知っていること


 一人でも狭いくらいの浴室。

 兄に先に使ってもらうことになった。私は、ドア一枚隔てた場所でスマホを弄っている。

 浴室から声が聞こえた。

 

「俺、大きい風呂に良い思い出ないんだよな」


 ホテルに着く直前、私は近くに見つけた温泉施設へ行くことを提案した。すると兄は、

 

『折角温泉に入るのに、帰りに歩いて汗をかくのは嫌だ』


 と言って却下したが、実はそうではなかったらしい。

 曰く、高校の修学旅行か何かで温泉に行ったとき、派手に転んで上の歯を折ってしまったそうだ。

 

 知らなかった。

 案外知らないものだ、とその時の私は思った。

 私達は兄妹で、同じ屋根の下で暮らしている。特別仲が良いわけでも、悪いわけでもない。

 いや、こうして二人で出かけているあたり、仲が良い方なのかも知れない。

 友達よりは多くを知っていて、恋人よりは何も知らない。それが、私にとっての兄だ。


「上がったよ」

 

 兄が浴室から出てくる。髪から落ちた滴が、狭い部屋に敷かれたマットを濡らした。

 

 きっと、私の知らない兄がたくさんいる。

 そのうちのいくつかは、何れ私も知ることになる。

 そして多分、その殆どは、私が知ることは無いのだと思う。

 

 

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