9.真夏のきらめく太陽

 私が立ち上がれば弓弦くんは警戒心を露わにした。


「おい、変なこと考えんなよ?佑希が悲しむぞ」

「……っ、だって、こうしないと、病気が治らないと、佑ちゃんとエッチできないんだもん!」


 えぐえぐと泣き出した私のことなどお構いなしに、弓弦くんは「どういうことだよ」と詰問を始める。観念した私が"佑ちゃんとは遺伝子の相性が悪い"ことを伝えれば、弓弦くんは盛大にため息を吐いた。


「なおのこと佑希に聞けよ!」

「聞いて、いいよ、ってなったら?」


 涙声で訴えた私に、弓弦くんは「そうなることはないと思うけど」と前置きをした上で。


「そん時はしてやるよ、セックス」


 と、諦めたように肩を落とした。




 あれほど意気込んで弓弦くんを訪ねたというのに、蓋を開けてみれば滞在時間は1時間にも満たなかった。それでも収穫がなかったわけではない。佑ちゃんに許可を取れば性行為をしてくれる、という言質は取った。そうなれば私のやるべき事は一つだ。

 分かっているのに、なかなか踏み出す勇気が出ない。"佑ちゃんとしかしたくない"それは揺るがない気持ちであった。だけど佑ちゃんとこれから先も一緒にいるためには弓弦くんにお願いするしかない。そのためには佑ちゃんに「私、弓弦くんとエッチするね」と伝えなければいけない。

 いくら悩んでも結局ここに帰着するのだ。やはり避けては通れない。


 私が決意新たに家の前に着いた時であった。玄関先に蹲るようにしてその人は私の帰りを待っていた。


「佑ちゃん……?」

「……みちる、早かったね」

「いつから待ってたの?」

「そんなことはどうでもいいんだ。楽しかった?」


 随分と早いお帰りだったけれど、と佑ちゃんが緩慢に立ち上がった。あぁ、昨日は上手く誤魔化せたと思ったのに。だけどもう誤魔化す必要はないのか。


「あの、佑ちゃん……話したいことがあるから、部屋に来てほしい」


 私のその言葉に、佑ちゃんは薄らと笑みを浮かべた。




 佑ちゃんの定位置は私の隣だった。私が床に座れば佑ちゃんも床に、私がベッドに腰を掛ければ佑ちゃんもベッドに。今日も佑ちゃんは私の横にピッタリと体を沿わせた。


「で、僕に話したいことって何かな?」

「あ、うん、実はね、」


 あれ、おかしい。と、自身の体の異変に気づいたときには既に発情が始まっていた。どうして、と考えても詮無きこと。始まってしまえば止めることができないのだ。


「あっ、佑ちゃん、わたし、」


 発情してる、という言葉は佑ちゃんから立ちのぼる強烈な悪臭によって封じられた。1秒だってこの場に留まっていたくない。ビリビリと脳が痺れ、体の深くから吐き気が湧き上がってきた。ピタリとくっついていた佑ちゃんから離れたい。そうしないと私の心が壊れてしまう。大袈裟ではなく本当にそう感じるのだ。助けて、怖い、佑ちゃんが怖い。


 そう思ったのと、頭の中で弓弦くんが「助けてほしいならそう言えよ」と私に語りかけたのは同時だった。


「ゆづるくんっ、」


 無意識に彼の名前を呼んでいた。一度でも口をついて出ると流れるように再びその名を呼んでしまう。噎せ返るほどの悪臭の中、私は何度も弓弦くんに助けを求めた。

 しかしここにいない人に助けを求めたところで、その願いが叶えられるはずもない。冷めた瞳に青い炎を燃やした佑ちゃんは、私の机から抑制剤を取り出し、それを口移しで飲ませた。

 鼻で息をしようものなら吐いてしまう。口呼吸を続ける開きっぱなしの私の口腔へ抑制剤を流し込むことは、造作もなかっただろう。佑ちゃんとした初めての口づけは酷く悲しいものになった。


「佑ちゃん、……っごめん、」

「なにが?みちるが僕の匂いを嫌悪するのは仕方のないことだろう?」

「……うん、それでも、私っ……、佑ちゃん、私、」


 佑ちゃんが好きなの、と、今この状況でどうして言えるだろうか。先ほどまで違う人の名前を呼んで助けを求めていたこの口で、どうやって愛を紡ぐことができようか。だめだ、言い訳もできない。

 病気だから仕方のないこと、と割り切れるほど、私は大人ではなかった。




 落ち着きを取り戻すとさっきまでの悪臭は嘘みたいに消え去っていた。やっぱり弓弦くんとエッチしたい、だなんて、いくらなんでも言えないよ。後ろめたさに下唇を噛み締めてしまう。そんな私を咎めるように佑ちゃんは顎を掬い、「血が出てしまうよ」と下唇を優しくなぞった。


「あっ、ごめん……」

「僕の大切なみちるを傷つけないでくれる?」


 と、いたずらに微笑まれ、私もやっと頬を緩める。


「そうだ、今度の日曜日出かけようか」

「えっ、うん!やった!どこに?」

「うーん、海?」


 小首を傾げながら笑みを添えた佑ちゃんは、今一度私の顎をくすぐるように指先で優しく触れる。


「海?佑ちゃんが海って新鮮だね!」

「あー、僕とみちるだけなら選ばないよね」

「ん?」

「僕とみちる。それに宗実さんと、圭斗。みんなで行こうね」


 そう言った佑ちゃんは柔和な笑みを浮かべながら、私をそっと抱き締めた。





 佑ちゃんは一体なにを考えているんだろう。どうして綾ちゃんと弓弦くんを誘ったのだろう。佑ちゃんの考えを理解しようと想像してみたけれど、私には皆目見当もつかなかった。そもそも、綾ちゃんは来るとして、弓弦くんがその誘いに乗ってくるとは到底思えない。たぶん弓弦くんは来ないんじゃないかな。


 しかしその日になってみれば、私の予想に反して、弓弦くんは待ち合わせ場所に来ていた。しかも綾ちゃんと楽しそうに話してるし……。その光景を見てチクリと胸が痛む。

 綾ちゃんは私と違って誰とでもすぐ仲良くなれた。可愛い見た目そのままに気さくで親しみやすい。屈託なく笑いかけられれば、みんな綾ちゃんのことを好きになってしまうのだ。もしかして、弓弦くんも……?それを悲しいと思うのは、そうなってしまえば私と弓弦くんのエッチする機会がグンと遠ざかってしまうからだ。うん、そうに違いない。


「ごめん、待たせたね」

「おー、待ったわ」

「ちょっと嘘つかないでよ、さっき来たとこだから」


 悪態をつく弓弦くんを窘めるように綾ちゃんが訂正を入れた。


「おはよ、みちる!」

「綾ちゃん、おはよ。弓弦くんも、」

「おー、」


 綾ちゃんの笑顔は夏の太陽のように眩しくきらめいている。それにひきかえ、私のこの鬱蒼とした雰囲気はどうだろう。夏の太陽の光はより一層私の影を色濃くする。


「みちる?行こうか」


 佑ちゃんが差し出してくれた手を取り、私は佑ちゃんの背中に隠れるようにして後をついて行った。




 近場には有名な大きい海水浴場があった。しかし私たちは、そこから電車で二駅先の小さな海水浴場を目指している。そこを選択したのは、綾ちゃんが「あんな人多いとこ行ったら、絶対に囲まれるよ」と弓弦くんに視線をやったのが決め手であった。

 弓弦くんは謙遜などしない。「それもそうだな」とあっさりと受け入れ、各駅列車に乗り込んだ。


 着いた先には、数えるほどより僅かばかり多い人しかいなかった。たった二駅だ。海の綺麗さは変わらないし、砂浜は人の少なさに比例して美しかった。なのにここがこれほどまでに人が少ないのは、恐らく海の家というものが存在しないからであろう。

 海へ行くとなるとただでさえ荷物が多くなるのに、そこへ食飲料を持って行くとなるとそれはそれは骨が折れる。だからこそ海の家があるあちらの海水浴場を選ぶ人が多いのかな、と思った。


 


「ほんとは瀬戸谷くんと2人が良かったんじゃない?」


 簡易的な更衣室で服を脱いでいた私に、先に水着姿になった綾ちゃんが扉の向こう側から声をかけた。


「え?そんなことないよ?大勢の方が楽しいよ」


 と、それは本音半分建前半分であった。弓弦くんじゃなかったら良かったのだ。他の男の子であったなら、そりゃ緊張はするけれど私は佑ちゃんのそばに居ればいいのだから。

 だけど弓弦くん。彼に近づけば私は強制的に発情してしまう。綾ちゃんもいる、少ないとはいえ知らない人もいる。電車に乗らなければいけない。リスクばかりだ。だからこそ、思慮深い佑ちゃんがこれを企画した意図が分からなかった。


「お待たせ」


 と更衣室の扉を開けた私を見て、綾ちゃんは「おぉー」と感嘆の声を出し、無遠慮な視線を私の胸元に注いだ。


「相変わらず大きな胸ねぇ」

「Tシャツ着るから」

「えー、もったいない」


 綾ちゃんは私の目立つ胸を「いいなぁ」と羨ましがるけれど、うさぎ病の発症と共に急激に成長したこの胸を、私は"まるで男の人を誘うためだけにあるみたい"と好きになれずにいた。




 2人で歩いている砂浜の先に僅かな人集りができていて、「またか」と思わず綾ちゃんと顔を見合わせた。


「ま、目印になっていいよね」


 綾ちゃんはからりと笑うけれど、私のTシャツで隠された胸はザワザワと波打っていた。


「綾ちゃんは、その、ヤキモチって妬く?」

「うーん、まぁ人並みに?みちるは妬く必要ないでしょ?瀬戸谷くん、みちるにベタ惚れだもんね」

「……っあ、そ、そうかな、そんな自信ないよ」


 綾ちゃんの視線から逃れるように咄嗟に俯いたのは、自分の愚かさに気付かされたからであった。私、今、何に対してヤキモチ妬いてた?佑ちゃんのことなど頭になくて……弓弦くんを取り囲む女の子たちに嫉妬するなんて。


「そうだ、みちるには言っときたいんだけどね、」

「……ん?うん、」

「私、弓弦くんのこと好きなんだぁ」


 私は綾ちゃんの告白になんと返したのだろう。ただ頭の中で「弓弦くんのことは諦めなきゃ」と繰り返していた。

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