第11話:母は強し

 出血と毒によってライシの意識は朦朧もうろうとしていた。

 辛うじて聴覚だけはその機能を正常に稼働し続けている。

 はっきりと鼓膜に響くその声に、ライシは安堵の笑みをそっと浮かべる。

 どうやら間に合ってくれたらしい。ぼやけた視界に映るその姿は、ライシがとてもよく知る人物だった。一つだけ、普段との相違点を挙げるならば朦朧とした意識下でさえもはっきりと認識できるぐらい、凄まじい殺気と魔力をひしひしと放出していることだった。

 アスタロッテは現在、未だかつてないほど憤慨している。

 ライシの意識は皮肉にも、アスタロッテの殺気によってわずかに覚醒した。

 生命に備わる生存本能が強烈にライシの肉体を突き動かしたのだ。



「か、母さん……?」



 正常と化した視界に映るアスタロッテの顔に、母としての面影は欠片さえもない。

 冒険者たちを見やる視線はどの猛獣や悪魔よりも恐ろしく冷たい。

 家畜を食用として加工するべく屠殺とさつする。そんな眼差しをアスタロッテは彼らに――人間に対して向けている。



「……お前達、自分が何をしたか理解した上での行い、とそう捉えてもいいのかしら?」



 ――あ、明らかにいつもと口調が違う。

 ――本当にこれが、母さんなのか……?



 驚愕するライシを他所に、アスタロッテはジェノス達をじろりと睨む。



「たかが弱小の下等生物が……己が浅はかさと愚かさを死をもって償うがいい」



 それは彼らへの死の宣告だった。

 一歳の慈悲も容赦も与えない。ライシでさえも思わずその恐怖に短い悲鳴をもらすほどの殺気が森の中を吹き抜ける。常人であればまず正面に立つことさえもままならないはずだ。最悪、殺気だけで死んでいてもおかしくはない。

 そういう意味で下手に耐性があった魔法使いの女は気絶するだけに留まった。

 果たしてそれが幸か不幸かで問えば、恐らく後者だろう。ライシはふとそんなことを思った。

 下手に生かされることほど、恐ろしいものはない。何故なら彼らは悪魔だから。死ぬことの方がよっぽど幸福だったと思い知らされる中で味わう苦痛と絶望は想像を絶しよう。

 ――俺だったら確実に逃げるかその場で自殺してるだろうなぁ……。

 時には死こそ、一番の救済と化す時もあるのだ。



「くっ……僕たちを舐めるなよ魔王アスタロッテ! 我々【黄昏の旅団】は――」



 肉を潰し骨を砕く音は不快感極まりない。

 赤々とした血液が勢いよく空に昇る様はさながら噴水のよう。

 生命の源たる血液が陽光を浴びて光沢を発する光景は、皮肉にもとても美しい。

 ジェノスを除く仲間の首が一瞬にして爆ぜた。むろんその原因はアスタロッテ以外の何者でもない。ライシの目には何したのかすら映らなかった。

 母さんは何をやったんだ? ライシは激しい困惑と驚愕の渦中へと飲み込まれる。

 魔法を使った、それぐらいは例え学がない人間でも容易に想像ぐらいはつこう。

 ただし、アスタロッテは何もしていない。きれいな手をそっと、前に出しただけ。

 開いた手からも何かが放出された痕跡すらもない。

 手をかざしただけでアスタロッテは複数の命を同時に奪った。

 ライシがこの事実に驚愕するように、相対するジェノスの驚愕は彼のそれよりも遥かに大きいものだった。



「な、なんだ……いったい仲間に何をしたんだ!?」



 アスタロッテは答えない。再び右手が伸ばされる。

 ジェノスが悲鳴にも似た雄叫びを上げて地を蹴った。

 先程のような鋭利さも技もない。がむしゃらに振るった剣は素人同然で、当然ながら魔王を相手にその刃が届くことは決してない。アスタロッテが用いたのは己の肉体のみ、それも爪と言うごくわずかな部分でジェノスの剣を難なく弾いている。必死なジェノスにアスタロッテの表情かおはさぞ退屈そうだ。小バエを払い落とすような挙措に、ライシは驚愕を禁じ得ない。

 圧倒的に実力の差がありすぎる。



「まだ生きているか小僧」

「ア、アモン……」

「ふむ……どうやら毒に侵されているようだな。この程度の毒ならば我々悪魔にはそれほど効果はないのだが、まぁ貴様の場合は致し方なかろう。とりあえずこれを飲むといい。解毒作用と治癒力増強の効果がある」



 ――また、まずそうな液体だな……。


 毒々しい緑色の液体で満ちた小瓶を嫌々そうに見やるライシだが、今の彼に選択する余裕などない。毒が全身に回り切れば死ぬし、現在も風前の灯火に近しい。味は案の定、おいしいという感想から酷くかけ離れていた。

 アモンの血を飲んでる方がまだマシだぞクソが。心中で悪態つけるぐらい余裕をライシに取り戻させるほど、薬の効果は絶大的なものだった。

 ほんの少しだが、全身に力が入れられる。

 なんとか上半身だけを起こしたライシは、改めてアスタロッテ達を見やる。

 依然として戦況はアスタロッテが遥かに優勢だ。強者だと思ったジェノスが、今となっては小動物のようにすらライシは錯覚してしまう。



「そ、それよりも母さんはいったい……」

「あれがアスタロッテ様のお力だ。滅多なことでは出すことすらないが、今回の場合はこうなっても仕方ないと言えよう。奴らがアスタロッテ様の逆鱗に触れてしまったのだからな……」

「……あんなに強かったのか母さん」

「クソ……クソ……なんでだ! なんで僕がお前如きに勝てないんだよ! 今までだってたくさんの悪魔を殺してきたんだぞ!」

「愚かしい。たかだか自分よりも弱い相手を打倒し強者になったかのように錯覚するなんて……哀れですらある」

「ぎゃあああっ!」



 地を叩く乾いた金属音も、断末魔によって空しくかき消される。

 目の前の光景にライシは思わず目をそらしてしまう。

 アスタロッテが伸ばした手を静かに拳へと形作った瞬間、ジェノスの右腕が潰れた。

 肉と骨が混ざり合い、鮮血がわっと飛び散る光景は残酷そのもの。特に人間であるライシにはあまりにも衝撃が強すぎた。

 右腕、左腕、そして両下肢と、そこにあったはずのものが呆気なく失ったジェノスに抵抗の意志はもうない。生きているのでさえ奇跡に近しいと言えよう。

「もう……殺して……」と、ジェノス。か細いその言葉は彼の本心で、しかしアスタロッテに彼の言葉を聞き入れる慈悲などない。頬についた返り血を忌々しそうに指で拭い、静謐せいひつにして凄烈な憤怒の感情いろを顔に示す。



「聞けば私の愛する息子と決闘をしたそうね。一対一と言う決闘を受諾しておきながら、自らが危機に陥れば仲間に助けを求める……やはり人間とは何年経とうと下劣で下等な生物らしいわ」

「そ、それは……」

「いずれにせよ、私の愛する息子をここまで傷付けた罪をお前は償わなくてはいけない。だから――安心して死ぬがいいわ」



 同行していた悪魔がひょいとジェノスを担いだ。



「やめろ! やめてくれ!」と、ジェノス。



 これより何が行われるのか、察したのだろう。

 涙と鼻水と血でせっかくの端正な面立ちも、必死に命乞いをすることで醜悪なそれへと変わる。

 【黄昏の旅団】は本日をもって壊滅した。

 唯一の生存者も、目を覚まして早々に映る地獄絵図はさぞ強烈な気付けとなっただろう。

 絹を裂いたような大きな悲鳴も、一瞬で断末魔へと変わる。

 すべてが終わった。

 アスタロッテの圧倒的すぎる力を見届けたライシは糸が切れた人形のように、ことりと意識を落とした。


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