8.瞳を三日月に細めて
気がつけばあっという間の夏休み。今日も今日とて私は佑ちゃんの部屋に入り浸っていた。
中学生の間は絶対に部活に入らなければいけなかったので美術部に入部していたが、高校ではそのような規定はない。関わる人の数を出来るだけ減らしたい私は迷わず帰宅部を選んだ(いや、帰宅部なんて存在しないんだけど)。なので夏休みはご覧の通り、毎日佑ちゃんと過ごしている。
ちなみに佑ちゃんもそんな私に付き合って、中学時代は美術部に入っていた。そして高校も迷うことなく部活に入らないことを選んだ。
どんなこともそつなくこなす佑ちゃんだ。どんな部活に入ってもやっていけそうなものだけれど。それでも佑ちゃんは私を家まで送り届けること、私と一緒に居る時間を選んだ。
それは佑ちゃんの純粋な好意だろが、それを受け取る私が純粋に嬉しさだけを感じているか、と言えば話は変わってくる。心苦しい。佑ちゃんの貴重な時間を消費している。佑ちゃんの可能性を私が潰している。そのことが苦しかった。
もちろん佑ちゃんは「僕がみちるのそばにいたいんだ」と「みちるが申し訳なく思う必要はないんだよ」と微笑むだろうけれど。
日常のそこかしこに落ちている後ろめたさや心苦しさを感じるたびに、私はやはり弓弦くんに抱いてもらう決意を固めるのであった。
「そういえば、明日の予定は?」
「明日は友達と遊ぶよ!」
「そう。宗実さん?」
「ううん!明里ちゃんとヨッシー!」
私の口からは淀みなく嘘が流れる。「そう、楽しんでおいで」と笑った佑ちゃんの瞳の奥に、鈍い光など少しも見えはしなかった。
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それは夏休みに入る直前に行われた東西体育祭のことであった。
東西体育祭とは、以前は一つの学校であった飾西高校と飾東高校が二つに分けられた頃から開催されている両校の交流の場である。
体育祭は両校の代表生徒が参加するので、正直に言えば運動神経の悪い私のことはお呼びではなく、応援に専念するのみなのだ。まぁ、私はそれで全然良いどころか、ありがとうございます!とお礼を言いたいぐらいなんだけど。
そんな応援に専念していた最中、尿意を催した私は静かにお手洗いに立った。そしてそれを済ませてお手洗いから出た先で、「もしかして白兎みちる?」と声をかけられたのだ。
「え?」
と、声のした方を見ればそこには同じ中学校で飾東高校に進学した浜口くんがいた。浜口くんは無遠慮に私に近づき「瀬戸谷はいないのか?」と佑ちゃんの名前を口に出した。
正直に言えば、私は浜口くんのことが苦手であった。自分も佑ちゃんの後をついて行ってるくせに、私に会うたびに「瀬戸谷の金魚の糞」と馬鹿にしてきたのだ。それだけではなく、私は浜口くんの値踏みするような視線も苦手だった。じっとりと体のラインをなぞるように視線を這わせる。その視線は今も変わっていないようで、居心地が悪い。
「うん……いないよ。それじゃ、私もう行くね」
「まぁ、待ってよ。せっかく久しぶりに会えたんだしさ。そういや、瀬戸谷とは付き合えたの?」
「え、いや、……それはまだ、」
「ギャハハ、まじかよ?!さすがに脈ないんじゃね?そうだ、オレが代わりに付き合ってやろうか?」
浜口くんは余計なお世話を口にするや否や、ずいと私に体を近寄らせ、徐にその手で私の髪を撫でつけた。その途端ぞわりとした悪寒が体を走り抜ける。本当に怖いと声も出せないのか。好きでもない異性に性的な目を向けられることは、こんなにも恐ろしく気持ちの悪いものなのか。弓弦くん、ごめんね、と私は場違いに弓弦くんへの謝罪を心で唱えていた。
「あ、」
「あ?」
「え?」
一瞬、頭が生み出した幻覚かと思った。だけども私を認めた弓弦くんの視線が頭に乗っている浜口くんの手に移り、「はぁ、」と呆れたように溜め息をついたことで、幻覚でないことを知る。
その溜め息に私の心は必死で弁明を始める。違うの、これは私が誘ったんじゃないの。誰にでも発情するわけじゃないの。私は弓弦くんにしか発情しないよ。
「だれ?」
あまりにも整った容姿の弓弦くんを視界に捉えた浜口くんは顔を引き攣らせながら、遠慮気味にそう口にした。その質問は私にされたのであろうが、私は彼に弓弦くんのことを教えたくなかった。ぎゅっと口を結んだ私の代わりに、弓弦くんが「同級生でーす」と答える。全くその通り。私たちの関係性はそれ以上でもそれ以下でもない。
「そうなんだ、えっと、」
「あ、どーぞどーぞ。僕にお構いなく。続けてください?」
「っえ、弓弦くん、」
まさかの、予想外過ぎる弓弦くんの言葉に咄嗟に名前を呼んで引き止めた。浜口くんも驚いたようで口を開けたまま弓弦くんの方を見ていた。
しかし私が名前を呼んでも弓弦くんは返事をしてくれない。それどころか、ただじっと私を見つめるだけだ。
「ゆづるくん」
と再び彼を呼んだ声は今にも消えてしまいそうな程頼りない。だけどそのか細い声に弓弦くんはスッと目を細める反応をみせた。その感情の読めない瞳に恐怖心を煽られたのは、私ではなく浜口くんであった。私の腕を掴んでいた浜口くんの手に力が込められる。反射的に「痛っ、」と顔を歪めた私に、弓弦くんが声をかけた。
「そのお口はなんの為についてるんですかねぇ?助けてほしいならそう言えよ」
どきりとした。その言葉に私の痛い所を突かれているようで、心臓が一度、大きく泣いた。
「……たすけて、弓弦くん」
先ほどよりもか細い声であった。口にした私の耳にも届かないほどの声に、弓弦くんは嬉しそうに目を細める。あぁ、三日月みたい。弓弦くんの色気のあるうるうるとした瞳は、笑うと無邪気な子供のようで。その綺麗な三日月型に細まった目を見て、私は苦しいほどの動悸を覚えた。
弓弦くんが悠然と私たちに近づいてくる。浜口くんは緊張で声も出せないようだ。
「やめときな。お前のような雑魚じゃあ、面倒臭い白兎は扱いきれないよ。ほら、分かったらとっとと退け」
弓弦くんは浜口くんに、にこり、と笑いかける。息を飲むほどに美しく、そして心が凍りついてしまうほどに冷たい。浜口くんは「ひっ、」と短い悲鳴を上げ、その場からそそくさと逃げるように去って行った。
なんだか私のことを"面倒臭い"と形容したと思うけれど。それでも助けてくれたことは事実だ。私が「ありがとう」と言えば、「ほんとめんどーな女だな」と再び悪態をつく弓弦くん。そんな彼に、私は厚かましくも、ここがチャンスだと面倒なお願いを口にした。
「あの、相談したいことがあるから、連絡先教えてほしい」
「……絶対にやだ」
「な、なんでぇ?」
「お前と関わりたくないから」
それを言われてしまえばもう何も言えない。しかも好きじゃない人に迫られる気持ち悪さを、先程身をもって感じたところだ。だけど引けない。申し訳ないけれど、弓弦くんには私と佑ちゃんの未来のために犠牲になってもらいたい!
「お願い、弓弦くんにしか言えないことなの」
と、なかなか引き下がらない私に根負けしたのか、弓弦くんは「相談は聞いてやる」と肩を落とした。
「けど、連絡先は教えねー」
「じゃあ、どうやって相談すれば、」
「8月1日、時間はいつでもいいから俺んち来いよ」
「え?」
「そこで聞くわ。じゃーな」
「ちょっ、ちょっと、待って!なんで8月1日?!」
困惑する私に、弓弦くんは「覚えやすいから」と、なんとも力の抜ける答えを寄越す。笑った弓弦くんの瞳は、やっぱり三日月の形をしていた。
そして明日、佑ちゃんに嘘をついて私は弓弦くんに会いに行くのだ。
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そもそも何時でもいいって、一体なんなんだろうか。あれから何時がいいかをずっと考えてきたけれど、正解がなさすぎて悩むのに疲れてしまった。
10時ぐらいに行って昼食前にお暇するか、それとも昼食後の13時ぐらいに伺うか。訪問時間はこの2択に絞られていた。
というか、ご両親はどうなんだろうか。一応平日だけど、もし鉢合わせてしまえば気まずいことこの上ないし。そもそも弓弦くんはそういうこと気にしないのかな?って、考えても仕方ないんだけど。
そして考えに考えて、もうめんどくさーい、って放り投げて、私は10時に伺うことを決めた。それは弓弦くんのことを気遣ったというわけではなくて、私が一刻でも早く弓弦くんに相談したかったからだ。結局私は自分の気持ちを優先した。
10時を少し回った頃、緊張に震える指先でインターホンを押した。ややあって玄関が開き、髪がボサボサの弓弦くんが現れる。
「はえーわ」
「えっ、ごめん」
文句を言うぐらいなら初めから時間を指定してほしかった。そう思ったけれどもちろん言えるはずもなく。謝罪の言葉を口にしながら「出直そうか?」と聞けば、「入れよ」と弓弦くんは顎で指示を出した。
通されたリビングには誰もいなかった。どうやらご両親は不在のようで、その事実に胸を撫で下ろす。
「あの、これ、良かったら、」
と遠慮気味に差し出した手土産を覗いた弓弦くんは、途端に瞳を輝かせた。
「おー、お前センスいいじゃん。俺好きなんだよ」
こんな風にはしゃぐ弓弦くんを見たのは初めてである。最近近所に出来た流行りのパティスリーのチーズケーキ。持ってくか悩んだけど、持ってきてよかった、と無意識に破顔した自分の頬をさすった。
「でー?相談って?」
どかりとソファに足を広げて座り、弓弦くんは早速と言うように話題を投げかけた。
心の準備は散々してきたとは言え、いざ口に出すとなるとやはり躊躇してしまう。前回と同じ位置に腰を下ろした私は、決意が揺らがないように拳を強く握った。
「あ、の、実は、私と弓弦くんって相性がいいの!」
「……は?」
何から話そうとパニックになった結果がこの様だ。事実なのか主観なのかも分からず、要領を得ないことを突然告げられた弓弦くんは、これでもか!というぐらいに顔を歪めた。
「いや、違くて。あ、相性はいいんだけど、そういうことじゃなくて」
「落ち着け。全部聞くから」
そう言った弓弦くんの優しさに掬い上げられて、私は"遺伝子的に相性が良い人が存在すること""発情すれば匂いで分かるということ""私にとってはそれが弓弦くんであること"を伝えた。
「あぁ、だから香水がどうのこうのって言ってたのか」
「う、うん。そうなの」
「へぇ?で?」
まさかこれを言うためだけに、今日この場を設けさせたわけじゃないだろ?、と弓弦くんの表情が暗に語っている。私はカラカラになった喉をごくりと鳴らし、いよいよ本題に入った。
「で、ね。その相性が良い人と、その、エッ……いや、そういうことをすれば、ホルモンバランスが安定してうさぎ病が治るかも、しれないの」
「…………」
「だから、だから、その、あの、」
「佑希は?佑希は知ってんのか?」
「え?」
「俺とお前がセックスするかもしれないって知ってんのか?」
「し、知らない。言ってない。言えないよ」
「はぁ……なら俺もできない」
弓弦くんはキッパリと拒否の意思を示した。だけどそうしないと、私と佑ちゃんは未来を見れない。ここで引き下がるわけにはいかなかった。
断られたら最後の手段を取ろうと決めていた。それは私が弓弦くんに近づき強制的に発情を迎えることだった。そうすれば私のフェロモンに当てられた弓弦くんとセックスできる。理性がグラグラに揺れて快感に溺れやすくなることは、これまでの発情で実証済みであった。
しかし同意なき性行為はただの犯罪である。それは十分に理解していた。だけど、これ以外にどんな方法があるというのだろう。
今日私は抑制剤をここに持ってきていない。
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