6.これでさよなら

 気づいた頃にはどっぷりと日が暮れていた。勢いよく起き上がり真っ暗な部屋をキョロキョロと見回す。しかしこの部屋を照らす明かりといえば窓の外にある遠い街灯のみで、それは全体を把握するには些か頼りない。


 徐々に慣れてきた目が薄っすらと部屋を形取ってゆく。あ、そうだ、ここ弓弦くんの部屋だ。今になってやっと理解できたほどには、私の頭は惚けていたみたいだ。

 しかしいくら目を凝らしてみてもこの部屋の主はどこにも見当たらない。どこに行ったの、と覚束ない足取りでなんとか部屋の扉を開けて廊下へと出た。


 人様の家を許可なく歩くことに抵抗はあった。だけど私も帰らなければいけない。正確な時間は分からないが、いつもはもちろん帰宅している時間であることは明白だ。一応友達と遊ぶと伝えたとは言え、お母さんも心配しているだろうし、……それに佑ちゃんも。

 なんて誤魔化せばいいの、と先の事を考えながら、ゆっくりとリビングの扉を開けた。


「あ、起きた」

「弓弦くんっ、」


 何故だか分からない。分からないのだけれど、弓弦くんの顔を見た途端に涙が溢れた。


「本当にごめんなさい……私っ、ごめん、」


 ごめんなさい、とそれしか言葉が出てこないのだ。自分自身への嫌悪感と、弓弦くんへの申し訳なさ、そしてあられもない姿を見せてしまった羞恥心。それらをごちゃ混ぜにして出来上がった"ごめんなさい"を、弓弦くんはソファにじっと座ったまま聞いていた。


「もういいから。謝んな」

「うっ……うっ、」


 グズグズと泣き止まない私に弓弦くんはため息を吐いて「あー、ったく」と苛立ちをぶつけるかのように、自分の髪を乱暴にくしゃくしゃとかき混ぜた。


「泣き止め」

「……はいぃ」


 なんと情け無い声だろう。しかしそんな私の声を聞いた弓弦くんは「変な声」と明け透けな物言いで、次の瞬間には耐えきれない様子で笑い出した。

 本当に嫌な人!なにも笑わなくてもいいじゃん!と腹立たしいのに、あまりにも楽しそうに笑うものだから毒気が抜かれてしまう。

 いつの間にか涙が引っ込んだ私は、「帰ります」とリビングに置きっぱなしにしていた荷物を手にした。


「おー、気をつけろよ」


 そう言いながらヒラヒラと手を振るだけの弓弦くん。まさかここでさよならなんだろうか。普通玄関まで見送らない?と思ったが、私の発情に何度も巻き込まれてきた弓弦くんからすれば、少しだって一緒にいたくないのかもしれない。


「あ、そうだ。私がうさぎ病だってこと、誰にも言わないでほしい……」

「……佑希は知ってんの?」

「うん、知ってる。でも佑ちゃんにも言わないで、弓弦くんが知ってること」


 私の声が切羽詰まったように震えた。それに気づいたのか、弓弦くんがチラリと私の方を見やる。そして弓弦くんは「言わねーよ」と、傷ついたように笑った。


「あっ、ちがうの、」


 弓弦くんのこと疑ってるとか信じてないとかそういうことじゃなくて、と弁明しようとした私の言葉は、弓弦くんの「そうだ、」と言った声に遮られた。


「俺ら、もう近づかないでおこうぜ」


 弓弦くんは前だけを見ていた。だから私は彼がどんな表情でそれを言ったのか、それを知ることができなかった。きっとなんともない、いつもと同じ飄々とした顔をしているに違いない。それに僅かでも寂しさを覚えてしまう私がおかしいのだ。

 いや、そもそも弓弦くんにしてみればそう思うのは至極当然のことだ。近づくから発情してしまうのだ。それなら近づかない。それは正しい答えであった。


 私が探していた人は絶対に弓弦くんだ。だけど「佑希を裏切りたくない」と私を抱いてくれなかった弓弦くんには、関係のない話だ。





 私が家に帰ると案の定、佑ちゃんがリビングで待っていた。それは弓弦くんの家から帰る道すがらで確認したスマホの『みちるの家で待ってるよ』というメッセージで分かっていたことだ。

 お母さんよりも佑ちゃんの方が心配しているんだもん。お母さんより佑ちゃんを誤魔化す方が骨が折れそうだ。


 お母さんの「ご飯は?」に「今はいらない」と返して、佑ちゃんを自室に招く。扉が完全に閉まったことを確認するなり、佑ちゃんはとびっきりの笑顔で「楽しかった?」と柔らかな声を出した。


「た、楽しかった。だからこんな遅くになっちゃって……ごめんね」

「かまわないよ。みちるが楽しめたのなら良かった。えっと、宗実さんとだったよね?」

「うん、そう、綾ちゃんと……」


 私のその言葉を聞いた佑ちゃんはくつくつと肩を震わせて笑い出した。それにヒヤリと背筋が凍り、肌が粟立つ。私もしかして選択を間違えた?と、自分の言動を後悔しても後の祭りだ。


「騙すならちゃんと騙さなきゃダメだろ?本当は誰といたの?」

「…………」

「余りにも帰ってくるのが遅いから、心配で宗実さんに連絡したよ。そしたら遊んでないって」


 ほら、誰と一緒にいたの?言ってごらん?、と私に問いかける佑ちゃんはいつも通りに優しい笑みを浮かべている。それを怖いと思うのは私自身の後ろめたさのせいだ。


「……あの、その、」

「怒ってないし、怒らないよ。ただ知りたいだけさ」

「ゆ、弓弦くんと、」

「うん、圭斗と?どこに?」

「弓弦くんの家に」

「へぇ、家で?何してたの?」

「……っ、」


 それは口が裂けても言えなかった。ここまでだって佑ちゃんには知られたくなかったのだ。こんな尻軽女みたいな行動。幻滅されたくない。

 ぎゅっと固く口を結んだ私を佑ちゃんは柔らかな力で抱きしめて、背中を何度も指先でなぞった。


「んっ、佑ちゃんっ、」

「……もしかして、圭斗が探してた相手だった?」


 無言は肯定である。何も発言しない私に、佑ちゃんは「やっぱりそうだったか」と眉尻を下げた。


「でもしてないの、ほんとにしてない」

「どうして?」

「どうしてって、それは……私は佑ちゃん以外としたくないから」

「……圭斗とすれば、みちるの病気が治るかもしれないのに?」




 私がうさぎ病を発症したのは、小学6年生。それも大好きで仕方がない佑ちゃんの前でだった。


 私たちはその日も2人で向かい合って宿題をしていた。俯いたことによって見える佑ちゃんのつむじがかわいい、と呑気なことを考えていた。そんな私を突如襲ってきたのが訳の分からない性的欲求であった。


 本当に急に、なんの前触れもなく、目の前の佑ちゃんとセックスがしたいと思った。そりゃ私だって耳年増の友達に聞いて性知識はそれなりにあったし、ここだけの話、自慰行為をしたことだってあった。

 だけどそんな日常に潜むような欲求ではないのだ。自分の意思では制御できないほどの欲求。それは発情と言って差し支えなかった。

 今まで真面目に勉強をしていた幼馴染が急に「エッチしたいよぉ」と近づいてきたのだから、佑ちゃんはさぞ驚いたと思う。そしてそれよりも困惑の気持ちが大きいことは、動揺に揺れる佑ちゃんの瞳が物語っていた。


 しかしそんなことなどお構いなしに私は佑ちゃんとの距離を詰めた。


「ねぇ、チューしよ?」


 そう言いながら私が佑ちゃんの膝に跨ったときであった。噎せ返るような強烈な匂い。私は佑ちゃんから発せられるその匂いに嫌悪感を覚え、瞬時に距離を取った。私の全細胞が佑ちゃんを拒絶していると言っても過言ではない匂い。その匂いに興が削がれ、私は一回目の発情を終えた。


 そしてその後お母さんに説明し(本当は嫌だったけれど、心配した佑ちゃんがどうしてもと言うので渋々報告した)、連れて行ってもらった先の病院で"うさぎ病"という診断を受けた。


 その際、先生が私を気遣い、2人っきりで話す場を後日設けてくれた。症状が症状なだけに、不安なことや不明点を親の前で口にはできないだろう、と配慮してくれたのだ。

 そこで私は先生にあの匂いのことを告げた。先生は「うーん」と難しい声を出した後、「これはまだ検証段階なんだけれど」と前置きをした上で一つの仮説を提示してくれた。


 どうやら人間は匂いで相性の良い遺伝子を嗅ぎ分けているようだ。そしてうさぎ病を発症した人は発情すると嗅覚が鋭くなり、その力が何倍も強くなるということであった。

 ということは、私と佑ちゃんは遺伝子の相性が良くないということになる。


「もしかして、私は佑ちゃんとエッチできないってことですか?」


 オブラートに包むことを忘れた私の言葉に先生が一瞬たじろいだ。しかしすぐに表情を作り、「そこはなんとも言えないけれど、」と言葉を濁した。それは遠回しの肯定であった。

 絶望。筆舌に尽くしがたい絶望。私は大好きな佑ちゃんとのこれからの全てを否定されたのである。茫然自失の私に、「でも」と先生は言葉を繋げる。


「逆に相性の良い人はとても良い匂いがするんだ」

「……?」

「そして、うさぎ病の患者はその匂いを嗅ぐと強制的に発情してしまう」


 先生の言いたいことが分からなくて、私は首を傾げた。


「症例が少なすぎて、まだ研究段階なんだけれど。それ程相性の良い遺伝子を持った人と性交渉をすれば、ホルモンバランスが安定し、うさぎ病が寛解した例もあるんだ」


 先生はそれをまるで希望のように話したけれど、私にとってはやはり絶望以外の何物でもなかった。

 結局私が佑ちゃんと添い遂げるためには、私があの強烈な匂いを我慢するか、それとも好きでもない人に処女を捧げ病気を治してもらうしかないのだ。


 普通に、平凡に、順当に、佑ちゃんと幸せになる方法はないのだろうか。


 とてもじゃないが一人で抱えきれない。私のことを心配して部屋で帰りを待っていてくれた佑ちゃんに、私は全てを洗いざらい話した。

 それを聞き終わった佑ちゃんは「なんだそんなことか」と安心したように笑った。


「僕はみちるのそばにいられたらそれでいいんだ」


 それは究極の自己犠牲ではないか。彼に性欲がなければそれでいいのだ。だけどある性欲を我慢させること、それは拷問に等しいことだ。

 だけど優しい佑ちゃんはそれを辛いことだと思わずにしてしまうだろう。そんなの、私が苦しい。佑ちゃんの人生を犠牲にしたくはない。

 かと言って、佑ちゃん以外の人と性行為をするだなんて、考えただけでも吐きそう。

 

 だから私は佑ちゃんに好きだと言えない。付き合ってと言えない。

 だけど佑ちゃんの気持ちは理解しているし、佑ちゃんも私の気持ちを知っている。

 私たちは微妙なバランスでなんとか支え合っている、そんな歪な関係なのだ。

 そして最悪にも、出会ってしまった。私の病気を治してくれるかもしれない相手、弓弦圭斗に。それでもやっぱり、私は佑ちゃんがいい。佑ちゃんに私を抱いてほしい。

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