13.私だけのユートピア

 家のインターホンが鳴ったその瞬間、私は誰が来たのかを悟った。私がパネルで確認するより先に玄関の扉が開く。


「お疲れだったね、みちる。また鍵閉まってなかったよ?」

「あっ、……うん、佑ちゃんも、お疲れ様」

「僕は別に。入っても?」


 疑問系でありながら私に断る隙を与えない言葉に大きく頷けば、佑ちゃんは「お邪魔します」と丁寧に靴を揃えた。


「部屋行く?それともリビングにする?」

「今日おばさんは?」

「仕事だから」

「そう、ならリビングにしようかな」


 話もそんなに長くならないし、と佑ちゃんは洗面所で手を洗いながら答えた。長くならなかろうが話したいことがある事実、そして分かりきったその内容に今すぐ逃げ出したい気持ちだ。

 だけど佑ちゃんはそんな私の心を見透かしたのか、人好きのする敵意のない笑顔を浮かべて私の警戒心を解こうとする。しかしそんなことでは私の緊張は解れない。それさえも分かっているはずなのに、佑ちゃんはにこにこと笑顔を絶やさずソファに腰を下ろした。


「楽しかったかい?圭斗と2人で帰るのは」

「……あっ、佑ちゃん、私」

「圭斗はみちるのことが好きだって言ってたよ。聞いたかな?」

「…………」


 私の返答など端から期待していなかったのかもしれない。"話は長くならない"との宣言そのままに、佑ちゃんは流れるように言葉を放った。


「圭斗のことだ、言ってるだろうね」

「……うん。あの、佑ちゃん!」

「ん?どうしたんだい、みちる。何も僕に申し訳なく思う必要はないさ」

「佑ちゃん、でも私、」

「でも?私は?"佑ちゃん"のことが好き?」


 ゆっくりと丁寧に紡がれたその言葉を受けて、私はいよいよ何も言えなくなってしまった。たった2ヶ月ほど前の私ならば、病気への後ろめたさはありながらも、気持ち的にはなんの躊躇いもなく「佑ちゃんが好き!」と愛の告白をしていただろう。だけどそれが今はどうだ。こうやって佑ちゃんに促されても、「佑ちゃんが好き」だという台詞をなぞることができなかった。

 言葉に詰まる。喋り方を忘れてしまったみたいだ。静寂に包まれたリビングで、時計の針の音がやたらと大きく感じ、唾を飲み込む行為にさえ神経を張り巡らせた。


「……良かったじゃないか」

「え?」

「良かったね。みちるも圭斗のことが好きなんだろう?」

「それは……」


 予想もしていなかった言葉をかけられて冷や汗が流れる。"良かったね"と和かなはずの佑ちゃんの笑顔に薄ら寒さを覚えたのだ。


「それは?」

「……分からない、の」

「そうかぁ。それは困ったね。だけども僕には好きそうに見えたよ?まぁ、でも焦らずに、みちるの気持ちに向き合えばいいからね」


 それじゃあ僕は帰るよ、と佑ちゃんは立ち上がる。「じゃあ、また明日ね」と手を振った佑ちゃんを見送ったその直後、極度の緊張から解放された私は膝から崩れ落ちた。そして会いたいと思ったのだ。他の誰でもない、弓弦くんに。これを恋と呼ばずして、なにを恋と呼ぶのだろう。





 帰り道に交換した連絡先へ迷わず助けを求めた私。弓弦くんはほぼほぼ家に帰っていたにも関わらず、迷わず「今からお前んち戻る」と通話を切った。


 勢いに任せて「会いたい」だなんて言ってしまったことに、私自身が一番驚いていた。弓弦くんにはかなり迷惑な行為だということは重々承知しているが、しかし困ったことに後悔の念は一ミリたりともなかった。……弓弦くんに申し訳ない気持ちはもちろんあるけれど。




 電車で30分ほどの距離を引き返してきた弓弦くんは、私の顔を見るなり「大丈夫か?!」と血相を変えて私の肩を掴んだ。


「えっ?」

「……あ?」

「大丈夫、だよ?」


 そして深い呼吸を一つ。


「あっ、発情したんじゃねーのか」


 と、安心したように眉尻を下げた。

 どうやら弓弦くんはそれを心配しながら駆けつけてくれたみたいだ。確かに発情していない状態の私が、弓弦くんに「会いたい」と言うなんて想像できないか。


「うん、してないよ、それは大丈夫」

「そーか。……ってかさ、さっきの俺めっちゃ必死だったよな?」


 弓弦くんは自分のことを「ダサすぎた」と表し、堪えきれないと言うようにケラケラと笑い出した。大きな口を開け、鼻根に皺を寄せて笑う弓弦くんに釣られて、私もクスクスと肩を震わせる。だけど、ちっとも、これっぽちも。


「ダサくなかったよ」

「……ダッセーわ」

「ううん。嬉しかった。かっこよかった」

「……そーかよ」


 弓弦くんの照れた耳はやはり赤い。そして指先で鼻頭を掻きながら「じゃあ、会いたいってなんで?」と直球で核心に触れた。

 彼の真摯な瞳が遠回しに伝えようとする私の弱い心を包み込む。誤魔化さずに伝えなければいけないと応援されてる気になって、私は彼の瞳に応えるように佑ちゃんとの出来事を話し、そして「弓弦くんに無性会いたくなったの」と本音を添えた。


 訳もなく会いたくなる心を恋と呼ぶならば、これは紛れもなく恋なのだろう。


「なに?お前俺のこと好きなの?」

「……分かんない」

「分かんないってなんだよ……」


 だって本当に分からないのだ。いや、正確には弓弦くんへ向ける感情が恋だということ、それは理解していた。だけどついこの前まで私は佑ちゃんが好きだった。しかも小学生からずーっとだ。だからこそ、こんな一瞬で心変わりするものなのか、と信じ難かったし、なんなら自分の薄情さを認めたくなくて、分からないふりをしていたかったのかもしれない。


「私……佑ちゃんのこと好きだったの、すごく」

「あ?あぁ、知ってるけど」

「綾ちゃんのことも大切に思ってるの」

「……おー」

「私、最低なのかもしれない。てか、最低だよね!?友達の好きな人だよ?好きだった人の友達だよ?」

「で?」

「?」

「お前が最低なのはよく分かった。実際最悪だよ、俺もな。で?お前はどうしたいんだよ?お前は」


 弓弦くんは目を細めて私の言葉を待っている。きつい口調とは裏腹に、その瞳は私を責めてなどいない。ただ待っている。私が私の意思で踏み出すことを。私が自分の気持ちを救い上げることを。


「私、私は……弓弦くんが、好き。弓弦くんのそばにいたい」


 口に出してしまえば私の気持ちは至極単純なものであった。そうだ、私は弓弦くんが好きで、そして彼のそばにいたいのだ。誰に許されなくても、後ろ指をさされようとも。弓弦くんが望んでくれるなら。


「……知ってる。ほら、こいよ」


 知ってると言いながら、弓弦くんはひどく安心したように目尻を下げた。こいよと言いながら、我慢ならないと言うように私を強く抱きしめた。あぁ、どうして私は彼がいいのだろう。どうして幸せすぎると涙が溢れてくるのだろう。弓弦くんの腕の中はこの世の幸せ全部を詰め込んだみたいに、甘くて、温かい。




 もういいだろ、という感情と、あと少し我慢しろよ、という感情がせめぎ合っている。


「あっ、ゆづるくん、ゆづるくんっ、もう我慢しなくていーんだよ?」


 発情を迎え、理性がグスグスに溶け切った白兎は俺の理性さえ焼き切ろうとする。必死で我慢してる俺の気も知らねーで、俺が我慢しなくなったら泣くのはお前なんだからな?!と心の中で悪態をつきながら、「お前はもう喋んな」と唇を重ねて合わせた。

 

 先ほどまで「その、エッチするのは……佑ちゃんと綾ちゃんにきちんと謝ってから」と殊勝ーーいや、余計な気遣いか?ーーなことを口にしていた白兎の気持ちを尊重してやりたいのに。病気だから仕方ないとはいえ、今や「エッチしたいよぉ」と俺に擦り寄り、顎を擦り付け、尻を振っている白兎を見ていると、我慢がきかなくなってくるのは致し方のないことだった。


 早く抑制剤を飲ませればいいのだ。そうすれば白兎は我に返り、俺はこの地獄のような拷問からめでたく解放される。だけど俺は自分の意思でそれをしていない。それはこの地獄のような時間を幸福に感じていることも、また事実であるからであった。


 毎日の抑制剤の服用で白兎は俺にしか発情しないと言う。そんな白兎が、情けない声で「ゆづくるん、ゆづるくん」と名前を呼び、潤んだ瞳で俺を必死に求めてくることが堪らなく可愛い。しょうもない独占欲と支配欲が俺の心を嘲笑うかのように擽る。

 大切にしたいのに傷つけたいだなんて。尊重したいのに支配したいだなんて。どうかしてる。だけどそんなチグハグな俺の心を象徴するような、噛み付くようなキス。それを受けた白兎は嬉々とした表情を浮かべ、「だいすき」と愛を囁くのだから。まとまらない心でもいいかと思えた。


 指先を揶揄うよに背中へ滑らせれば、白兎は面白いほどビクリと身体を反応させ、白い肌に影を作る長いまつ毛を震わせた。揶揄ったつもりが、実は俺の方が揶揄われてんじゃねーか?、と思ってしまうほど、白兎は俺を誘惑することに長けているらしい。

 もう我慢しなくていーんじゃねーか?今すぐ押し倒して、それで2人でグズグズに溶け合えたら、もうそれでいーじゃん。

 そう思うのに、シラフの白兎が泣きそうな顔で「佑ちゃんと綾ちゃんに謝りたい。きちんと伝えたい」と、俺の理性を繋ぎ止めるのだから、欲望のままに抱くわけにはいかなかった。


「……抑制剤、飲むか?」

「のむ、このままだと無理になっちゃう……」


 散々俺を煽り、誘惑してきた口で白兎は弱音を吐いた。かき集めた理性がなんとかそれを言わせてくれたみたいで、俺もこの拷問からの解放に安堵した。




 白兎はいいのだ。抑制剤を飲めば即効で性的欲求が収まるのだから。だけど俺は?


「危なかった……ほんと我慢できてよかった」


 と、もう終わったことのように話す白兎に現実を教えてやりたい気分だ。俺は今も我慢してるけど?なんならまだ勃ってっからね?、と心の中で文句を言っている俺に向かって、白兎は「弓弦くん、我慢してくれてありがとう」とふにゃふにゃな笑顔を見せた。

 その笑顔になんとも言えない気分にさせられる。可愛すぎて腹立つって、本当にあるのな。人の苦労を知らない顔で、安心し切った、俺を無条件に信用している顔だ。こんな顔見せられたら、そりゃあなんだってしてやりたくなるよ。硬さを保ったままのこいつだって気合いで鎮めてやるから。


 滑らかで僅かに赤みがさした白兎の頬に指を滑らせた。


「んっ、待って、発情しやすくなってるから」


 そんな些細な刺激にさえ、白兎は眉をしかめる反応を見せた。快感を必死で逃そうとしているその眉の動きにさえ愛しさがつのるなんて。俺もいよいよどうかしてるな。それとも、そこら中に転がっているありふれた恋全てに、こんな気持ちが内包されているのだろうか。

 それならば今まで馬鹿にしてた奴らが、「振られた」「付き合えた」「好きになった」「浮気された」「かっこいい」「かわいい」などと騒いでいたことにも納得ができた。

 こんなにも誰かに心を動かされる日がくるなんて。そしてその事実が少しも嫌じゃないなんて。


 だけどこの全てを失う日が訪れるとして、そうなれば正気じゃいられなくなるかもなぁ、と俺は今になって佑希のことを思い浮かべる。


「白兎、」

「?」


 意味もなく呼んだ名前に、白兎がくりりとした黒い瞳を輝かせた。

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