第二章:10年って長いようで短い

第4話:そして、10年の月日が流れた

 朝、城内が未だ静寂と眠りに就いている中で少年は一人で外に出た。

 城門は固く閉ざされていて、夜通し見張りをした門番もこっくりこっくりと船を漕いでいる。

 彼らの監視の目を搔い潜ることは、もはや少年にとって容易い。

 難なく城を抜けた少年の足取りは、そのまま森の方へと向かう。

 木々が生い茂る森は若干薄暗く、どこか不気味な雰囲気を醸し出す。

 少年はお構いなしとどんどん奥へと足を踏み入れ、やがて開けた場所に出た。

 広々とした空間、目を惹くような物は何一つない。

 広いだけで殺風景なこの場所こそ、少年にとっては大切で憩いの場所でもあった。



「それじゃあ、今日もやりますか……」



 城を出てからずっと、後生大事そうに抱えた剣をすらりと鞘から抜く。

 刃長はおよそ二尺寸約66cmと、小柄な体躯の少年にはやや大きめ。

 ショートソードに部類される剣も、少年にとってはロングソードに匹敵した。

 お構いなしに少年は、自分の身の丈に不釣り合いなその剣を豪快に振るう。

 ぶんぶん、と虚空を斬る度に大気が重く唸りを上げた。


 ――前世でも剣を振るっていたし。

 ――だったらこっちでもやっておいて損はないだろ。


「なるほど。朝早くからどこかへ出掛けているかと思えば、そういうことか」

「げ」と、少年は恐る恐る後ろを振り返った。



 どこでバレたのだろう。少年に心当たりは、ない。

 大木に背を預けたその悪魔の登場に、少年は訝し気に見やる。

 アモンのくちばしから小さな溜息がもれた。



「いくら貴様との契約があるとは言え、あまり視界の外でうろちょろとされるのも迷惑なのでな。自分がまだ十歳の童であるということを忘れるな」

「……わかってますってば」



 かつて赤子だった少年は今年で齢十を迎える。

 契約期間の折り返し地点にある少年のこれまでの人生は、とても輝かしいものだった。

 新しい家族や仲間達とすごす時間は、人間と悪魔という垣根を越えて少年の心に豊かさと平穏を大いにもたらす結果となった。笑みを絶やしたことがないぐらい、騒がしくも楽しい。そうした日々にいつしか少年の中で、魔王のフリをするという罪悪感と恐怖は少しずつ消失した。

 誰もツッコまないんだもんなぁ、俺のこと。少年はすこぶる本気でそう思う。

 アスタロッテの息子としての要素が少年にはまるでない。

 元が人間なのだから当たり前のだが、それについて言及する者は誰一人としていなかった。


 ――でも、もうあれから十年も経つんだよなぁ。


 時の流れとは本当に残酷だ。少年は改めてその事実と向かい合った。



「それと修練に励むのは熱心だが、あまり一人で出歩くことは感心しないし、勧めもしない」

 呆れた様子のアモンに、少年はわずかに顔をムッとさせた。

「いや、だってですねアモンさん。俺だってその、たまには一人の時間がほしいんです」

「……気持ちはわからんでもない。しかしいずれはバレるし、バレた後小僧の自由がなくなる可能性は十分にあるぞ」



 少年が目をぱちくりとさせた。アモンの言葉の意味が、少年にはわからない。



「どうして?」と、少年が尋ねるのは至極当然の反応だった。

「……考えてもみろ。未成年かつ城から離れたこのような場所に貴様一人だけ。ここで怪我でもしようものなら、まず二度とそのようなことが起らぬよう対策を施すだろう。そうなれば小僧、成人するまでずっと城で軟禁に近しい生活を強いられるやもしれぬのだぞ?」

「それは本気で困る!」

「ならば早急に戻るがいい。今ならば間に合うだろう」

「はぁ……仕方ないか」

「それと朝食後は我との修練だ。わかっているとは思うが――」

「わかってますって、あんまり胃に物を詰め込むな……でしょ?」

「わかっているのならばいい。ほれ急げよ小僧」



 アモンに促された少年は渋々と従う他なかった。

 中途半端に終えた修練による余韻は、未だ少年の魂にてくすぶる。

 あそこからが一番楽しいのに、とそういくら嘆いても自由を天秤に掛ければどちらが正しいか。

 答えがわからないほど少年も愚かではない。

 ここは自分が大人になるしかないのだ。少年はそう自らに言い聞かせた。



「――、おはようございます! ライシお兄様!」

「あぁうんおはよう。毎度毎度言ってるけど、入室する際はちゃんとノックしてから入ろうな?」



 ノックもなしにどかどかと入室した小さな少女に、少年の顔は呆れてこそいるが微笑ましく少女を見守る。

 ライシ――それが少年が新たに与えられた名前である。



「もう、今日はアリッサがライシお兄様を起こそうと早起きしたのに、どうして私より早起きしてるんですか!?」



 群青色のショートボブをした少女――アリッサは大変ご立腹な様子だ。

 頬をぷくっと膨らませて抗議する辺り、外見相応の反応と言えよう。

 本人は怒っているつもりでも、ライシの目にはやはりかわいい妹とにしか映らない。

 むろん、そのことを衝撃に言えば機嫌を損ねるのは火を見るよりも明らかなので、ライシはあえて黙った。



「ライシお兄様!」と、怒気を示すアリッサ。



 返答を急かす妹にライシはふっと微笑んだ。



「せっかく起こしにきてくれたのに悪かったな。たまたま、そうたまたま今日は早起きしちゃったんだよ。次は頼んでもいいか?」

「もう、約束ですよ?」と、アリッサ。だが間髪入れずに「あっ! そうですわ!」

「どうしたんだ?」

「ライシお兄様を起こせるように今日から毎日この部屋にお泊りします!」



 名案だとでも言わんばかりの挙措に、ライシは苦笑いを浮かべた。

 それだけは絶対に許さない。円らな瞳をキラキラと輝くアリッサを、ライシはやんわりと咎めた。



「それは素晴らしい名案だけど、さすがにオススメしないぞアリッサ」

「どうしてですか!? こんなに素晴らしいアイディアなのに!」

「そうだな。だけどな、色々と危ないんだよ」



 悪魔の成長スピードは人間よりも遥かに早い。

 十代ともなれば肉体はほぼ大人のそれと同格である。

 アリッサはまだ十代未満の少女だがそこは悪魔。精神年齢だけは穢れを数多く知った大人のライシにはいささか刺激が強すぎた。血の繋がりがなくともアリッサは妹だ。妹に手を出す兄など、もはや最低以外の何物でもない。過ちは絶対に犯さない、ライシは自らにそう固く誓いを立てた。


 ――でも、絶対に将来は美人になるんだろうなぁ。

 ――それは兄貴として是非見てみたい。



「――、というわけだからお泊りは禁止で。人間も悪魔も、それが当たり前と思った瞬間に有難みを忘れてしまうどうしようもない生き物だ。アリッサが毎日、俺の部屋まで来てくれるからこそ俺も、あぁアリッサが起こしに来てくれた嬉しいなぁって感謝できるってわけだ」



 まくし立てるようなライシの主張に、アリッサはどうも理解できないのかきょとんと小首をひねる。



「……要するに、アリッサが俺の部屋に来てくれるのが嬉しいってことだ」

「なるほどわかりました! それじゃあ明日からはいつも通りに起こしに来ますね!」

「ちゃんとノックするのを忘れずにな」

「大丈夫です、次からはちゃんとノックしてから入ります」

「よろしい――それじゃあ朝ごはんに行くか」

「はいライシお兄様! それじゃあ、どうぞ」

「ん?」



 両手を差し出すアリッサに対し、ライシははてと小首をひねる。

 何かを強請っているのか、と怪訝な眼差しを向けるライシにアリッサは再度催促した。



「どうぞ!」

「いやだから、何がどうぞなんだ?」



 妹の思考がまるでわからない。

 お手上げ状態のライシにアリッサが痺れを切らした。



「ですから! お洋服のお着替えをお手伝いしますので、脱いでくださいってことです!」

「あぁ、そういうことか」



 ようやく合点が言った。

 だったら最初からそう言えばいいものを、と思いながらライシは納得したと手をぽんと叩く。



「悪いなアリッサ。これはもう寝間着じゃない。もう着替えてるから気を遣わなくていいぞ」

「なっ……なんて恐ろしいことを!」



 がっくりとアリッサは項垂れる。その顔はこの世の終焉が訪れたかのような、絶望の色に染まっている。そんなにショックだったとは思いもよらなかったライシだが、同時に呆れた顔も浮かべていた。



「そんなにショック受けることはないだろ」

「何を言うのですか! アリッサにとってライシお兄様の生お着替えをこの目にしかと焼き付ける……その幸せが奪われた私の気持ちがライシお兄様にわかりますか!?」



 わかるわけないだろうが。ライシは盛大な溜息を吐いた。

 どこでどう、この妹の教育を間違えたのだろうか。

 若くして歪んだ性癖に義理の兄として、妹の将来がただただ不安で仕方ない。


 ――ちゃんとした結婚相手、俺がなんとか見つけてやらないとな。

 ――これも兄としての務め。


 景信はそっと握りしめた拳を静かに見下ろした。

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