第3話:今日から始まる新生活
広大かつ美しい夜空を背にして空を飛翔する。
人間ならばまず、早々経験できないであろう体験に赤子の顔からはすっかり不機嫌さは消失していた。
身の丈はあろう漆黒の双翼を持つアモンだからこそ成せる業である。
ぐんぐんと景色は流れ、若干肌寒さを憶える風が頬を少しばかり強めに撫でていく。
こんな経験がまさかできるなんて! 赤子ははしゃぐ姿は正に外見相応だと言えよう。
「おい小僧、あまり暴れて落ちても知らんぞ」
「あ、はい……すいませんです」
「……急に冷静になるな。まったく、赤子の姿をしているだけに妙な気持ち悪さがあるな貴様は」
「すいませんねぇ気持ち悪くて。それで、これからいったいどこに向かってるんです?」
目的地について、赤子はまだ何もアモンから聞かされていない。
同様に交わした契約内容も然り。
「案ずるな、向こうに着けばすべてわかる」
「向こうって言うのは?」
「我が主が住まう城だ」
「城? ん? 城ってことはもしかして……」
赤ん坊の顔からみるみる血の気が引いていく。
「も、もしかしてですけどその城っていうのは……」
「ほれ見えてきたぞ小僧」
とアモン。
質問の最中だったが、釣られて赤子は視線をそちらに向ける。
――な、なんじゃありゃあ!?
前方、遠く。小さくもしっかりと視認できるそれに赤子は絶句した。
視線の先には巨大で
驚くことに城の周辺はまったく禍々しくない。
近辺には色鮮やかな花が咲き乱れている。
「あの、ここって本当に魔王が住んでいるんですか?」
たまらず赤子はアモンに尋ねた。
魔王……悪魔の中でももっとも強い者の総称。
魔王が住まう土地なのだから、もっとおどろおどろしく人が容易に踏み入れない場所。
赤子の脳内では少なくとも、このイメージが強くあった。
視界に映る城にそのイメージはまったくと言っていいほど皆無である。
恐怖や不気味さと言った要素が、魔王城には全然ない。
月光を浴びて照らし出される外観も白色と清楚な雰囲気を醸し出す。
これじゃあまるでメルヘンじゃないか! 内心でツッコミを入れる赤子を他所に、アモンは地上へと降り立つ。
ぎぎぎ、と開放された城門を潜った二人をまず、悪魔達が出迎えた。
人型でこそあるが、一様に人外である。
「おかえりなさいませアモン様」「どちらへ行かれていたのですか?」
「おや、その赤子は……」「もしかして、とうとうお生まれになったのですね!」
悪魔達が次々とアモンの周辺へと群がり、矢継ぎ早に言葉を投げる。
「落ち着け皆の者。アスタロッテ様のご子息はまだ生まれて間もない。アスタロッテ様の命令に従い、月が良く当たる外で月光浴をしてきたばかりだ。ご子息も相当疲れているだろうから、今はもう少し静かにするように」
アモンの威厳に満ちた一言に、それまで騒ぎ立てた悪魔達が一斉に頭を下げた。
アモンが如何に城内で地位の高い悪魔であるかを知らしめる光景に、赤子も内心で。すげぇ、と感心した。
――どうでもいいけど、さっさとここから立ち去りたい。
魔王とその配下が住まう城に、人間がぽつんと一人きり。
とても落ち着ける状況ではないし、入城してからの赤子の心境は穏やかとはもっとも遠い位置にある。
「――、いい加減に教えてくれませんか? 俺に何をさせるつもりなんですか?」
ようやく悪魔の群れから離れ、家具一つない殺風景な空き部屋にて。
移された籠の中で赤子はしびれを切らした様子でアモンを問い質した。
「ならば教えてやろう小僧。貴様が交わす契約とはただ一つ、このツヴァルネア城の主であるアスタロッテ様の息子として振る舞うのだ」
「……はい?」と、素っ頓狂な声を出す赤子。
こいつはいったい何を言ってるんだ? 怪訝な眼差しを向ける赤子に、アモンは静かに答える。
「……アスタロッテ様には一人の息子がいた。はじめてできた子供だ、あれほど嬉しそうに笑うお姿を見たのはきっと生まれて初めてと言っても過言ではなかろう」
「ちょっと待ってください。
「……なかなか察しがいいな小僧。そうだ、貴様が想像しているとおりだ」
どう声を掛ければ赤子にはわからない。
安易な声掛けは返って相手を傷つけるだけ。
例え悪魔であろうと、死を悲しむ者であることにはなんら変わらない。
沈黙を貫く。それがこの場ではきっと最適解だ、と赤子は判断した。
しばしの静寂の後、アモンがゆっくりとだが静寂を切った。
「アスタロッテ様は子供を産めなかった。いや、産んだ時には既に事切れていた。初めて産んだ我が子がその日に亡くなるという瞬間を冷静に処理できる母親が果たしてこの世のどこにいようものか。酷く錯乱され、今はなんとか我の睡魔の魔法によって深き眠りに就いておられるが……」
「…………」
「それも時間の問題だろうな」
「……それで俺に、赤子のフリをしろってことですか?」
「そうだ」と、淡々と告げるアモン。
いくらなんでも無茶苦茶だ。赤子は言葉を失った。
赤子はあくまでも人間である。とても悪魔の子のフリをすることなどできない。
加えてアモンが赤子へと持ち掛けたこの契約は、アモン自身にも相当な危険が及ぶ。
赤子もそのことをアモンへと指摘した。
「アモン……さんもかなり危険すぎますよ」
「なんだ。人間のくせにこの我の身を案じるのか?」
「そんなこと、今はどうだっていいじゃないですか。バレたらアモンさんだって、よくも偽物を連れてきたなって最悪殺されるかもしれないんですよ?」
「そうだろうな。だが我はそうなったとしても構わん」
「どうして?」
アモンの揺らぎない、力強さにあふれたその返答に赤子は小首をひねった。
まったく迷いがない。己の命を差し出しても構わない。それだけの覚悟を赤子もなんとなくながらも感じた。
「我にとって心苦しいのは、アスタロッテ様が苦しんでおられるお姿を見ることだ。あの御方が苦しんでいるのであれば、どんな手段を用いても我はお救いしたい。そこでアスタロッテ様に殺されたとしても、仕える者として本望よ」
アモンの気迫に赤子は言葉を失った。力がまるで籠らない拍手を送るほどに、赤子の心は大きな衝撃を受けた。
「貴様がアスタロッテ様の息子として過ごす期間は二十歳まで。成人を迎えれば貴様も自由だ、それまでの間を小僧、貴様はこの城で我以外の誰にも悟られることなくすごす。それが契約の内容だ」
「……二十年、か」
それは短いようで、とても長い。
バレれば即死という極めて危険な道が、赤子の前に立ちはだかった。
「……わかりました。どこまでできるかわかりませんが、やってみます」
赤子は意を決した面持ちで答えた。
「……いいんだな?」
「覚悟はできてます。その契約、やらせてください」
――どっちみち、ここで断ったら俺は死ぬんだ。
――それだったら俺だってなんでもやってやる。
――魔王の息子としてなにがなんでも生きてやる!
赤子の瞳にもはや迷いはなかった。
「決まりだな――ならば小僧、我も一つ貴様に誓いを立てよう。契約が終えるその日までこのアモン、貴様をありとあらゆる障害から守る剣となり盾となろう」
「……なんだか変な気分ですけど、よろしくお願いします」
「せいぜい我のために励めよ小僧」
「言われなくても。生きてここから出るために俺もせいぜい利用させてもらうので、そのつもりで」
ふっと微笑む両者はふんわりと優しい握手を交わした。
「では早速だが小僧、アスタロッテ様の下へ向かうぞ」
「え? 今からですか!?」
「当然だ。我の魔法ではアスタロッテ様には到底敵わん。恐らく直に目を覚ます頃合いだろう」
「じゃ、じゃあ早くいかないとやばいんじゃ……」
「だから急ぐぞ小僧。しっかりと掴まっていろ」
アモンに抱えられて着いたその部屋の扉は、他とは違って大層豪勢だった。
赤を主体に黄金と宝石で装飾されている。豪華絢爛さから、この城主が利用するに相応しい。
「ア、アスタロッテ様……」
開放した扉のすぐ向こう。生地の薄い赤のネグリジェを纏った美しい女性がいた。
端正な面持ちと腰まで届く色鮮やかな
青色の肌と側頭部よりまっすぐと伸びる漆黒の双角。金色の瞳と魔の要素もしっかりと兼ね備えている。
魔王アスタロッテ。
ツヴァルネア城の主を前に赤子はすっかり見惚れていた。
その一方でアモンの
「ア、アスタロッテ様起きていらしたのですか。ご子息をお産みになられてからまだ時間は経っておりません。どうかご自身の身体を今はご自愛――」
「アモン……」
玲瓏、まるで球を転がすような声が室内に鳴った。
たった一声だけで、アモンの全身が異様に強張った。
それを彼の腕にいる赤子も当然感じる。
アモンが明らかに恐怖している。目の前にいる美女がそれほどの相手とようやく理解した赤子は、天に祈る気持ちで二人のやり取りを静観する。
どうか無事に済みますように。そう切に祈ることが赤子の精一杯だった。
「なんだか悪い夢を見ていた気がするの。産まれた子供が死んじゃう、そんなとっても悲しい夢……ねぇアモン。わたしが見たのは、きっと悪い夢よね?」
一拍の間の後、アモンがハッと我に返った。慌ててバッと頭を勢いよく下げる。
「も、もちろんです。アスタロッテ様が見られたのは恐らく、出産による急激な体力の低下による幻覚のようなもの。その証拠にここにアスタロッテ様のご子息がおられるではないですか」
「あ、あーばぶー」
無言の圧力が赤子に重く伸し掛かる。
圧力を掛けたのは言うまでもないアモンによるもの。
鋭い眼光は赤子に、もっとまともに演技ができないのか、とそう叱責している。
それができれば苦労しない、と赤子も負けじと睨み返した。
水面下における二人の睨み合いは、呆気なく終わりを告げる。
アスタロッテ様の細くきれいな両腕が赤子をそっと優しく包み込んだ。
アモンからアスタロッテへと渡った赤子は、ごくりと生唾を飲み込む。
とにもかくにも、アスタロッテはデカい。
触れれば柔らかく、しかし弾力もしっかりとある。
赤子の頬に透明の雫が一滴優しく打ったのは、アスタロッテを見上げたのとほぼ同時。
さながら黄金のように煌めく妖艶にして美しい瞳から、次々と涙があふれては赤子の頬をぽたぽたと打つ。
悪魔でも泣くんだ。アスタロッテの抱擁を受ける中で、赤子はふとそんなことを思った。
「よかった……私の赤ちゃん……私の大切な赤ちゃん……」
「改めましてご出産、おめでとうございますアスタロッテ様」
「これからはずっとママといっしょでちゅからね~」
「ば、ばぶぶ~」
大根役者にも程がある、と自覚する手前赤子ははてと内心で小首をひねった。
――よくよく考えたら、やっぱりこれすぐバレるんじゃね?
――だって肌の色とか雰囲気とか明らかに違うし。
――もしかして俺、二十年も生きられないかも……。
一抹の不安に、赤子の頬がひくりと吊り上がった。
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