10.ウサギは耳が赤い

 群がる女の子たちをその鋭い眼光と辛辣な言葉で蹴散らした弓弦くんは、浮き輪を使い優雅に海に浮かんでいた。真夏の太陽の光を浴びて髪がキラキラと煌めいている。そしてその横には楽しそうな綾ちゃん。うん、お似合い。

 私はTシャツの上からパーカーを羽織り、しかもパーカーのフードを頭から被り、砂浜で体育座りをしている。なんとも対照的である。そんな私の横には当たり前のように佑ちゃんがいる。佑ちゃんに「泳いできていいよ?」と声をかけたけれど、それを「みちるが心配だから」と断ったのは佑ちゃんだった。


「ねぇ、綾ちゃんさ、」

「ん?あぁ、みちるも聞いた?圭斗のこと」

「うん……だから4人で海なんだね」


 やっと合点がいった今回の計画の真相。「上手くいくといいね」と言った私の小さな声を拾い上げて、佑ちゃんは「ほんとにね」とにんまりと笑った。




 砂浜に、しかも暑苦しい格好でいれば喉が渇いた。持ってきた飲み物は飲み干してしまったし、お腹も空いてきた。これは良い機会だと「コンビニ行ってくる」と言った私に「俺も行く」と手を挙げたのは弓弦くんであった。


「え、や、困る」

「あ?ふざけんなよ。おら、行くぞ」


 眉間に皺を寄せ、凄みながら顎で指示を出した弓弦くんはやはり横暴だ。その長い足でまた私を置いて行こうとする。

 それでも「私が行こうか?」と気遣ってくれた綾ちゃんの好意を断り、私は弓弦くんの後を小走りでついて行った。


 どこまで近づけば発情してしまうのだろう。それが分からない私たちは不自然な距離をとってコンビニを目指していた。知らない人が見れば、他人か知り合いかを悩むほどの距離間だ。


「佑希に聞いた?」

「えっ、あっ、まだ……聞けてない」

「あっそー。おい、お前前見て歩けよ。そんな下ばっか向いてると、」


 ほら、言わんこっちゃねぇ、と、躓き転びそうになった私を器用に抱きとめた弓弦くんの腕。私の夏にしては厚着のパーカーとTシャツ越しに感じた弓弦くんの腕。じとりとした汗が額を滑り、ぽたりと地面に濃いシミを作った。


「あっ、」

「……俺も学習しねーよなぁ」

「えっ?」

「近づかない方がいいのになぁ?」


 その言葉に跳ねるように顔を上げれば、そこには太陽を背にした弓弦くんの顔があった。逆光で表情がよく見えない。だけれどその声音が彼の切ない気持ちを伝えているようで、私はそんな弓弦くんを慰めたくて、躊躇いなく彼に腕を伸ばした。


「佑希に聞けって言っただろ?」

「うん……」

「お前が聞けないなら俺が聞いてやろうか?」

「っえ、」

「って、何で俺こんな必死になってんの?」


 そんなこと私に聞かれても分からないよ。私の伸ばした手を弓弦くんの指先がゆっくりとなぞり、そして私の指を絡め取った。私の感触を確かめるように、弓弦くんが指先を動かす。


「薬持ってんの?」

「うん、ここに」


 パーカーのポケットに視線をやれば、弓弦くんも同じようにそこに目をやり、ポケットの膨らみを確認した。


「何回分?」

「えっと、3回、」

「キスしてい?」

「っえ?」


 驚きに目を見開いた私のことなどお構いなしに、弓弦くんは私に口づける。気を抜けば間違いなく「好き」と言ってしまいそうになるほどの衝動に一番驚いたのは私自身だ。

 佑ちゃん、綾ちゃん、ごめんなさい。発情を迎えぬままにした口づけは、今までのどのキスより私の心を満たしてくれた。





 コンビニへ向かう圭斗とみちるを見送りながら、僕は宗実さんに「上手くいきそうかな?」と進捗を聞いた。


「うーん、弓弦くん手強くて」

「ははっ、そうだろうね。ま、頑張ってよ。応援してるからさ」


 と、宗実さんの肩を叩けば、彼女は頬を赤く染めて頷いた。


 



 それは夏休み前のことであった。突然宗実さんから電話が掛かってきたかと思えば、「話したいことがある」と言う。その時の声音や雰囲気で、なんとなく告白かな、とは思った。

 約束をした日に僕の家の近所までやって来た宗実さんは、案の定僕に「ずっと好きだったの」と告げた。


「それ、みちるは知ってるのかな?」

「みちるには言ってない。私が瀬戸谷くんを好きなことも、もちろん今日告白することも」


 あぁ、やっと僕に運が回り始めたと思った。僕が少し考える素振りを見せると、途端に宗実さんはソワソワしだす。万が一にも僕と付き合えるかも、だなんて期待しているのだろうか。なんと与し易いんだろうか。

 

「んー、僕も宗実さんのことは好きだよ」

「えっ、じゃ、じゃあ!」

「でも、残念ながら付き合えないんだ」


 どうして、と不安げに揺れる宗実さんの瞳を覗き込み、「分かるだろ?みちるがいるからだよ」と眉尻を下げた。


「僕さ、圭斗とみちるが付き合ってくれたらなぁ、って思ってるんだ」

「……そうなの?私、てっきり瀬戸谷くんはみちるのことが好きだとばっかり、」

「まさか!みちるはただの手のかかる幼馴染だよ。僕がずっと好きだったのは宗実さんさ」

「……嬉しい……!」


 涙がはらりと彼女の頬を滑る。僕はそれを指先でなぞり、「みちるが僕のことを諦めてくれたらなぁ……」と独り言のように呟いた。

 みちるを出し抜く形で僕に告白をしてきたとは言え、宗実さんも良心は痛めていたようだ。「私もそうなってくれたら嬉しい」と、表面的にはみちるの心情を慮った。


「だけど、みちるは絶対に瀬戸谷くんのこと諦めないよ?」

「まぁ、みちるは僕のことが大好きだからね。でも僕に良い考えがあるんだ」

「いい考え?」

「そう。宗実さんは嫌がるかもしれないけれど、僕たちの未来のために頑張ってほしい」


 宗実さんの手を握りながら微笑めば、彼女は壊れたおもちゃのように何度も首を縦に振った。


「圭斗のこと誘惑してくれないかい?」


 その提案に彼女は目を丸くしていたけれど、「大丈夫。僕を信じて」と抱き締めれば、彼女は僕の腕の中で深い頷きを一度してみせた。







「ね、瀬戸谷くん」

「ん?」


 僕が首を傾げると、宗実さんは言い難いのか上目遣いで気持ちを訴えてきた。その欲求を僕は受け止め、彼女に深い口づけを与える。角度を変えて何度も口づけを交わせば、最後は離れ難いというように唾液が糸を引いた。それは真夏のギラギラとした太陽の光に照らされ、銀色に輝くその様はまるで宝物のようであった。


「もっとみちるに見せつけて。あと、宗実さんが圭斗を好きだって、周りの友達にもきちんと報告するんだよ?」


 その言葉に宗実さんは忠実に頷く。僕はそのご褒美だとでも言うように再び口づけを落とした。


「いい子。今日、一度別れてから僕の家においで。セックスしてあげる」


 やはり僕たちを繋ぐ銀糸は宝物などではない。それは捕らえた獲物を離さない蜘蛛の糸。僕の手のひらの上で踊ってくれさえすればそれでいい。

 僕の宝物はただ唯一、みちるだけだ。僕の可愛いみちる。僕たちの未来はきっと明るいよ。




 弓弦くんの素肌の上に羽織った薄いパーカーを握り締めれば、彼はそのまま私を強く抱き締めた。あっ、すごい、胸板厚いし、肩幅も広い。なんて、今さら実感したそんな所にときめいてしまう。


「んっ、あっ、ゆづるくんっ、私、発情してるっ」

「知ってる。今回は完全に俺が悪い」


 コンビニに行く途中の道端で息を荒くした男女が抱き合ってるなんて。はしたない。分かってはいるけれど、とろとろに溶け切った理性と熱に浮かされた頭では、最早そんなことは取るに足らない些細なことであった。


「いいっ、あやまんないで、このまま犯して」


 と懇願を始めた私の唇を弓弦くんが再び奪った。


「見せたくねぇ、誰にも。なぁ、これってなんなの」

「んっ、なにっ?わかんな、あっ」

「はぁっ、白兎っ、お前かわいいよ」


 身体中の血液が沸騰するかと思った。弓弦くんはその驚くほど整った顔で私を「かわいい」と褒める。唇が刹那的に離れる度にその言葉を何度も切なげな声で紡ぐのだ。まるで「好きだ」と言われているみたい。


 即効性の抑制剤が3回分。


 私たちはそれを免罪符にして、飽きるまで唇を重ね合わせた。




「……そろそろ戻んねーと、」

「やだ、ゆづるくんっ、最後までしたい」

「俺だって、」

「ゆづるくんっ、おねがいっ!」

「後悔されたら、傷つく……」


 えっ、後悔されたらって……私に?傷つくって弓弦くんが?

 私がきょとんした表情を見せた一瞬、弓弦くんは間隙を突いて私のポケットから抑制剤を抜き取り、驚くような速さで私の口にそれを含ませた。


「私、後悔なんてしない……弓弦くんとしたい」

「あー、もううっせー!お前は発情してたから馬鹿になってんだよ!」

「そんなの、弓弦くんだって、」


 弓弦くんだって私のフェロモンに当てられて思考力も判断力も鈍っていたのだ。だからこそさっきまで私のことあんなに"かわいい"って……。


「はぁ、まじでしんどい。俺は、お前のこと助けてやりたいとも思うし、佑希のこと裏切りたくないとも思う」

「……うん」

「いや、助けてやりたいってか、ただお前とやりたいだけかもしんねーけど」

「…………」

「なんだよ?……ただ、俺とやってお前が後悔して傷つくのはまじで、なんて言うか……俺が辛い」


 言ってる途中で気恥ずかしくなったのか、弓弦くんは言葉尻を弱め、気まずそうに髪をかき上げた。そしてその時私は初めて知ったのだ。弓弦くんが照れたときの耳の赤さを。

 こんなことで胸が苦しくなるのはおかしいだろうか。しかし事実、私の胸は痛いほどに締め付けられた。抑制剤は効いていて、私の身体は彼を求めてはいない。それなのに、なぜだか今すぐに抱きしめて、キスをしてほしかった。

 


「お前が俺のこと好きになれたら良かったのになぁ?……って、それは無理か」


 気を取り直してコンビニへ向かいながら、弓弦くんはさらりとその言葉をこぼした。まただ、また胸が痛い。私はその痛みを誤魔化すように、乾いた笑みを添えながら彼に言葉を返す。


「……好きになってほしくないって言ったじゃん」

「ああ、まぁ、お前めんどーそうだしな」

「ひどいっ!」

「すぐ泣くし、すぐ怒るし、すぐ発情するし、佑希のことだけ馬鹿みたいに好きだし?」

「そんなの、弓弦くんのが面倒じゃん。偉そうだし、自分勝手だし、言葉遣いは荒いし、人を好きになりたくないって言うし」

「俺は顔が良いから許されるんだよ」

「うっわ、性格わるーい」

「うーわ、かわいくねー」

「かわいいって言ったじゃん……」


 いつの間にか言い合いが過熱して、売り言葉に買い言葉が飛び交った。しかしそれに水を差すように、私が唇を尖らせて事実を言えば、2人の間には一瞬にして静寂が訪れた。

 "かわいい"その言葉こそフェロモンに当てられ、熱に浮かされ、雰囲気に流されて、つい口をついて出てきてしまったものだろう。冷静に考えてみれば、それは弓弦くんの本心ではないのだと分かる。私はなんて自意識過剰な勘違い発言をしてしまったのだ。恥ずかしい……!と、「本気にしてないから」と誤魔化そうとしたし、なんならそうする前に弓弦くんが「本気にすんなよ」ぐらい言ってくると思っていた。それなのに。


「あー、そうだな。俺の名前を必死で呼んでる白兎は、すっげーかわいい」


 照れも衒いもなくそう言うんだもん。ねぇ、弓弦くん。それは反則だと思う。

 心の底から湧き出てくるこの満たされた気持ちはなんだのだろうか。人はそれをなんと呼ぶのだろうか。


「白兎、耳まで真っ赤」


 弓弦くんは私を揶揄いながら笑ったけれど、弓弦くんにだけは言われたくないなぁ。

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