5.惚れたら負けだね、ご愁傷様

 佑ちゃんは怪しむように目を細め、後ろめたさに泳いでるであろう私の瞳をじっと見つめた。


「宗実さんと遊ぶの?」

「う、うん。そ、綾ちゃんと、遊ぶの」

 

 だめだ、佑ちゃんの目を見られない。言いながら逸らしてしまった私の視線を佑ちゃんは追いかける。そんな私の視線の先に回り込み、にこり、と人好きのする笑みを浮かべた佑ちゃんは「気をつけるんだよ」と、私を気遣う言葉を紡いだ。

 優しい佑ちゃんらしい言葉だ。それなのに私はごくりと唾を呑む。嘘をついている後ろめたさと共に、佑ちゃんから伝わってくる少しの怒気に怖気付いてしまう。佑ちゃんは私の嘘に気づいている。それが分かっていても、私の口から「弓弦くんと2人で会うの」とは到底伝えられない。それは佑ちゃんへの恋心に対する裏切り。即ち、佑ちゃんへの裏切りに他ならなかったからだ。


「もし発情したら?」

「ゆ、佑ちゃんを呼びます」

「うん。分かってるならいいんだ。気をつけて行っておいで」


 別れ際のいつものセリフ。佑ちゃんは私の脳に刻みつけるように言葉を紡がせた。

 全くもって守れていない約束を口から吐き出すことに良心がズキズキと痛む。佑ちゃん、ごめんね。私、何度も弓弦くんに縋ったの。佑ちゃんのことを思い出す余裕なんて少しもなかったの。それどころか、ファーストキスも済ませちゃったよ。





 弓弦くんに指定された"光が丘駅"で私は一人、そわそわと弓弦くんの到着を待っていた。

 学校から2人で帰ることを絶対に避けたかったのは弓弦くんも同じだったようで。この待ち合わせ場所に文句はないのだけれど、同じ高校の人にいつ目撃されるかも分からないこの状況を早くなんとかしたかった。


 それにしてもさっきの佑ちゃん、少し怖かったな。と、佑ちゃんの窺うように細められた目を思い出す。発情したら佑ちゃんを呼ぶ……佑ちゃんに解消してもらう。弓弦くんには縋らない。弓弦くんには発情しない。


「なに一人でブツブツ言ってんの、こえーんだけど」

「わっ!ごめんなさいっ!」


 自分のするべき事を確認するように呟いていた私の背後から現れた弓弦くんは、引いたように顔を歪めた。脊髄反射的に謝った私に弓弦くんはなおのこと気味悪さを覚えたのか、歪めた顔はそのままに「行くぞ」と前だけを見て颯爽と歩き出す。その後をついて行く私の歩幅などお構いなしに、その長い足を自慢するかのように悠然と歩く弓弦くん。早歩きをしているわけでもない弓弦くんについて行こうとすれば、悲しいかな私は小走りになってしまう。

 本当に優しくない。佑ちゃんは絶対に私に合わせてくれる。……いや、これが好意があるかないかの違いなのかな。弓弦くんも好きな子には歩幅を合わせるような優しさを見せるのだろうか。ツキン。


「……?」


 針で刺されたような小さく鋭い痛みが私の胸を襲った。その感覚に首を傾げ、歩みを緩めた私を見やった弓弦くんは「おっせーよ」と苛立ちの声を上げた。





 弓弦くんの家に着いてすぐに「リビングと俺の部屋どっちがいい?」と聞かれ、迷わず「リビングで」と言い切る。弓弦くんの部屋は香水の匂いが染み付いているかもしれない。そうなれば弓弦くんの部屋へ踏み込んだ途端に、私は強制発情が約束されているようなものだ。そんなの怖すぎて無理。

 

「じゃあ、テキトーに座って」


 と、弓弦くんはソファにどかりと腰を下ろした。テキトーにって……。私はキョロキョロとリビングを見渡し、弓弦くんと出来るだけ距離の取れるテレビ前の床に座り込んだ。

 床に座れば冷えるだとか、そんなことを気にしている余裕はない。第一優先事項が弓弦くんと距離を空ける、なのだ。そう思えば、家までの道中、先々と一人で歩いていた弓弦くんの行動には感謝しなければいけないのかもしれない。


 私が腰を落ち着けたのを確認するや否や、弓弦くんは「お前もしかして"うさぎ病"とかってやつなの?」と核心に触れた。繊細な話題のはずなのに、少しも気遣うことのない話の切り込み方があまりにも弓弦くんらしくて私はつい笑ってしまう。

 そんな私を見た弓弦くんは「ついに気でも触れたか?」と小馬鹿にしたようにフッと嘲笑を漏らした。本当にどこまでも優しくない、失礼な人。


「そうだよ、私"うさぎ病"なの。その、巻き込んじゃってごめんね……」


 ついに病気であることを告白してしまったが、やっと謝れた。これで私の責務は全うされたわけだ。あとはもう二度と弓弦くんに近づかなければ良い。ホッとため息を吐いた私に、弓弦くんは「へえ」と感慨深げに声を上げた。


「まじでいるんだ。AVでは見たことあるけど」

「…………」

「あ?なんの目だよ。別に馬鹿になんてしてねーよ」


 馬鹿にしてないにしても、私の前で出す話題ではないだろう。しかし弓弦くんに直接文句を言う度胸は私にはないのだ、残念ながら。

 一言も話さない私に痺れを切らしたのか、弓弦くんが「あんだけ頻繁に発情してたら今まで大変だったろ」と話題を逸らした。まさか弓弦くんの口から私を気遣うような言葉が出てくるとは……と、彼の優しさに触れるたびに驚いてしまう。


「それが……今まで発情したことなくて、」

「?……へえ。なんで急に?」


 これは言っていいのかな。と、考え込み出した私の煮え切らない態度に苛々とし始めた弓弦くんが「言えよ」と声を低くした。

 私はその声に半ば脅されるような形で「弓弦くんの香水に反応して発情してるみたいで……」と、まだ確定していない曖昧な原因を告げる。


「……は?」


 一段と低くなった声に、怒らせたかな、と不安になったけれど、ここで誤魔化すような態度をとればもっと怒らせてしまいそうだと、「だから、弓弦くんの香水が、」と再び同じ言葉をなぞった。


「俺、香水つけてねーけど」

「え?」

「は?」


 嘘だ、嘘だ。じゃあ、あの甘い香りは……?思わぬ返答に頭の中が軽くパニックになる。そして同時に考えてもみなかった可能性が浮かんできた。もしかして、もしかして、弓弦くんが私の探していた人なの?

 ドクン。心臓が大きな音を立てて、徐々に高鳴ってゆく。ハッハッと荒くなってきた呼吸と、じわりじわりと体の内側から滲み出してくる性的欲求。まただ、なんで、近づかなかったのに。もしかして締め切った部屋に居たから?

 しかしいくら原因を考えても、発情してしまった今、それは無意味なものであった。


「おい、またか?薬どこ?!」

「あっ、んっ、ない、きょう、のんだ」

「は?じゃあどうすんだよ」


 抑制剤は今日の昼休み、あの渡り廊下で飲んでしまった物のみだった。まさか一日に二回も発情するとは思ってもみなかった。これは私の失態である。

 それでも錠剤の方はまだ鞄に入っていたはずだ。液体の抑制剤ほど効き目に即効性はないが、飲まないよりはマシであろう。

 脇に置いていた鞄からピルケースを取り出し、そこから錠剤を取り、なんとか口に放り込んだ。だけど立っていられないほどの欲求がすぐに消えてくれるわけではない。


「ゆづるくん、いれてください、おかしてください」


 と、自尊心をかなぐり捨て、土下座をするように額を床に擦り付けながら、私は自分を卑下するように憐れな懇願をした。


「……できるわけないだろ、お前は、」

「やだ、くるし、の、おねがい、なにしてもいいからぁ、ゆづるくんの好きにして、」


 腰を高く上げ、お尻を突き出し、弓弦くんを誘うようにそれを振る。これでは理性のない動物そのものではないか。

 しかもそれだけにとどまらず、気づかぬうちに下半身に自分の手を這わし始めてしまう。お尻を弓弦くんへ向け、ここに挿れて、と指でそこをやわやわと触る。下着はしとどに濡れており、もうその意味を成していない。下着の脇を持ち上げ、私の秘部を弓弦くんの眼前に晒そうとしたその時であった。


「オナるなら俺の部屋でしろ」


 と、弓弦くんが私を乱暴に担ぎ上げた。


「やだ、ちがう、ゆづるくんにいれてほしいの」


 私は自慰行為がしたいわけではないのだ。ただ弓弦くんを感じたい。弓弦くんに征服してほしい。私は弓弦くんのものだと、身体に教え込んでほしいのだ。


 しかし私の懇願は無視という形で呆気なく却下され、勢いよくベッドへ放り投げられた。


「俺、リビングにいるから、お好きにどーぞ」

「やだやだ、そばにいて」

「……っ、頼むから、俺、佑希の好きな奴に手ぇ出したくないんだよ」


 佑希。弓弦くんが口にしたその名前で、私の僅かに残っていた理性が顔を出した。そうだ、私は佑ちゃんが好き。そして佑ちゃんも、私のことを。


 ベッドに顔を埋めて弓弦くんの匂いを肺いっぱいに取り込む。私のことを覚えてほしくて、ベッドに顎を押し付けながらしとどに濡れそぼった秘部を夢中で弄った。もう分からない。前後不覚になって、左右の区別もつかなくなって、私は愛する人も忘れてしまった。




 リビングに行くと言ったのに、部屋の扉の前から動けない俺はどんな罪に問われるだろうか。ありふれた扉は、白兎の嬌声を俺の耳に届ける障害物にはなってくれない。


「っ、ゆづるく、んっ、ゆづるくんっ、」


 白兎は何度も「イク、イク、」と絶頂を宣言し、そしてその何倍も俺の名前を呼んだ。


「はぁ、きっつー、これどんな拷問だよ……」


 確かに硬さを持っている自分の物を扱くこともできない。今日の昼休み、あちらから、しかも不意打ちだったとは言え、友達の好きな人とキスをしてしまったのだ。これ以上の不義理を働くことはできない。

 何言ってんだ。そもそも家で2人っきりになっている今の状況が不義理だろ。自分のご都合主義の思考に反吐が出る。だけど佑希のことを裏切りたくないという気持ちは本物なのだ。




 

 どれほどそこに突っ立っていただろう。ふと気づいたときには白兎の嬌声は止んでいた。

 念のため控えめにノックをしたが返事は返ってこない。静かに扉を開ければ、白兎は案の定俺のベッドの上で気を失ったように眠っていた。下着を身につけていない下半身と捲れ上がったスカート。ついついそこに視線をやってしまいそうになる己を律してバサッと布団を乱暴に掛けてやる。


 人の気も知らないで幸せそうに寝やがって、と悪態をついてしまいそうなほど、幸福の色に染まった頬に目を向ける。と、同時に気づいた涙の跡。それにそっと指を這わそうとして、俺は咄嗟に手を引っ込めた。

 これは佑希の好きな女だ。そして可哀想な女だ。好きでもない男に縋って、犯してくれと、好きにしてくれと懇願するしかないなんて。

 そんな奴を好きになってしまった佑希もさぞ辛いだろう。俺なら耐えらんないね。好きな女が自分以外の男の前でこんなに乱れるなんて。俺なら力付くで犯すだろう。誰かに奪われるぐらいなら、無理矢理にでも俺のものにする。俺がこの女を好きなら、迷わずその方法を選ぶ。


 しかし佑希は優しいのだ。佑希はこの女が少しでも傷つく可能性があるなら、それを選択しない男だ。短い付き合いの中でもそれは伝わってきた。

 だからずっと待っているのだろう。この女が自分の病気と運命に向き合い受け入れる。そして佑希を自らの意思で選択する。そんな未来を。

 

 俺は目の前で眠る白兎の顔を見ながら、佑希を憐れんでいた。

 

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