第8話:妹の子守は大変です
雲一つない快晴の下にライシはその身を晒した。
開放した窓から吹き込む微風は心地良く、頬をそっと優しく撫で上げる。
正しく絶好のロケーションだと断言できよう。
こういう時こそ外ですごすべきである。窓枠へと足を掛けた。
「ライシちゃん何をやっているの!?」
「げっ、母さん……」
「そんなところにいたら落ちちゃうからこっちにきて! 危ないわ!」
「いやいや大袈裟すぎるから……」
さながら自殺を引き留めようとする家族のような構図に見えなくもない。
死ぬつもりなんて更々ないのに、とライシは苦笑いを示した。
ライシはアスタロッテの制止を無視して、そのままぴょんと窓の向こうへと飛び降りた。
次の瞬間、絹を裂いたような悲鳴が城内にあがった。
「ライシちゃぁぁぁぁぁあああん!!」
「いやだから大袈裟すぎるから」
――本当に過保護だなぁウチの母親は……。
大粒の涙を流し窓から身を乗り出して手を必死に伸ばすアスタロッテを見やるライシの視線は、とても冷ややかなものだった。
ライシが飛び降りたのは一階からである。地面との距離も1mもない。
赤子であれば1mの高さでも十分に危険であるが、齢十を迎えた子供であればどうということはなかろう。
「どこも怪我してないし、それに1mぐらいで死ぬほど俺も軟じゃないから!」
「で、でも万が一のことがあったらどうするの!?」
「そこまで間抜けでもないよ。それじゃあ母さん、ちょっと外を散歩してきまーす」
「待ちなさいライシちゃん! 誰かライシちゃんの護衛をして!」
「え~……別にすぐ近くだから問題ないのに」
「だめよ! もしもライシちゃんが危ない人に誘拐されそうになったらどうするの!?」
それこそありえないだろう、とライシは心中にてもそりと呟いた。
護衛付きという条件の下、ライシが足を運んだのは花畑だった。
魔王アスタロッテ――冷酷無比にして絶対的な力とカリスマを備える悪魔の王が、よもやガーデニングを趣味するとは果たして誰が想像しよう。
ライシは花についての知識が著しく乏しい。
なんの花なのかまではライシはわからない。だが、とても綺麗だ。
月並みな言葉と語彙力のなさは否めずとも、素直に心からそう思った。
甘い花の香りを、おどろおどろしい悪魔二匹と堪能する。
なかなか稀有な光景に、ライシの口からは乾いた笑いが静かにもれた。
――なんだか俺が悪いことしてる気分になってきた……。
「あの、そんなに至近距離にいなくても大丈夫ですよ?」
「いいえ、我々はアスタロッテ様よりライシ様を護衛するように命令されております」
「有事の際即座に行動できるようにするのは当然のことです」
「あ……はい。そうですね」
暗にどっかに言ってほしいと思ったライシだったが、二匹の悪魔は応じる気配がない。
ライシの意図に気付いてすらいないのが、本命だろう。
早く成人になりたい。ライシは切に心から思った。
「ライシお兄様~!」
「ハァ……ハァ……まってぇアリッサお姉様~」
「アリッサ、エルトルージェ?」
ぱたぱたと駆けてくる二人の妹の傍らにも護衛が二匹ずつ控えている。
「どうしたんだ?」
「私達もライシお兄様とお散歩がしたくてきました!」
「ライシ兄上様ぁ、エスメラルダとお手てをつないでほしいですぅ」
「あぁ、いいぞ」
ぱっと顔に花を咲かせたアリッサとエスメラルダがライシの両手を掴んだ。
兄として妹の面倒を見る。付け加えるならば、この圧力が凄まじい空気を少しでも緩和したいというライシの願望がった。寧ろそっちが本音だと言っても過言ではない。
アリッサとエスメラルダは、ライシにとって唯一の癒しなのだ。
ライシは大きな花畑をぐるりと回るように妹達と歩く。
アスタロッテが管理する花畑の規模はツヴァルネア城ほどでないにせよ、圧倒的規模を誇るのはまず間違いなかろう。およそ3.5
よくもこれだけの花畑を作ったもんだなぁ、と感心するライシを小さな衝撃が襲う。
痛みは皆無。袖をくいくいと引っ張るアリッサがすっと一輪の花を差し出した。
色鮮やかな赤が印象的な花だ。甘い蜜の香りが鼻腔を優しくくすぐる。
「どうかしたのか?」
「これライシお兄様に差し上げます!」
「いいのか? ありがとうなアリッサ」
「えへへ」と、猫のように目を細めながらライシからの愛撫をアリッサは受ける。
アリッサの頭を撫でる最中、またしてもライシを小さな衝撃が襲う。
破れそうになる勢いでエスメラルダが袖をぐいっと引っ張った。見るからに不機嫌さを露わにする少女の手にもまた、一輪の花がある。
「ライシ兄上様ぁ、エスメラルダからもこちらのお花さんをプレゼントします~」
「そうか、エルメラルダもありがとうな」
「後こちらのお花さんはとっても蜜が甘くておいしいんですよ~。エスメラルダのおススメはあっちの方にある白いお花さんで――」
「そ、そうなのか。よくそんなこと知ってるなエスメラルダ……」
「はい~。ちゃんと食べて確認しました~」
そう言ったエスメラルダはライシの目の前で、花の蜜をちゅうちゅうと吸い始めた。
立派に咲き誇る花が一瞬にして干からびる。その光景にはライシのみならず、護衛の悪魔達も唖然としていた。アリッサ一人だけが、この中で違った反応を示す。
「エスメラルダ、みっともないからやめなさい」
「で、でもアリッサお姉様ぁ。お花の蜜とっても甘くておいしいんですぅ」
「それを以前もやってお母様から叱られたばかりでしょうに……」
「え? そんなことがあったのか?」
そんな話俺ははじめてきいたぞ、とライシはアリッサに尋ねた。
「お城の中にある花壇のお花を吸ってお母様に怒られてました」
「そう言えば……」と、ライシ。
以前花瓶の花が異様にしわがれていたのをライシはふと思い出す。
花に興味のないライシは、その時は特に気にも留めず素通りした。
「エスメラルダが食いしん坊だっていうのは知ってるけど……いくらなんでもそれはちょっとなぁ」
「だってぇ、お腹か空いてたんですものぉ……」
本人に反省の色はまったく見られない。
物事にはなんでも限度がある。
いつかエスメラルダの食費で城の家計が回らなくなるのでは。そんな一抹の不安がライシの脳裏によぎった。
――今度畑仕事でも手伝おうっと。
――もっと開拓した方がいいかもしれないし。
ツヴァルネア城には花畑とは別に野菜畑もある。
言わずもがな管理者はアスタロッテだ。農作業もする魔王は多分、アスタロッテぐらいなものだろう。世にも珍しい魔王もいたものだ。だからこそ今もこうして平和に暮らせているんだろうけど、とライシはつくづくそう思った。
「とりあえず、エスメラルダの食事については今後ゆっくりと話し合った方がよさそうだな……」
「うぅぅ……ご飯食べられなくなるのは嫌ですぅ」
「いや何も取り上げたり減量するってわけじゃないから」
「お腹空きましたぁ……ライシ兄上様ぁお花食べてもいいですかぁ?」
「それは止めとけ、いや割と本気で。せっかくここまで大事に育てたのに食べたら母さん確実に泣くから」
エスメラルダは納得しようとしない。
どうにかして今すぐにでも空腹を満たしたいらしい。
しかし、昼食まではかなり時間もある上に必要のない間食は原則アスタロッテが許さない。
エスメラルダは、まだまだ幼い少女だ。ワガママざかりな年頃の娘の大変さを実感したライシはハッとした顔である方向を見やる。
ライシの視線の先には鬱蒼とした森が遠くにあった。
護衛の一匹がおずおずとライシに尋ねる。嫌な予感がする、とそう言いたげな顔だ。
「あの……ライシ様? まさかとは思いますが、森の中で食料とかを現地調達するなんてことはお考えになっていませんよね?」
「さすがにそれは怒られますよ」「というか許可したら我々の首が飛びます」
「どうかここは、もっと穏便な方向で……」「我々もまだ死にたくないので」
やっぱりこうなったか、と嘆願する護衛達を前に、ライシは心中にして舌打ちをした。
「ライシ兄上様ぁ……」
はぁ、と溜息を一つ。ライシはもう一度護衛の方を見やる。
「……本当にすいません。少しだけでいいんです。ちょっとだけ森の中に入ってもいいですか?」
護衛の悪魔をはじめ、アリッサやエスメラルダもあっと驚きの
「ちょ、ちょっとおやめくださいライシ様!」
主人の子息が家臣に頭を下げる。これは前代未聞と言っても過言ではあるまい。
当然家臣である悪魔達は酷く狼狽した。もしこのような場面を目撃されれば、アスタロッテがまず黙ってはいない。我が子を愛する彼女がどんな処罰を講じるかは、赤子でさえも容易に想像がつこう。
それでもライシは頭を下げるのを止めない。
「ご迷惑をお掛けすることは重々承知しています。だけど、その……すいません、兄貴として咎めるのがきっと正解なんだろうけど、やっぱりどれだけワガママ言ったりしてもこいつらはかわいい妹なんです」
「ライシお兄様……」
「ライシ兄上様ぁ……」
頭を下げるぐらい安いものだ。一度だけ護衛の悪魔らを一瞥し、もう一度ライシは頭を下げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます