12.特別をちょうだい
弓弦くんと綾ちゃんが付き合っていると噂になったことの思わぬ弊害が、私を理不尽に襲っていた。
「え、あれ?全然かわいくないじゃん。調子乗ってる系?」
「そうそう。二股してたってね」
こうして私の根も葉もない、とっくに賞味期限切れになった噂を引っ張り出して、面白おかしく私を傷つけてゆく人が現れたのだ。綾ちゃんへぶつけられない苛立ちを私で解消しているとしか思えない。
もちろんそんな人たちはごく一部だが、どれだけ少なかろうが存在しているのだ。噂であろうが、これ以上私を弓弦くんと結びつけないでほしい。忘れようと必死な感情を呼び覚まさないでほしい。
9月中旬、1週間後に迫った体育祭に向けて学年ごとに合同練習を行うことになっていた。
1日に一学年、5限と6限を使って行われるそれの初日が今日、一年生から始まった。普段は体育の授業中に2クラスでしか合わせられない行進や入退場を学年全体で合わせる、謂わば予行の予行みたいなものである。
その5限と6限の間の休憩時間に問題は起こった。
一人お手洗いに行った私は予鈴が鳴ったのを聞いて、授業に遅れないように小走りで運動場を横切っていた。元より運動神経が良くない私が焦りながら走る様が、彼女たちの目には滑稽に映ったのだと思う。「胸揺らして男誘ってんなよ」と蔑みながら発した言葉と共に、私の足元に唐突に出された足。突如現れた障害物を私が華麗に避けられるはずなどなかった。
漫画なら"ビターンッ"とか"ズサーッ"とか、とにかく大きな効果音が描かれていたことだろう。しかし、それほどの衝撃だったにも関わらず、突として起こった出来事に私は放心状態だった。そんな私の意識を覚醒させたのは、私を転ばせた張本人の「ダッサ」という嘲笑であった。
ハッとして辺りを見回せば、そこかしこから視線が降り注いでいる。近くにいた先生が「大丈夫か?!」と駆けつけてくれたが、私はこの状況が恥ずかしすぎて、一刻も早くここから逃げ出したくて、「平気です」と勢いよく立ち上がった。
白い体操服は砂で薄汚れているし、膝からは血が出ている。これほどの怪我をしたのは久しぶりだ。
「保健室に行ってきなさい。えっと、保健委員誰かな?」
「あっ、大丈夫です!一人で行けます!」
こんなことに保健委員の子を借り出すのは申し訳ない、と私が顔を左右に振れば、先生も納得してくれたようで「6組には伝えておくからな」と見送ってくれた。
私が保健室の扉をノックしたその瞬間に本鈴が鳴り、授業の始まりを告げる。今更ながら故意に足をかけた女子生徒に怒りが湧いてきたが、問い詰めても「わざとじゃない」とシラを切られる可能性が高すぎて……そんなことに労力を割く気にはなれない。そもそも問い詰めること自体が怖い、関わりたくない、というのが一番の本音であるが。
私の怪我を確認した保健室の先生は「顎からも血が出てるよ」と、消毒液を染み込ませたコットンを傷口に優しく当てた。チリッとした鋭い痛みを感じ、思わず顔を顰めてしまう。
気づいていないときには痛みを感じなかったのに。一度気づいてしまえばヒリヒリと痛みを訴えてくる傷口。このまま気づかない方が良かったな、とこれは何に対しての想いなのだろうか。気を抜けば頭に浮かんできては、私の思考の真ん中に悠然と鎮座している弓弦くんを必死に黒く塗りつぶしていた。
「お邪魔しまーす」
「あら、弓弦くん。また仮病?それなら許さないわよ」
「違いまーす。怪我したの、俺も」
なんの予兆もなく急に開いた扉。先生の視線の先にいるであろう彼の方を見ることができない。痛みに耐えているふりをして、拳を握り締め俯いたままの私を、先生は「そんなに痛む?」と優しく気遣ってくれた。
はい、痛いんです、胸が。苦しいんです、心が。
心の中で答えながら、私は「大丈夫なので、戻ります」と椅子から立ち上がった。「お大事にね」の言葉に「ありがとうございます」とお礼を告げ、保健室の扉に向かう。広くはない保健室ですれ違った
弓弦くんの腕と私の体操着が触れた。あっ、好きだ。と、思わず足を止めてしまいそうになった。
「次は弓弦くんね。いったいどこを怪我したの?」
「あー、治った」
到底納得のできない弓弦くんの言い分に、先生は「なら、あなたも授業に戻りなさい」と呆れた声を出す。耳がその会話を勝手に拾ってしまった私の身体からも、がっくしと力が抜けた。
「あ、白兎さん!弓弦くんのこと連れて行ってあげてくれない?」
「え……」
「この子、授業サボりの常習犯だから!お願いね」
先生は明るくそう言うと、「さぁ行った行った」と、弓弦くんを私と共に保健室から追い出した。
誰もいない廊下に2人。気まずいったらない。いや、私はもう弓弦くんとは関わらないんだから。先生に頼まれたとはいえ、私が絶対しなきゃいけないってことはないんだし。弓弦くんがサボろうがどうしようが、私には……関係ない。
弓弦くんを振り切るように、私は廊下を歩き出した。しかしそんな私に向かって、弓弦くんは面白くなさそうな声を上げる。
「おい、おいって!聞こえてんだろ?白兎、」
「……関わらない、近づかない!」
「ははっ、……俺らの三原則みてーだな。あと一つは?」
私はふざけているつもりなどないのだけれど。そもそも弓弦くんもそう言ったでしょう?私たちにはそれが一番いいんだよ、と弓弦くんの楽しげな声に少し苛立ちを覚えた。しかし弓弦くんは、質問に答えない、目も合わせない私の想いなど汲み取る気はないようで「なぁ、あと一つは?」と、同じ質問を繰り返した。
「……好きにならない」
私がそれを口にした瞬間、まるで時が止まったように深い静寂が訪れた。先ほどまで運動場で流れていた、運動会で使用される定番の音楽も聞こえない。
だけれど私はその静寂に過ちを責められているようで、居た堪れない心地になってしまう。「私、もう行くから」と少しでも罪悪感を和らげようと、その場を離れ始めた私の背中に向かって、弓弦くんの気怠げな声が投げられた。
「……あー、ごめん。俺、それぜーんぶ守れねーわ」
そして私がその言葉の意味を理解する前に、今度は凛とした声で。
「俺さ、お前のこと好きなんだよね」
と、告げたのだった。
人は理解の範疇を越える出来事に出会すとどんな行動を取るのだろうか。私の場合は逃げた。もう全部怖くなって、考えるのが無理すぎて、逃げた。
クラスメイトたちの元に息を切らしながら戻れば、明里ちゃんが「顔色悪いけど大丈夫?」と心配そうに私の顔を覗き込んだ。大丈夫じゃない、とはもちろん言えない。だけど、大丈夫、はあまりに嘘っぽい。「ちょっと貧血気味かも」と無難に濁せば、「休んどきなよ」と優しい言葉にチクリと良心が痛む。だけど言えない。本当か嘘かの判断もつかない弓弦くんの告白に戸惑っていること。弓弦くんって綾ちゃんのことが好きじゃないの?なに企んでるの?と、戸惑いながらも、確かに嬉しいと感じていること。言えるわけがなかった。
ロングホームルームが終わり、帰りの号令がかけられた後は大半の生徒は部活へ向かう。体育祭の時期でもそれは変わらない。し、教室を我先にと出て行く生徒もいつもだいたい同じだ。
「わっ、びっくりした!え?白兎?いるけど」
今日も誰より先に、教室を飛び出すように出たクラスメイトの声が廊下から聞こえた。名前を呼ばれた気がしたけれど、私を呼ぶわけないか、と空耳だな、と結論づけたその時に。
「白兎!」
と、私が呼ばれた事実と、私を呼んだ人物に教室がざわめいた。体育祭で有志の応援合戦に参加するため、その練習場へ「急いで行かなきゃ」と慌てていた子たちも思わず足を止めている。
「…………、」
「おい、帰るぞ」
「…………」
なにも驚きすぎて声が出なかったわけではない。もちろん驚いたのは驚いたが。だけどそれよりも、綾ちゃんがいる教室で私を名指しして、さらに「帰るぞ」と言ってのけた、弓弦くんの無神経さに何も返せなかったのだ。綾ちゃんの気持ちも、私の気まずさや立場も、これから私がなんて噂されるかも、弓弦くんはちっとも考えていない。
「佑ちゃんと帰る約束してるから」
「佑希には断ってきた」
「え?」
「帰るぞ」
私の手首を掴み、私の荷物を手に取り、弓弦くんは教室を出て行く。「え?どういうこと?」「綾ちゃんと付き合ってるんじゃないの?」「宗実さん可哀想すぎない?」と、戸惑いを孕んだクラスメイトたちの声が後ろ髪を引くが、そこを振り返る勇気はなかった。
「待って、弓弦くん、困る!」
「こうでもしないと、お前また逃げるだろーが」
「だって、……発情、」
「あっ、わりぃ」
弓弦くんにしか聞こえないほどの声量で私がその単語を呟けば、掴んでいた私の手首をすぐに離してくれる。弓弦くんって、本当分かんない。
「逃げないから」
「…………うん」
小さな子供みたいに口を尖らせ、たっぷりと間をとってから頷いた弓弦くん。「拗ねてるの?」と揶揄ったら、もっと不貞腐れてしまうだろうか。並んで歩く私たちを無遠慮に指差し、「やっぱ付き合ってんの?」と噂する人たちのことも気になるけれど、それよりも私は目の前で拗ねている弓弦くんに心を傾けたい。
私を誘ったのは弓弦くんなのに、結局彼は一言も発しないまま私の最寄り駅に着いてしまった。私も何を話せばいいのか分からず口を閉じていたので、私たちはずっと無言だったわけだ。だけど不思議と悪くない居心地は、私の心をさらに戸惑わせた。
「……俺、佑希に言ったんだよ」
「な、にを?」
電車を降りた途端、突然発言した弓弦くんに言葉を返したが、私も久しぶりに声を出したので第一声が喉に絡んで上手く発声できなかった。恥ずかしさに俯きそうになった私の顔を、「お前のことが好きだって」と言った弓弦くんの言葉が引っ張り上げた。
「うそ……ほんとに好きなの?私のこと?」
「おー、そうっぽいな」
「それは、その、私が、その」
「いや、お前の病気は関係ない」
弓弦くんは要領を得ない私の言葉を紐解き、私が聞きたかったことをズバリと言い切った。
「俺も初めは性欲と混同してるかも、って考えた。ほら、お前んちどっち?送ってくわ」
「あ、ありがとう」
付かず離れずの距離を保ちながら歩く私たち。弓弦くんは先程の話を続けた。
「この気持ちがなんなのか分かんなかったんだよ。けど分かった、俺お前のこと好きだわ」
「……分かんない。私が分かんない。どうやって好きだって分かったの?」
その気持ちを確かめる術を知っているなら私に教えてほしかった。だって私も分からないのだ。弓弦くんを見るたびにどうして泣きたくなるのか。弓弦くんと触れ合うたびに細胞から生まれ変わってゆくような喜びはなんなのか。立ち止まって踏ん張ろうとしても、風に背中を押されたように自然と歩み寄ってしまう足の意味を。
「教えてよ……」
「あ?俺はお前が泣いてるとその涙を拭ってやりたいと思う。しかも、他の誰にもその役目を渡したくないんだぜ?」
そーとー好きじゃね?、と観念したように笑って、躊躇うように私の顎を指先でなぞった。
じゃあなんで綾ちゃんとデートしたの?一緒に登下校したの?思わせぶりな態度を取って、不必要に傷つけたの?佑ちゃんはなんて言ってた?怒ってなかった?それとも気にしてなかった?
聞きたいことは山ほどあるのに、その指先から漏れ伝わる愛情に自然と涙が溢れた。
「怪我痛くね?」
「……痛い、」
「早く治るといーな」
今日できたばかりの擦り傷を避けていた指先が、私の溢れ落ちる涙に触れる。私を見つめる瞳が優しくて、それが一層涙を溢れさせた。
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