそうなものだけど、花には何一つ、ピンと来るものがない。


「以前、余命短い娘のために奔走ほんそうする刑事の話を読んで大泣きしてましたよね」


 羽住くんに言われて、とたんに花は顔を両手で覆った。


「忘れてって言ったのに! あのラストシーンは図書室で……って、いうか人前で読んじゃだめなやつだった」


「感動的なラストでしたね」


「……って、言うわりに涙を滲ませてすらいなかったよね、羽住くんは!」


「感動はしてましたよ?」


 羽住くんは可愛い子ぶって小首を傾げて見せた。

 胡散臭いこと、この上ない。花は白い目を向けた。


 正門の近くには武道場がある。

 放課後は柔道部や卓球部が使っているけど、今日は練習のない日らしい。

 ドアは閉まっていて電気も消えている。いつもはガタイのいい部員たちが占有している入り口前のベンチにも誰も座っていなかった。


 羽住くんがベンチに腰かけた。つられて腰を下ろして、花はしまったと思った。図書館に行くつもりだったのにすっかり羽住くんのペースに乗せられている。

 別にいやなわけじゃない。本を読むのと同じくらい本の話をするのは好きだ。

 ただ、羽住くんの手のひらの上で転がされている感があって、ちょっと悔しいだけだ。


「なら、余命が短い相手を好きになってしまったとか。そういう話なら真隅さんでもわからないなりに感動できるんじゃないですか。わからないなりに」


「わからないなりに……を強調しないでよ」


 花は羽住くんを睨みつけてから頬をぽりぽりとかいた。


 図書室に入ってすぐのところに飾り付けられたテーブルが置いてある。新刊や映像化された話題作を月替わりで紹介しているのだ。

 羽住くんが言うような余命わずかな相手との恋愛物も紹介されていたことがある。

 図書館司書の小林さんにもすすめられたから読んでみたのだけれど――。


「余命わずかなのに出会ったばかりの人との時間をなぜ優先しようなんて思えるのか。ヒロインの気持ちが全くわかりませんでした」


 あえなく撃沈していた。


「好きになってしまったらどうしようもない……と、いう気持ちに少しくらいの共感は……」


「ミジンコほどもできませんでした!」


「ミジンコほどもですかぁ」


「余命わずかなら一冊でも多く本を読みたい……読み返したい! 人生の岐路に共に立ち、寄り添い続けてくれたあの本たちを読み返したい!」


「そんな澄んだ目できっぱりと言わないでください。悲しくなってきます」


 握りしめた拳を振り上げて熱弁する花に、羽住くんは真顔でツッコミを入れた。


「悲しくなってくるのはこっちだよ。現実的な意見を述べているのに、このみにはお子ちゃまだ、お子ちゃまだってバカにされるし!」


「否定できませんね」


「羽住くんにもバカにされるし!」


「否定しませんね」


「否定しなよ!!」


 花はふくれっ面でツッコミを入れたかと思うとがっくりと肩を落とした。


「恋愛物って言ったら小説の一大ジャンルだよ。それが読めない、読んでも楽しくないって本好きとしては悲しいにもほどがあるよ。いっそ悲劇だよ」


「当人にとっては悲劇でも、他人から見ると喜劇という……痛いです、真隅さん」


 花は無言で羽住くんの弁慶の泣き所に蹴りを入れるとうつむいた。

 膝の上に乗せた学校カバンにはキーホルダーが二匹仲良くぶら下がっている。


 白と黄色のシマシマ模様のニシキアナゴと、白地に黒斑点のチンアナゴ。

 ヘビみたいに細長い体をした魚のキーホルダーだ。


 デフォルメされたニシキアナゴとチンアナゴのつぶらな黒い瞳を見つめて、花はため息をついた。


「ヒロインにでも登場人物の誰か一人にでも共感できるなら、恋愛物も楽しく読めるんだろうけど……」


 冒険物もミステリー物も読み切れないほど、たくさんの本が出ている。恋愛物が読めなくたって読む小説がなくて困るなんて日は来ないかもしれない。

 それでも話題作がバンバン出る一大ジャンルを読めない……それも恋愛感情がよくわからないから読めないというのはちょっと悔しい。


 再び、ため息をついた花を見下ろして、羽住くんがポン! と手を叩いた。


「なら、今日は真隅さんが恋愛物を読めるように恋愛の研究をしましょうか」


 目を丸くする花に、羽住くんはにっこりと笑ってみせた。


 羽住くんと知り合ったのは中学に入ってからだ。


 花は入学式当日から毎日のように図書室に通っていた。

 羽住くんも同じ。


 毎日のように図書室で顔を合わせていれば覚えもするし、教室や廊下ですれ違うときに会釈する程度の仲にもなる。


 図書館司書の小林さんがいないときに花が代わりに本の返却や貸出をするようになれば、一言二言、言葉を交わすようにもなる。


 おすすめの本を聞かれるようになって、もう少し長く話をするようにもなった。


 でも、本格的に仲良くなったのは、小説に出てきた藤棚になる豆見たさに公園に寄り道すると花が言い出したとき。

 なら、俺も……と羽住くんもついてきたのがきっかけだった。


 そこから一気に話す機会が増えた。いっしょに行動する機会が増えた。

 図書室で本を読むだけじゃなく、本に書かれていることを試したり、場所や物を探しに行ってみたりするようになった。


 小説に出てきた料理があまりにも美味しそうで、家庭科室を借りて作ってみたこともある。

 大人しくて成績も良好な羽住くんのおかげか、家庭科室の使用許可はあっさりと貰えた。

 レシピ以前に作る側の腕前が重要――と、いうのがそのときの結論だ。


 猫が出てくる小説に影響されて近所の野良猫をけたこともある。

 十匹ほど尾けてみたけれど、あっさりと、ことごとくまかれてしまった。


 これが気になる、あれをやってみたいと言い出すのは大体、花の方。

 じゃあ、やってみましょうかと計画を立て始めるのは大体、羽住くんの方。


 そして、羽住くんが計画を立て始める前に必ず言うのが――。


 〝なら、今日は〇〇マルマルの研究をしましょうか〟。


 花はにんまりと笑うと、大きくうなずいた。


「やろう、恋愛の研究!」

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